浜本隆志『バレンタインデーの秘密 愛の宗教文化史』(平凡社新書)
著者はヨーロッパ文化論・比較文化論の研究者(関西大学文学部教授)。バレンタインデーについてチョコレートとのかかわりだけでなく、その起源から各国での受容のされ方まで数千年の歴史をたどる形で詳述されている。

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本日、2月14日はバレンタインデーである。日本でバレンタインのプレゼントといえばチョコレート、ということでこの記事ではチョコレートの歴史をちょこっと振り返ってみたい。なお執筆にあたっては、武田尚子『チョコレートの世界史』(中公新書)と浜本隆志『バレンタインデーの秘密』(平凡社新書)をとくに参照にした。

■昭和天皇とチョコレート
終戦直後の1946年5月31日、昭和天皇は連合国最高司令官マッカーサーとの前年9月以来2回目の会見のためアメリカ大使館に赴いた。この会見終了後、応接室から天皇が包みをぶら提げて出てきた。不思議に思った侍従長が訊ねると、天皇は苦笑まじりで「チョコレートをくれたんだよ、マッカーサーが、ね」と言ったという(小林吉弥『天皇のお言葉』)。終戦直後の昭和天皇を描いた映画「太陽」(アレクサンドル・ソクーロフ監督、2005年)でも、イッセー尾形演じる天皇がこのときもらったチョコレートを食す場面があった。

戦後、日本に進駐したアメリカ兵に子供たちが「ギブ・ミー・チョコレート」とねだったという話はよく知られている。闇市にも進駐軍の放出したハーシー社のチョコレートが出回った。一方、当時の日本ではチョコレートの生産は行なわれていなかった。だからといってそれまで日本でチョコレートがつくられていなかったわけではない。

チョコレートが日本で初めて製造・販売されたのは明治初期の1878年のこと。売り出したのは米津風月堂という東京の日本橋にあった店で、当時新聞に出た広告では商品名として「貯古齢糖」「猪口令糖」といった当て字が使われた。ただしこのときのチョコレートはカカオ豆から製造したのではなく、原料チョコレートを輸入し加工したものだったらしい。その後、大正時代の1918年には森永製菓がカカオからのチョコレートの一貫製造を開始する。

終戦後、チョコレートが日本でつくられなかったのは、太平洋戦争の開戦前年の1940年以来、主原料であるカカオ豆の輸入がストップしてしまったからだ。ただし戦時中には、軍ルートで当時日本の統治下にあったマレーシアからカカオが運ばれ、指定された業者にのみ支給はされていた。一部メーカーは軍から要請を受け、高温となる潜水艦や南方戦線で食べられるよう「溶けないチョコレート」の開発を進めていたという。

日本へのカカオ輸入が再開されたのは1950年のこと。やがてバレンタインデーに合わせてデパートでチョコレートが販売されるようになる。まず1956年には不二家がハート型にした菓子(ただしチョコレートだけにかぎらない)を、さらに58年にはメリーチョコレートカンパニーがバレンタイン・チョコレートの販売を行なった。

じつは戦前にも、神戸のモロゾフ製菓がバレンタインデーにチョコを贈る習慣を広めようと1936年に東京の英字新聞に広告を出していたが、ほとんど効果はなかったらしい。戦後も先述のようにデパートでのチョコ販売が始まったとはいえ、本格的にこの習慣が定着したのは1970年代に入ってからのようだ。

■本当は苦いチョコレートの歴史
チョコレートは甘いお菓子だが、それは製造過程で砂糖や甘味料を加えているからで、その主原料であるカカオ豆は甘くない。ポリフェノールを含有したカカオ豆は本来、苦く渋いものなのだ。

チョコレートの歴史もまた多分に苦味を含んでいる。カカオの木の原産地は中南米で、神秘的なパワーの象徴として神々への供物や貨幣としても利用された。それを口にできたのはごく少数の特権階級で、カカオ豆をつぶしてドロドロにした飲料として嗜好された。それが15世紀前半、スペインによってメキシコが征服されると、カカオ飲料はヨーロッパに紹介されてまたたく間に広まった。植民地となった中南米の各地域で先住民のインディオたちがカカオの生産を強いられたが、過酷な労働や病気の蔓延などでその人口は大幅に減少する。

