永井均『哲おじさんと学くん 世の中では隠されている一番大切なことについて』(日経プレミアシリーズ)。カヴァー挿画は北村人。人類最強の思想のひとつ・初期仏教との対決(ガンの飛ばしあい?)も必読。本文中に触れたデカルトの〈我思う、ゆえに我あり〉で有名な『方法序説』(1637)にはいろんな訳があるけど、僕が好きなのは中公クラシックス版。

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永井均『哲おじさんと学くん 世の中では隠されている一番大切なことについて』(日経プレミアシリーズ)は、第1話から第82話、という構成になっているけれども、じっさいにはひとつながり、一場面の対話だ。必ず順番に読み進めていかなければならない。
登場するのは、書名にも挙がっている哲おじさんと、少年・学くん、そしてときどきなんの前触れもなく姿をあらわして口を挟んではまた消えていくことを繰り返す、悟じいさん、の3人。
前半は今年2月まで約9か月にわたって《日本経済新聞》に連載され、残りは書き下ろしで加えられた。

学くんには、考えても考えてもなかなか答えが出ない疑問がある。その疑問は、周囲の人にはなかなか理解してもらえない。周囲の人から見たら、そんなものは「考えてもしかたがないこと」なのだ。
人はなぜ自殺しないで生きている人のほうが多いのか? とか。
社会にはいろんな問題があるけれど、それより社会ってどうして成り立ってるの? とか。
ニュートンの3法則は、いままでそうだったというだけのことで、それが今後も成り立つと思うのはなぜ? とか。
なぜ自分は7世紀でも25世紀でもなく21世紀に生まれ、それ以外の部分は暗黒で、この100年くらいのあいだの世界だけ、なぜこんなふうに垣間見ることができるの? とか。

これにたいして哲おじさんは、こう答える。
〈君が最後に出した二つの問題──なぜ未来のことが分かるのかという問題となぜ自分が存在しているのかという問題──は、哲学的には実は同じ問題なのだ〉
な、なんだってー!?
以下、この対話篇は思考実験を含む高度な──そしておそろしくおもしろい──議論へと突入していく。

高度な、と書いたけれど、正直僕にはこの議論が高度かどうかを判定することはできない。少なくとも、哲学的思考のトレーニングに慣れていない僕のような素人にとって、間違いなく「ふだんとちょっと違う頭の使いかた」を要求される議論であり、読んだ翌日に脳が筋肉痛になった感じがした。
本書で展開している議論は、その道筋自体に大きな意味があるので、後半の「うわ! ここおもしろい! 怖い!」と思った箇所をかいつまんで紹介する能力は僕にはない。原稿を書くために読み直したけど、無理だってことを確認するために読み直したようなものだった。

この本で読者が繰り返し出会うのは、
〈言語というものの機能が本当は存在している事実を語れなくしている〉
という困難である。
これってどういうことか。
まず、僕らは、自分が考えていることを他人と共有するために、言葉を使う。言葉は〈複数の主体に共通の事実を作り出す〉という性能を持っているのだ。
けれど、まさにその「共有可能にする」という言葉の仕組のせいで、というか仕組のせいで、
「ああ、こういうことでしょ?」
「うんうん……い、いや違う、違うの!」
「えーなんでー?」
ということが起こりうるのだ。とくに哲学的な問題において。

さっき、〈周囲の人から見たら、そんなものは「考えてもしかたがないこと」なのだ〉と書いたけど、それよりこっちのほうが厄介な問題だ。
どういうことかというと、ある種の問題は、それを言葉であらわしたとたんに、すでにだれかが言っている一見似ているけどべつの問題にすり替わってしまい、そっちのほうで「理解」されてしまう、ということなのだ。
本書の表現を借りて書いてみると、こうなる。
世界にはたくさんの人間が存在し、過去にも存在してきたが、その世界というやつを、この千野帽子という男の目をとおしてしか、じっさいに見ることができないわけです、僕は。で、世界では殴られている人がたくさんいるのに、この千野帽子という男の体が殴られたときしか、僕は痛くない。
ね、ここまではいいですか?
ところが僕と同じことを、あなたも書くことができる。
そうすると、そのとたん、僕がほんとに言いたいことが、じつは言えないのだ、という事実に突き当たってしまう。
……うーん、書くの下手だな我ながら。

