津野海太郎『おかしな時代 『ワンダーランド』と黒テントへの日々』(本の雑誌社、2008年)
劇団黒テントの設立メンバーであり、晶文社の編集者として『ワンダーランド』(のちの『宝島』)を創刊した津野が、自らの半生を回顧した一冊。のちの大物たちの若き日のエピソードもふんだんに盛り込まれていて面白い。

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第1回、第2回より続く

1980年代半ば、斎藤晴彦という俳優が、クラシックの名曲に日本語の歌詞をつけて早口で歌い評判を呼びました。テレビ番組「今夜は最高!」では1985年、タモリや和田アキ子らとともに「オペラ昭和任侠伝」と題して東映やくざ映画のパロディ劇を演じています。また翌86年には、国際電信電話(現・KDDI)のCMで「カルメン」「ウィリアム・テル序曲」といった名曲に乗せて宣伝文句を歌い上げ、さらに知名度を上げます。

「今夜は最高!」では「モダン・ジャズ・オペラ 桃太郎」というコントにも出演、このとき赤鬼に扮した斎藤は、体を赤く塗ったのを洗って落とさないといけないという話から、「家に帰っても風呂がない……」とぼやいていました。40代半ばにしてやっと人気者になり仕事も増えていたとはいえ、これはあながち冗談ではなかったのかもしれません。

じつはその15年ほど前にも、斎藤は売れるきっかけをつかみかけていました。TBSテレビで、野沢那智と白石冬美が司会する深夜番組にレギュラー出演し始めたのです。野沢・白石といえば、当時ラジオの深夜放送で「ナチチャコ」コンビとして若者たちから絶大な支持を集めていました。アングラ系の劇団に所属していた斎藤にとって、そんな彼らとの共演は、知名度を上げるチャンスだったでしょう。しかし彼は番組を途中で降ります。というのも、劇団の公演に客演予定だったすまけいが突然行方をくらまし、その代役に斎藤の名前が挙がったからです。

このとき、番組の生放送の現場に、劇団から津野海太郎と山元清多が斎藤を説得するため足を運びます。細かなことは略して結果だけ伝えられ、斎藤は「やります」と即座に承諾したといいます。しかし公演に出れば、テレビ出演との両立はとうてい不可能。説得する側の山元が逆に心配して、「だけど斎藤さん、この番組はどうするんだよ」と訊くと、斎藤は「もちろん降りますよ」と言い切ったのでした。のちに津野はこのときを振り返り、もしもこの決断がなければ、のちの劇団での名演はなかったかもしれない、と書くとともに、次のように書いています。

《この「降ります」のひとことによって、斎藤晴彦が青年期の貧乏暮らしから脱出する可能性も泡のように消えてしまった。いやはや。いまにして思うと、あれはじつに大きな決断だったのですな、斎藤さん》(津野海太郎『おかしな時代』)

斎藤が当時、津野や山元らとともに所属した劇団は「68/71黒色テント」といいます。この劇団は、もともと3つの劇団の地方公演のための連絡組織「演劇センター68」として1968年に発足、翌69年には本格的な演劇活動の組織となり「演劇センター68/69」を名乗りました。以後、名称の末尾の数字は年数に合わせて変えていくのですが、70年秋に黒テントを各地に張っての移動公演を始めると「68/71黒色テント」という名前で一応固定化されます。ただし通称は黒テントでの公演開始以来、「黒テント」であり、90年代にはこれが正式な劇団名となりました。

斎藤のクラシックを日本語で歌う芝居も、その原型は黒テントでの公演から生まれたものでした。1976年の「キネマと怪人」という作品で、映画監督を演じた斎藤は、サラサーテ作曲の「ツィゴイネルワイゼン」を歌い通して観客を唖然とさせます。例のCMは、これを観ていた黒テントファンの大手広告代理店の社員が、いつか自分が出世したら斎藤を使って撮りたいと数年かけて実現させたものだそうです。

■あらかじめ参加をとりやめた蜷川幸雄
斎藤の俳優としての出発点は、「青俳」という劇団です。ちょうど同時期の青俳には、この講義の第1回でもとりあげた、蜷川幸雄や蟹江敬三、石橋蓮司らが所属しました。斎藤はこの劇団では大した役につけず、やがて「発見の会」に移ります。前出の「演劇センター68」はこの「発見の会」と「自由劇場」「六月劇場」の3つの劇団が組んでつくられました。結局、発見の会は後身の「演劇センター68/69」の結成を前に抜けるのですが、斎藤は残って新劇団の設立に加わります。

先の3つの劇団のうち六月劇場は1966年、前出の山元清多(東大劇研出身)や津野海太郎(早大独立劇場出身)、それから新劇三大劇団の一つ「文学座」出身の岸田森・悠木千帆(現・樹木希林)・草野大悟などによって結成されました。

じつは津野海太郎はその2年ほど前、俳優の岡田英次に誘われて彼の所属する青俳に参加しかけたことがあります。斎藤晴彦とはこのときが初対面で、蜷川幸雄とも出会いました。津野は蜷川の紹介で、当時同棲していた岸田・悠木の2人と知り合います。やがて津野は学生時代からの友人である山元や長田弘、佐伯隆幸らも誘って、勉強会を始めました。これが六月劇場の母体となります。

六月劇場の初めての芝居は、長田の脚本で、岸田と悠木の住む家の玄関で上演され、蜷川も声で出演しました。もっとも蜷川は劇団から徐々に遠ざかっていきます。その理由として津野は、自分と蜷川では、蜷川のほうがあきらかに背負っているもの(劇団とか演劇経験とか)が重かったこと、また彼が当時よりひそかに演出家を志していたことをあげます。

