橋本毅彦『近代発明家列伝――世界をつないだ九つの技術』(岩波新書)
18世紀から20世紀にかけて、世界を変える発明をした技術者たちの列伝。ワットがその後の蒸気機関車や蒸気船に搭載するような高圧の蒸気機関の開発を忌避したという事実や、エジソンが蓄音機を発明し音楽産業を切り開きながら、そこから撤退を余儀なくされたことなど、子供向け伝記でおなじみの偉人たちの意外な挫折もあきらかにされる。
科学史・技術史を専門とする著者には、大量生産を可能とした工業製品の標準化の歴史をたどった『「ものづくり」の科学史』(講談社学術文庫)という著書もあり、これも面白い。

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米アップル社が9月9日(日本時間では10日未明)、iOS搭載の新機種「iPhone 6」と「iPhone 6 Plus」を発表した。思えば、「電話を再発明」するといって、当時のアップル社のCEOスティーブ・ジョブズがiPhoneを発表してから7年が経つ。

電話を“再発明”したのがジョブズだったとして、では、そもそも電話を発明したのは誰か? いうまでもなく、19世紀後半のアメリカの技術者グラハム・ベルである。

ベルの電話発明については、有名なエピソードが2つ存在する。一つは、ベルが助手のワトソンと、2つの部屋に分かれて電話機の送受信の実験をしていたところ、そばにあった液体をこぼしてしまい、思わず「ワトソン君、ここに来てくれ」と叫ぶと、ワトソンがあわててやって来たという話。もう一つは、ベルが特許申請をした数時間後、イライシャ・グレイという人物がひと足遅れて電話機の特許を申請したという話だ。

私が昔読んだ子供向けの伝記では、2つの話はいまあげた順序で出てきたような記憶がある。だが実際の経緯でいえば、逆なのだ。じつは、グレイに先んじて特許申請した1876年2月14日の時点では、ベルの電話機はまだ、人が何を言っているのかよく聞き取れなかったという。だからそれを改良するため、特許申請後もベルはワトソンとともに実験を繰り返し、その末にベルが電話機を通してワトソンを呼び出すことに成功するにいたったのだ。

私はこの事実を、橋本毅彦『近代発明家列伝――世界をつないだ九つの技術』(岩波新書)という本で初めて知った。ちなみに本書に引用されている、電話の通話実験に成功した際のベルの実験ノート(1876年3月10日付)には、ベルが液体をこぼして思わず叫んだという話は出てこない。それでも前日のノートには、液体に浸された針が上下振動し、それによって生じる振動電流を用いて話を伝えるという送信機が描かれていた。ベルがこぼしたという液体とはおそらくそれだったと考えられる。とはいえ、実際にそんな話があったかどうかは、少なくともベル自身は語ってはいないようだが。

『近代発明家列伝』では、ベルとグレイの関係もくわしく書かれている。ベルはグレイが自分と同じく音声を電信で送る技術を開発していることを知り、特許申請を急がねばと思い立ったという。グレイのつくった装置は1874年、「ニューヨーク・タイムズ」紙で紹介され、全米に知られるようになり、英米両国でその特許を取得していた。ただし、技術的にはまだ未熟で、実用的な電話からはほど遠いものだったらしい。

ベルの1876年2月の特許申請は、液体を用いる点がグレイのアイデアとよく似ていたこともあり、ワシントンの特許局の求めによる確認作業を経て、3月7日に正式に認可された。ベルとワトソンが通話実験に成功する3日前のことだ。その年のうちに、液体を使う方式から電磁石を用いた方式に切り替え、さらには電磁石をU字型の永久磁石に置き換えて、より性能のよい電話機を開発、年末には2度目の特許を申請、翌77年1月に認められた。このときも、ベルは自分と同じく永久磁石を利用した電話機を考案中の人物がいるとの情報を、彼の後ろ盾となっていたハバードという弁護士から知らされ、申請を急いだのだった。