哲おじさんはこう言う。
デカルトは〈森羅万象を疑って、少しでも疑いうるものは誤っている可能性があるので捨てていき〉、〈自分がデカルトという一人の人間であることも疑い、誤っている可能性のあることとして〉捨てて、〈最後に疑うことのできない、つまり誤っている可能性のない絶対の真理として、疑っている「私」が存在することに達した〉。
ところが、こういうふうに言語化したとき、デカルトの到達点は、
〈誰であれ、森羅万象を疑ったとしても、疑っているその自分の存在だけは疑いえない〉
という〈複数の主体に共通の事実〉のようなものに、ズレてすり替わってしまう。そこで哲おじさんは言うんだ。
〈しかし、そもそもデカルトは他人ではないか!〔…〕真の哲学的問題は当のデカルト自身が我々読者にとっては実は他人であって、私ではないということにあるのだ〉
これは僕は恥ずかしながら、この年まできちんと考えないできたことだった。うっすら感じたことくらいならあるかもしれないけれど、ないかもしれない。言われてみればそうなんだよな。

自分の精神だけは存在しているという確信が持てる、それ以外のすべてについては疑いうる、という考えかたはsolipsismと言って、独我論とか唯我論などと訳される。でも哲おじさんが出している問題は、そういう哲学用語をあてはめると、かえって問題の本質が見えなくなってしまうのだ。
このことで思い出したのは、論理学者でマジシャンでもあるレイモンド・スマリヤンの著書『哲学ファンタジー パズル・パラドックス・ロジック』(1984。高橋昌一郎訳、ちくま学芸文庫)の、第3章第29節だ。引用します。

〈唯我論者が言った。「私しか存在しない。」
「そうだ」と私は答えた。「私しか存在しない。」
「違う、違う!」と彼は言った。「私は、私しか存在しない、と言っているんだ。」
「それは私が言っていることだよ。私しか存在しない。」
「違う、違う、違う!」と彼は興奮して叫んだ。「存在してるのは、君じゃなくて私だ!」
「そのとおり。」私は繰り返した。「存在しているのは、君じゃなくて私だ。完全に意見が合いますね!」〉
スマリヤンのこのユーモラスな会話と哲おじさんが呈示している問題とは、重なりつつじつは少しだけずれているはずなのだが、そのズレをうまく説明する自信が僕にはない。
『哲おじさんと学くん』後半の「時間」にかんする議論については、正直僕の理解がついて行けない部分があった、というか、ちゃんと理解できているかどうか不安がある。自分の理解が合っている自信がないだけでなく、違っていると言い切れる自信すらないくらいに自信がないということ。
それでも、ものすごく興奮してこの本を読み終わり、しばらくはドキドキしてなにもしゃべれなかった。そうだった、哲学ってこういう作用があるんだ。
こういった問題について考えて、ともすれば言葉の厄介さに悩んだりするのは、恐ろしく孤独なことだと思う。けど哲おじさんは言う。
〈哲学を本気でやれば、君は決して孤独ではない。君は必ず真の友人を見つけることができる。君が君の思考を進めれば進めるほど、隠れていた友人たちが次々と現れてくるはずだ。この世界は、当初そう見えていたようには、そう捨てたものでもないということが分かってくるだろう〉
またこうも言うのだ。
〈君の人生は一回性の、他と比較不可能な、無理由になぜか存在しているだけのもので、それが何であるかは決して分からない何かなのだから、他と比較可能な意味での幸福な人生など求めたりしたら、台無しになってしまう〉
哲学って、知識や情報ではなくて、考えることがそのまま「すること」「生きること」になってしまう、恐ろしく逃げ場のない、青空みたいなところなんだろう。
(千野帽子)