大久保嘉人

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大久保嘉人はためらわずに言い切った。
「もう代表はいいわ。もうこれで終わり」

2010年南アフリカワールドカップ、パラグアイにPK戦の末敗れ日本の敗退が決まった後のミックスゾーンで、大久保は代表引退を明言するとバスに乗り込んだ。2人切りで話したのでつい口が滑ったわけではないだろうというのは、はっきりした口調から明らかだった。

南アフリカワールドカップでの大久保は左MFとして活躍。オランダ戦で見せたタッチライン沿いの180度ターンは「オオクボ・ルーレット」としてFIFAのサイトで動画が紹介されるほどだった。

その後も、取材すると時々代表について聞いてみた。いつも答えは同じ。「もういいよ」。いつも取材には丁寧に対応する大久保だが、この質問に対する返答はそっけなかった。

だが、あるときから大久保は代表復帰を口にするようになった。
「入りたいよ……本当に入りたい。できると思うんだよね。やっていく自信はあるから」

自信だけではない。2013年、川崎に移籍してFWに据えられた大久保は自信の限界を突破する。2001年にプロデビューした後、年間最高出場数38試合、最高リーグ戦得点数18試合で、2009年以降は1桁得点が続いていた選手が年間45試合に出場し、リーグ戦では26ゴールを挙げ得点王に輝いたのだ。

どうして代表を引退しようと思ったのか。
「オレ、あんまり好きじゃないから。ずっと合宿していることとか家を離れて泊り続けることとか。精神的に疲れる。だからイヤだった」

大久保は家族を大切にする。安らぐ家庭を離れることは大きなストレスなのだ。12歳でプロを目指し親元を離れたときから続く生活を続けたことも遠因なのかもしれない。

その大久保が、もう一度代表に入りたいと気持ちを変えたのは、悲しい出来事があったからだ。
「代表に戻りたいと思い出したのは去年(2013年)からですよ。お父さんが死んでから」

2013年5月12日、父・克博さんの死去。その遺書に「日本代表にもう一回なれ」という言葉が大久保を奮い立たせた。

日本代表の発表が近づいてきても、大久保は落ち着いていた。9日の川崎の練習終了後、記者たちに囲まれて大久保は小一時間、丁寧に答え続けていた。
「前回のワールドカップのときは(代表選考に)落ちたらどうしようと思っていたけれど、今回は合宿に1回しか呼ばれていないし、選ばれなくて当然。選ばれればうれしいという状況だから不安もない。今までやってきた自信はあるから、発表は楽しみです」

「もうすぐ代表の質問から解放される」と記者たちと一緒に笑い、にこやかに過ごしていたが、2人で話をすると、こんな言葉もポロリと出てきた。

「お父さんが死んでしまうまでは(代表復帰に)力が入ってなかった。早く気合いを入れてやっとけばよかったかな……。でも、これも運命かなと思ってます」。2012年に呼ばれて以来、代表とは縁がなかった。なかば諦めていた顔が痛々しかった。

「直前の試合でゴールを取っも、それで決まるとは思えないけどね」。そう語っていた5月10日の鹿島戦、それでも大久保は2ゴールの活躍を見せて好調ぶりをアピールする。

その思いは通じた。

父の一周忌となった5月12日、ザッケローニ監督が読み上げたリストの中に、去年の得点王の名前があった。会場が一番どよめいた名前だった。代表に復帰し、再びワールドカップに行くことを願い続けてきた大久保は、ついにブラジルに行くことになった。

大久保はもう長期合宿がイヤだとは思わないだろう。そして父親は息子の必死の努力に、天国から拍手を贈っているに違いない。

【取材・文/日本蹴球合同会社 森雅史】

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