『ジム・スマイリーの跳び蛙 マーク・トウェイン傑作選』マーク・トウェイン、柴田元幸訳/新潮文庫

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新潮文庫に「Star Classics 名作新訳コレクション」というレーベル内レーベルがある。僕の記憶では今年4月からスタートした新訳シリーズだ。
公式サイトを見ると、「Star Classics」は村上春樹・柳瀬尚紀・池内紀・金原瑞人・巽孝之・鴻巣友季子・若島正・松下裕・高野優といった訳者による欧米小説の新訳レーベルとして推されていた。「Star Classics」として刊行されたわけではないそれ以前の新訳、たとえば20年前のカポーティ『夜の樹』(川本三郎訳)あたりまで、遡ってこのレーベルに統合されつつあるようだ。
とくにこの8年ほどは、新潮文庫は新訳に力を入れている。おととしくらいからは、新訳についてはカヴァーの紙質を変えていた。レーベル化した今年は、毎月の新刊が気になっていた。個人的に印象深かったのは5月と6月に出たグレアム・グリーンの『情事の終わり』(上岡伸雄訳)とディケンズの『二都物語』(加賀山卓朗訳)です。

きょうは9月に出た柴田元幸訳『ジム・スマイリーの跳び蛙 マーク・トウェイン傑作選』(新潮文庫)について書きたい。

マーク・トウェイン(1835-1910)といえば大久保博の角川文庫《トウェイン完訳コレクション》で『トム・ソーヤーの冒険』『ハックルベリー・フィンの冒険』『不思議な少年44号』『アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー』が親しみ深いし、今年のNHK連続テレビ小説『花子とアン』で村岡花子が訳していた『王子と乞食』は岩波文庫で読める。
悟空をやる前の野沢雅子さんが主演していたアニメ『トム・ソーヤーの冒険』(1980)をフジテレビの世界名作劇場で観た、という年長の人もいるだろう。

だから、トウェインをユーモアと文明批判の「小説」家、ととらえるのは間違いではない。ないにしても、それはトウェインの半面でしかないらしい。
トウェインは最初から「小説」あるいは「フィクション」を書こうとしたのではなくて、まずは印刷工として、また新聞記者として、定期刊行物(新聞・雑誌)の空間を物理的に埋めるために、とにかく文章(コンテンツ)を作るところからキャリアをはじめた。
このあたり、大西洋の反対側で、同じく貧しい出自から記者を経て国民的大作家となったディケンズにつうじるところがある。
ディケンズが注目されたのは『ボズのスケッチ』(藤岡啓介訳、未知谷)という一連の「文章」がきっかけだった。『ボズのスケッチ』は短篇集というより、あるあるエッセイもあれば、あっさりした短篇小説もある「短い文章のブランド」みたいなものだった。
同じように、トウェインが注目されるきっかけとなった『ジム・スマイリーの跳び蛙』の表題作(1865)も、短篇小説というより「法螺話」なのだ。

この作品は、かつて新潮文庫で出ていた古沢安二郎訳『マーク・トウェイン短編集』にも、いまは亡き旺文社文庫の『新選マーク・トウェイン傑作集』(大久保博編)にも、岩波文庫の『バック・ファンショーの葬式』(坂下昇訳)にも、ちょっとずつ違う訳題で収録されている、いわば作者の「ヒットシングル」だけど、通常想像するような短篇「小説」の作法とはずいぶん違う。
先輩作家アーティマス・ウォードの依頼で書かれたこともあってか、まずウォードへの手紙から始まるのだ。なんだか、依頼された作品を書いて添付ファイルで入稿したら、メールの本文ごと掲載されました、みたいな体裁だ。このあたり、後世の読者が考えるような独立した「作品」というよりは、作者の話芸・文章芸それ自体を楽しむ「コンテンツ」なのだと考えたほうがいい。

本書に収録された作品はそういうわけで、いわゆる短篇小説に近いものから、冗談記事、お笑いコラムまで、自在な形式で書かれている。要は紙面・誌面から読者の目を離させないためならどんな手でも使うのだ。
椅子に坐った形のほぼ完全な人間の化石?が出土したという「石化人間」(1862)は虚構新聞ふうだ。
経済学について学術的な文章を書こうとするとしつこい訪問販売員がやってきて対応に追われるため、本文よりもその脱線のほうが多くなってしまっている「経済学」(1870)なんかは落語ふうで、50歳以上のSFファンは初期かんべむさしの短篇などを想起するかもしれない。
探偵小説という分野自体をおちょくる「盗まれた白い象」(1882)を、トウェイン版『名探偵の掟』とでも呼びたい。
そのなかで晩年の、ロマンチックで叙情的な「夢の恋人」(1898)がまた目立つ。セカイ系ライトノベルのプロローグみたいだし、ロバート・ネイサンの『ジェニーの肖像』(大友香奈子訳、創元推理文庫)みたいな大甘な悲恋もの、本格ミステリの「不可能犯罪」ならぬ「不可能恋愛」が好きな人にはたまらないんじゃないだろうか。
エッセイ寄りの文章では、『モヒカン族の最後』(犬養和夫訳、ハヤカワ文庫)などで米国の国民作家だったフェニモア・クーパー(1789-1851)を全力でdisった「フェニモア・クーパーの文学的犯罪」(1895)。こんな過剰な悪口よく思いつくなー。
「物語の語り方」(1894)のなかでは、英国流のコミックやフランス流のウィットと、話芸パフォーマンスを重視する米国式ユーモアとの違いを説いている。最後に「お前だー!」と大きい声を出して驚かせ笑わせる怪談のパターンは、どうやら米国式ユーモアに属するらしい。
通常のフィクションというよりは、話芸が先にあって、それを活かすために内容が決まるエッセイ、と言ったほうがいいのかもしれない。

いずれも短篇「小説」というよりは「法螺話(トールテイル)」とか「戯文」と呼んだほうがいい芸達者な文章ばかりだ。フィクションと法螺話の中間というありかたで思い出すのは、芸風はまったく違うけれど清水義範の短篇、岸本佐知子のエッセイ、土屋賢二の《週刊文春》連載コラム、町田康の『テースト・オブ・苦虫』シリーズ(中公文庫)あたり。

短篇小説がショートコントだとしたら、ここに収められたものは漫談とかフリートークに相当する。『ジム・スマイリーの跳び蛙』は19世紀の活字芸人の話芸ベスト盤だ。
(千野帽子)