『哲学カフェのつくりかた』鷲田清一監修 カフェフィロ編/大阪大学出版会

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「哲学カフェ」と呼ばれるイヴェントがある。
喫茶店や会議室、その他のイヴェントスペースなどで、さまざまな人が集まって、コーヒーとかお茶を飲みながら、特定の話題について対話し、考える、というもの。
噂は以前から聞いていて、一度行ってみたかった。で、行ってみた。

僕が参加したのは「神戸哲学カフェ」といって、日本の哲学カフェの草分け的な存在だという。ウェブサイトにはこう書いてある。
〈2005年から続く、カフェフィロで最もベーシックな神戸哲学カフェです。参加者の発言をもとに対話を通じてテーマについて考えます。だれでも参加できますので、お気軽にどうぞ〉
カフェフィロ(Cafe Philo。正しくはeにアクサンテギュ[´])とは、哲学カフェを運営したり、その他哲学にかかわるさまざまな対話サポートをおこなっている非営利団体。この15年近く、京阪神や首都圏、岡山などで定期的に複数の「哲学カフェ」やアルコールOKの「哲学バー」などを開催している。

2014年11月16日(日)13時30分、天気は晴。あたたかい。
神戸・水道筋商店街の東端にあるカフェP/Sが今回の会場。
小さな喫茶店はすでに人で充ちていた。椅子席は僕が坐ってほぼ満席になった。カウンターにも人がいる。
20代から70歳くらいか。12人程度。女性は4-5人。哲学カフェははじめて、という人は、僕を含めて5人程度だったか。
参加費500円+ワンドリンク註文ということで、コーヒーをお願いする。今回のテーマは「他人に対する無関心」。

このテーマは、前々日に「哲学カフェに行ってみよう」と思い立ってカフェフィロのサイトで確認済。でもそれから2日のあいだに、なにについて話すか僕はとくに考えてきてない。

進行役(ファシリテイター)が口火を切る。
「私ね、妻に『あなたは人のことに関心がないのよね』と言われるんですよ。そういうこともあって今回のテーマ……」
すると、「殺処分が迫っている犬・猫を助けてくれる人、いませんか」という呼びかけをSNSで見て、関心は大いにあっても、なかなか動けない、という話も出る。これ、あるなー、とみんなでしばらくその話題。

いっぽう進行役の導入を受ける形で、休憩を挟んで16時までの2時間半のうち、何人もの来場者(殿方)が、
「自分も妻にそれ言われた。自分ではそういうつもりはなかったんだけど」
「妻とふたりで山歩きしていて、すべらないように足もとに集中していたら妻を置いてだいぶ先に来ていて、追いついた妻にそれ言われました」
など、無関心を細君に指摘された経験をつぎつぎにカミングアウトしていく。
「無関心というものは、人に指摘されるものかもしれません」
 気がついたら、始まって間もないのに、僕もぽつぽつしゃべっている。
「指摘されるまでは、自分がなにに無関心か気づかない」
 こういう盲点のような、天然の無関心についての話題が展開するいっぽうで
「ほんとは関心があるのに、意図的に無関心を装うことがありますよ」
「それが装われた無関心であることは、お互い承知なんですね。ごみ収集の場所で顔を合わせたときとか……」
という、マナーとしての「無関心のふり」に話が及ぶ。

「でも、妻って他人ですか?」

それ僕も考えてた。
「今回のテーマにある〈他人〉て、自分以外のもの=他者なのか、それとも身内以外のものという意味なのか……」
これについては進行役が、「他者というふうにテーマ設定することも考えたが、結局他人という語を選んだ」と説明。敢えてブレのある語を選んだということか。
 コーヒーを飲んでしまったので、休憩時間に飲みものを補充。休憩後には
「電車のなかで化粧する人は周囲に関心ないのかな? 周囲は無関心を装ってるよね」
「電車で席を譲るべき人に気づかないケースは?」
「『対岸の火事』じゃなくなってきたエボラ出血熱については?」
「ほんの数十年前まで、ムラでは全員が全員に関心を持ってることが前提だったんでしょうか?」
という感じで、だれかがきっかけを出し、べつのだれかがそれに応答する。