不足した労働力を補うためヨーロッパ人は、アフリカから黒人奴隷を移入させた。こうしてアフリカから中南米・北米へは奴隷が、中南米・北米からヨーロッパへはカカオや銀・砂糖が、ヨーロッパからアフリカへは武器・繊維製品がそれぞれ輸出されるという「大西洋三角貿易」のシステムができあがる。それは19世紀に奴隷貿易が廃止されるまで続いた。

中南米・北米の植民地から砂糖が容易に入手できるようになったヨーロッパでは、菓子類が急速に発達していった。1848年にはイギリスでカカオバターと砂糖を加えた固形の板チョコレートが開発される。さらに1876年、スイスでミルク・チョコレートが発案された。これは西アフリカのガーナにカカオが移植されたのとほぼ同時期だった。ガーナで生産される種類のカカオは苦味が強く、ミルクと混合すると個性が生きるということで、以後世界有数のカカオ産地として成長していく。

こうしてその歴史をたどってみると、チョコレートは植民地や奴隷制に大きく依存しながら世界に広まり発達していったことがうかがえる。その根本にある問題はけっして解決されたわけではない。『バレンタインデーの秘密』では、現代でもカカオが旧植民地において安い賃金で生産されていることや、あるいは子供の就労問題や、自給のための農地がカカオ栽培に転用されることで食料不足が生じるなど、いまなおさまざまな問題が存在することが強調されている。

キットカットの「みぞ」に隠された歴史
もちろんチョコレートの歴史はそうした暗い面ばかりではない。チョコレートが人々の生活を改善したというエピソードもある。たとえば、『チョコレートの世界史』によると日本でもおなじみの「キットカット」にもこんな歴史背景があったという。

キットカットは、イギリスのロウントリー社が1935年9月に「チョコレート・クリスプ」の名称で売り出したものだ。名前は違っても、あの特徴的な「みぞ」はこのころからついていた。この「みぞ」は、男性労働者が仕事場で手軽に食べられるチョコレート菓子をつくり出そうというアイデアから生まれたとされる。たしかに「みぞ」があればチョコレートを簡単に割ることができ、口に運びやすい。

現代から見るとチョコレートで昼食とは何とも貧しい気もする。だが、いまのように人々に栄養がゆきとどいた状況ではなかったこの時代、きつい労働をこなすためには、いかにカロリーを補給するかが重要な社会問題となっていた。そこでチョコレートが注目されたというわけだ。

それ以前、欧米の労働者たちが仕事をこなすためのエネルギー源としてアルコール類を手にとることが多かった。だが、当然ながらアルコールは労働意欲を損ないやすく、その常習者は工場を休みがちになるので経営者をも悩ませた。やがてアルコールの代替物として紅茶が飲まれるようになるのだが、これとても何杯もがぶ飲みできるものではない。そこでお茶うけとしてチョコレートが重宝されるようになる。血糖値をより上げるために、紅茶とチョコレートという組み合わせはまさにベストカップルであった。

■じつはそんなにチョコレートを食べていない日本人
バレンタイン・チョコレートは、イギリスのリチャード・キャンバリーが1868年に「箱入りチョコレート」を発売したのが始まりとされる。だが、チョコレートは欧米ではあくまでバレンタインデーのプレゼントの一つでしかない。それも日本のように女性から男性へ一方的に贈るのではなく、男女の双方向でプレゼントを交換するのが習慣となっている。

日本においてチョコレートバレンタインデーのプレゼントの定番となったのは、菓子メーカーの広告によるところが大きいのだろう。そもそも日本での一人あたりの年間チョコレート消費量は2.2kgと、10kgを超えるスイス・ドイツ・イギリス・ベルギーとくらべれば圧倒的に少なく、5.2kgのアメリカの半分にも満たない(以上、データは2009年のもの)。それを思えば、メーカーがバレンタインデー商戦に力を入れるのも当然といえるだろう。

バレンタインデーの秘密』では、日本におけるバレンタインデーについても一章を割き、そこではたとえば日本独自の習慣であるホワイトデーに贈答儀礼文化の影響を見てとっている。このような日本型のバレンタインの習慣は今後どうなっていくのか。これについては「グローバル化によって早晩崩れ、諸外国と同様、男女の双方向型の贈答パターンに変化することが予想されるという説」と、「外国と日本は国民性が異なるので、大きな変化はなく、このまま日本型が存続するという説」と2つの見方が存在するようだ。いずれにせよ、ここまで定着してしまうと、バレンタインデーはそう簡単には爆発はしなさそうだが。
(近藤正高)