ところがこのときのハバードとベルのやりとりがのちに裁判を招くことになる。永久磁石を電話機に利用するアイデアは、ドルベアーという大学教授も同時期に思いついていた。これが知人を介して、ハバードの知るところとなる。その知人は、情報を提供することで、ドルベアーがベルに協力できるようになるかもしれないと好意でハバードに教えたのだ。ハバードはこれに対し、ベルはそのことにもう気づいていると返答する。だが、あとになってドルベアーは、ベルが永久磁石のアイデアで特許申請したのが、ハバードが知人から相談を受けたあとだったと知り、ベルに疑念を抱いたのだった。

ベルたちの設立した「ベル電話会社」は1878年、ドルベアーの訴訟を介して、彼が契約を結んでいた全米一の電信会社ウェスタンユニオン社と対決する。結果からいえば、この争いはベル社の勝利に終わった。ウェスタンユニオン社が向こう17年間、電話機賃貸料の2割を受け取ることを条件に、ベル社が電話事業を独占的に進めることに合意した。それとともにウェスタンユニオン社は同社の電話特許をベル社に供与することに同意している。ウェスタンユニオン社の電話特許には、より聞きやすい受話器を可能とした、炭素粉末を利用したマイクロフォンも含まれていた。これは、かつてウェスタンユニオン社の顧問技術者を務めていた、かのエジソンが発明したものだった。

ベルとグレイとの関係も、本人から電話の発明の権利を主張するつもりはないとの手紙をもらったことから、しばらくは良好だったが、のちに特許局の職員を巻きこんで訴訟が持ちあがっている。このほか、特許が通用する18年間に、ベルは大小あわせて600もの訴訟を争い、法廷で根気よく自分の発明について弁明することで乗り切っていった。

『近代発明家列伝』には、ベルのほか、時間を計ることで経度を測定する技術を開発したハリソン、蒸気機関のワット、鉄道建設や蒸気船の建造に活躍したブルネル(以上、イギリス)、発明王のエジソン、無線通信のデフォレスト(以上、アメリカ)、ガソリン自動車のベンツ(ドイツ)、飛行機のライト兄弟(アメリカ)、ロケットのフォン・ブラウン(ドイツ→アメリカ)と、18世紀から20世紀にかけての欧米の発明家・技術者たちがとりあげられている。

このうち、ブルネルは日本ではあまり知られていないが、イギリス本国では、2012年のロンドン五輪の開会セレモニーで俳優が彼に扮して登場したほど有名な技術者である。その業績を本書でくわしく知ることができた。

もちろん、有名な人物についても、いままで知らなかったような事実が本書を読んでいると次々出てくる。たとえば、エジソンが電球を発明するだけでなく、電力供給システムをも開発したことは私も知っていたが、そこで彼が直流体系を採用し、固執し続けた理由は初めて知った。交流体系のほうがあきらかに効率がよく、実際に現在、家庭用電源では交流が採用されている。しかし小学校を3カ月で退学して以来、独学で技術を習得したエジソンは、電磁気学の基礎を学んでいなかったがために、交流の長所を理解できなかったのだ。なおエジソンの設立した現在のゼネラル・エレクトリック社もその後、交流を採用、これを機にエジソンと一定の距離を置くようになる。

19世紀のアメリカには、「機械ショップ」という、機械職人がさまざまな機械を改良考案するための工作室を備えた小さな町工場が各地に存在し、各種の産業機械を生み出す母体となった。エジソンもそこで学んだところが大きい。だが、機械職人が独学で創意工夫しながら工作をしていく時代は、エジソンや自転車屋を本業としたライト兄弟らの活躍をもって終わる。以後は、科学者たちが科学理論を応用しながら新しい装置を開発していく時代へと入っていくのである。

知られざる横顔といえば、ベルは人生のもう半分を、祖父・父から引き継いだ聾唖教育の実践に捧げた。1886年には、ケラーという盲聾唖の6歳の娘を持つ男性の訪問を受け、ボストンのパーキンス盲学校に行くことを勧めた。ケラーはそこでアン・サリバンという卒業生に出会い、娘の家庭教師を依頼することになる。その娘の名はヘレン……そう、ヘレン・ケラーその人である。ベルが、ヘレンとその恩師となるサリバン先生を結びつけた張本人だという事実は、もっと知られていい。
(近藤正高)