《蜷川さんはこのころ俳優をやめて演出家になろうと本気でかんがえはじめていたらしい。そうなればなったで、やっかいな問題が生じるおそれもないではない。そんなあれこれがかさなって、おたがいの気もちにズレが生じ、けっきょく、べつべつの道を歩きはじめることになってしまったのだろう》(『おかしな時代』)

これに対し、蜷川の言い分はもっとはっきりしたものでした。勉強会で、劇団結成をめざし周到に組織図を書き、論理の構築に熱心だった津野たちに対し、「この人たちはいずれ芝居をやめるな」と感じたというのです(蜷川幸雄『演劇の力』)。事実、当時から『新日本文学』の編集部に勤務していた津野はやがて晶文社の編集者に、長田弘は詩人に、佐伯隆幸は評論家・大学教授になっています。蜷川のなかではおそらく、いずれ決裂するのなら、その前に離れておこうという野性の勘みたいなものが働いたのでしょう。とはいえ、こうした理論家たちの参加が、のちの劇団黒テントの性格を特徴づけることになるのですが。それを話す前に、黒テントのもう一つの前身である自由劇場についても説明しておきましょう。

■地方の老人をも感動させた黒テント
自由劇場は1966年、俳優座など新劇の養成所の出身者たちが集まって結成されました。そのなかには黒テント結成で中心となった佐藤信、のちの劇作家・斎藤憐、俳優ではその後演出家としても活躍する串田和美や吉田日出子、清水紘治などがいます。

彼らは、1969年に六月劇場のメンバーと合流して演劇センター68/69を結成します。このとき「コミュニケーション計画・第1番」という壮大な計画が発表されました。そして計画でめざす「5つの柱」として「拠点劇場、移動劇場、壁面劇場、教育、出版」を掲げました。このうち拠点劇場には、自由劇場が東京・西麻布に持っていた地下劇場「アンダーグラウンド自由劇場」があてられ、さらに移動劇場は黒テントによる移動公演として、出版については、『季刊同時代演劇』と『コンサード・シアター・ジャパン』という雑誌を刊行することでそれぞれ実現します。このあたりが、理論家の多数参加したこの劇団の大きな特徴といえます。

ただ、その計画は一介の小劇団が手がけるにはあまりに大きすぎ、いずれ失敗すると反発する人も結構いたといいます。本人たちも、実現可能だと本気で考えつつも、一方では《夢は実現したとたんに悪夢に化けるということもわかっていた》と、津野は書いています(『おかしな時代』)。

それでも黒テントという劇団自体は現在にいたるまで存続し、実際に黒テントを各地に建てての活動も20年近く続けられました。主宰者の佐藤信は、1980年に舞台美術家の妹尾河童から「なぜテントなのか?」と問われて、《『演劇』を一元的で観念的な場所の中に押し込めてはいけないと思ったからだ。(中略)『中央集権的な劇場』の中から引きずりだして、人々が共有し集まる広場や、町や村のどんな所にでも芝居を持っていきたい。それには、移動でき、旅ができるテントが一番だと考えた》と答えています(妹尾河童『河童が覗いたニッポン』)。

黒テントの芝居はけっしてわかりやすいものではありませんでした。それにもかかわらず地方公演では、ふだん現代演劇など観たこともなさそうな老人たちまで、役者たちの迫力ある演技を食い入るように観ていたようです。1976年の宮崎公演の際には、観劇した61歳の男性が、芝居に不思議な感動を覚えたばかりか、劇団員たちがテントを仮設したあとで小さな穴一つ残さず立ち去ったことに「あっぱれというほかない」と、地元紙に投書するほどでした。

じつは黒テントは、最初の移動劇場として1970年10月から翌年6月までの8カ月間続けた公演の終わったあと、活動を移動公演に絞ろうという佐藤信らのグループと、テントを離れフリーになったグループと2つに分かれていました。後者のグループのうち、串田・斎藤・吉田ら旧自由劇場出身のメンバーは、前出の西麻布の地下劇場を拠点に新しいグループを結成し、やがて「オンシアター自由劇場」と名乗るようになります。このネーミングには、地下の劇場を拠点としながらも、「気持ちだけでも明るい地上に出ていこう」という思いが込められていたといいます(扇田昭彦『日本の現代演劇』)。

その思いは、1979年に初演された音楽劇「上海バンスキング」が評判を呼び、その後も繰り返し再演されるヒット作となったことでかなえられました。このオンシアター自由劇場からは笹野高史や小日向文世が輩出されたほか、佐藤B作らの「東京ヴォードヴィルショー」、柄本明・綾田俊樹らの「東京乾電池」、大谷亮介・余貴美子らの「東京壱組」と3つの劇団が派生しています。現在の映画やドラマに欠かせない俳優たちを多数世に送り出した点で、自由劇場系の劇団は小劇場界でも際立っています。しかし“地上”に出た彼らは、いまなお演劇活動も続けているものの、もはやアングラとはいえません。アングラ演劇というのは、彼らがテレビなどに出始めた70年代終わりから80年代初めに一応の終焉を迎えたといっていいのではないでしょうか。

最後に余談を一つ。黒テントでは佐藤信や加藤直とともに劇作を手がけた山元清多は、テレビドラマでも「ムー」「ムー一族」「ハイスクール落書」「パパとなっちゃん」など数多く脚本を手がけました。そもそものきっかけは、六月劇場時代の仲間・樹木希林が自分の出演していた「時間ですよ」に彼を台本作家として引き入れたことでした。この講義の1回目では、ある芝居で沢田研二を出すにあたり内田裕也がすべてお膳立てしたという話を紹介しましたが、こうして見ると、内田・樹木夫妻の影響力をあらためて思い知らされます。
(近藤正高)