応答は、答えの形をしているとは限らない。問いにたいして、さらにその問いの前提となっているものを問う質問返しのような「応答」もある。
ひとりが言ったことを、全員で受け止める。ときどき、全員が15秒以上黙って考えていることもある。これはなかなか不思議な体験だ。
このあとなに食べようか、とかではなく、この場では、その問題についてどう考えていこうか、と全員が考えている(たぶん)。
ときには、進行役が流れを変えたり、前の話題に戻したりすることで、対話に新しい力が生じる。それ以外は僕ら参加者がもっぱらしゃべっている。書記みたいな人がいるわけでもない。ディベートではないし、といってワークショップでもない。
「他人」とか「関心」って、日常的なごくふつうの言葉のはずだ。使うのになんの考慮もしなくて済むはずの。
それが、名前も知らない、職業も年齢もバックボーンも違う、この機会でもなければ一生会わなかっただろう人たちの話を聴き、その人たちに向かって話したりしているうちに、「そもそも自分は、どういうときに『関心がある』って言うんだろう」というふうに、いったんわからなくなる。
この「いったんわからなくなる」を通過して、対話中になにかがクリアになることもあった。いっぽう、わからなくなったままで家に持ち帰った「真新しい疑問」もある。哲学カフェに出ると、考えるきっかけを持ち帰ることができるのだ。

哲学カフェでは、いくつかのマナーが守られているという。
結論を無理に出そうとせず、時間(今回は休憩込み2時間半)がきたらバチっと終わること。
発言をだらだら長引かせないこと。
人の発言はちゃんと聞くこと。
全否定しないこと。
本から引いたような言葉(テクニカルターム)をいきなり出さないこと。

最後にあげたこのマナーはとても重要だ。学者やジャーナリストが作った用語は、「ああ、あれのことね」とすぐ話が伝わるようなことも多いから重宝なのだけど、それが対話の出発点にも帰着点にもならないことのほうが多い、というのもまた事実。
タームは、各個人の体験を既存の図式に暴力的にあてはめてしまうことで、体験の大事な肌理(きめ)や手触りを失わせるもととなることもあるのだ。

──そして時間終了。考える過程それ自体が貴重で、結論なんかヘタにあるとそれがひとり歩きしてしまうかもしれないと思った。
終わったらみんなあっさり帰るのも新鮮だった。帰り道、来たのと反対側の駅(阪急王子公園駅)に向かうとそこは水道筋商店街。しまった、ウェブサイトに〈水道筋商店街で買った食べ物の持ち込みは自由です〉って書いてあったっけ。こんどくるときはあっちの駅から歩いてなにか買うことにしよう。
当日のもようはカフェフィロのスタッフブログにも書いてある。

カフェフィロはかつて鷲田清一(きよかず)氏が在籍した大阪大学大学院文学研究科の「臨床哲学研究室」の院生・出身者たちが中心となってできた。
もちろん、哲学カフェはカフェフィロの独占事業ではない。いまは各所に独立系(と書くとまたカフェフィロを特別扱いしてるみたいだけど)の哲学カフェがあるという。徳山高専の小川仁志さんも毎月2回開催している(1回60分、速い!)。

哲学カフェは、1990年代にパリ近郊で始まった(マルク・ソーテ『ソクラテスのカフェ』全2巻、堀内ゆかり訳、紀伊國屋書店)。市民社会が早くに成立したパリやロンドンといった土地には、市民の政治討論や詩の朗読会など、独立系のトークイヴェントがもともと多い。哲学カフェは、言葉にして、掘っていく作業だった。立場の違う他人を相手にしてナンボ、みたいな土地柄らしい産物なのだ。

鷲田清一監修『哲学カフェのつくりかた』(カフェフィロ編、大阪大学出版会)によれば、カフェフィロは今回僕が行ったようなベーシックな哲学カフェ以外に、本を題材にした「書評カフェ」、美術作品を見て語る「ミルトーク」、子育て中の女性を対象としたものなど、いろんな形式で開催している。さらに学校や企業や文化施設の要請に応じて、進行役を派遣したりもするそうだ。
『哲学カフェのつくりかた』は濃い本で、東北の地震を受けておこなった哲学カフェの試みなども紹介されている。
11月16日の来場者も言ってたけど、日本語環境はほんの60年前まで、以心伝心、察する、腹芸、空気を読む、でどうにかやってきた、共有性の高い文化だった。それにはよさもあるけど、共感とか絆といったハイコンテクストな概念だけでは、被災地の痛みや個人の人生の問題に向かっていくことはできない。「言葉にして、掘っていく作業」には、またべつのよさがある。

『哲学カフェのつくりかた』のカヴァーをはずすと、本体の表紙、背表紙、裏表紙は、こないだ行ったカフェP/Sの店内写真だった。僕が坐った椅子とテーブルも写っていた!
あの日自分が坐った椅子の坐り心地やテーブルの手触りが、そのまま哲学の入口になるんだ。
(千野帽子)
※カフェフィロのイヴェントカレンダーはこちら。