内側に道路が通り拡幅が難しいラケット型橋脚(画像提供:首都高速道路)。

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3月7日に首都高中央環状線が全通し便利になりますが、一方で路線が合流する板橋JCT〜熊野町JCT間は渋滞がさらに悪化すると思われます。しかしもしかすると、C2全通で便利になるだけで、同区間の渋滞悪化は避けられた可能性もありました。なぜそれができなかったのでしょうか。

2+2が3になる首都高

 2015年3月7日(土)、品川線の開通により全線開通となる首都高中央環状線(C2)。ただしC2が便利になればその分交通量も増え、首都高全体の渋滞は緩和されても、C2に限っては混雑が増加することが懸念されています。特に以前からボトルネックで渋滞が多発している板橋JCT〜熊野町JCT間(約1キロ)は、その悪化が必至です。

 その対策として現在、この区間の拡幅工事が行われており、3年後には完成の予定です。この2月は週末を中心に、工事のための車線規制も行われました。

 ところで、そもそもここはなぜ渋滞の名所なのでしょうか。

 板橋〜熊野町間は、5号池袋線とC2が重複しています。どちらも片側2車線のため、合流部は2+2で4車線必要なのは小学生でもわかる理屈ですが、なぜか3車線しかありません。しかも重複部では、分流に備えて多くのクルマが車線変更を行いますから、いわゆる「織り込み交通」が発生し、ますます流れは悪くなります。つまり混んで当たり前の構造なのです。

首都高のルールだった「2+2=3」

 実はこのように2+2が3車線になっているのはC2小菅JCT〜堀切JCT間も同じで、こちらは1987(昭和62)年から渋滞が始まっています。いったいなぜ首都高は、こんな設計をしたのでしょうか。いまから25年前、私はその理由を確かめるべく、首都高速道路公団(当時)へ取材に行きました。そして返ってきた答えは、驚くべきものでした。

「合流部は片側3車線で建設するというのが、首都高の内規なんです」

 つまり「渋滞する」「しない」といった必要性以前に、そう決まっているから片側3
車線になったというのです。「ザ・お役所」、当時の首都高はそういうところでした。

 問題の板橋〜熊野町間は5号線の一部でもあるので、開通は1977(昭和52)年とかなり古いです。当時からすでにこの区間は片側3車線で設計・建設済みであり、小菅〜堀切間同様のお役所的発想によって、混んで当然のボトルネックとなったわけです。

 私は自著『首都高はなぜ渋滞するのか!?』(2000年刊)の取材過程で、いずれC2が完成した際、このままでは大変なことになると、板橋〜熊野町間の拡幅を強く求めました。しかしこの区間は、上下線が上下2段に重なっているラケット型橋脚構造(「口」形の橋脚のなかに道路が通っている構造)であり、上段(上り線)は拡幅できても、下は技術的に不可能とのことでした。ならば2車線分は地下にトンネルを掘ってでも拡幅すべしと、ヒステリックなまでに提案したものです。

八ッ場ダムと同じだった首都高

 書籍刊行から5年後の2005(平成17)年、首都高は民営化されました。そして民営化の準備段階からお役所主義は徐々に廃され、渋滞緩和は利用者に対する責務という感覚も明確になっていきました。

 この過程で技術的進歩もあり、ラケット型橋脚でも新たに幅広の橋脚を旧橋脚の両側から挟み込み、通行止めにせず拡幅を実現する「サンドイッチ工法」が登場。そして2008(平成20)年、問題の板橋〜熊野町間について拡幅工事の実施が決定されたのは、首都高研究家の私にとっては「ドリーム・カム・トゥルー」でした。まさか自分の提案が実現するとは思わなかった、というのが実感です。

 首都高社員のみなさんからも、「あのとき提案してくれて感謝しています」という言葉をいただきます。みんな本音では、このままではいけないと思っていたのです。

 ただ実を言えばこの区間の拡幅は、本来なら今年の3月くらいに完成しているはずでした。遅れた理由は政治的なものです。民主党政権は「公共事業は悪」という考え方に基づき、政権獲得と同時に拡幅工事を凍結。ようやく認可が下りたのは野田内閣になってからで、これは群馬県の八ッ場ダムとまったく同じパターンでした。

 工事の遅れによって今後3年間、この区間の渋滞は悪化し、C2の利便性も損なわれます。公共事業には確かにムダなものもありますが、必要性の高いものもあります。これから3年間の渋滞悪化を、それを考えるきっかけにしていただければと願います。