赤裸々な“石川啄木”の姿

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 「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」
 稀代の歌人・石川啄木(1886-1912)によるこの短歌は、『一握の砂』に収められた一篇だ。誰しも一度は見聞きしたことがあるだろう。生活派短歌とも呼ばれた啄木の句は、平易な言葉でつづられ、日常の中にある喜びや悲しみの感情が素朴に謳い上げられている。
 だが、彼がどんな人物だったかを知る人は意外と少ないのではないだろうか。

 そんな石川啄木という人物に触れることができる一冊がある。『啄木・ローマ字日記』(岩波書店/刊)だ。岩波書店から文庫版が1977年に出版されている。

 日記文学の傑作として日本文学史に刻まれるこの作品は、通算71日間をローマ字で綴った日記だ。
 何故、わざわざローマ字で日記を書いたのか? 理由の一端として、日記という赤裸々な文書を家族に読まれないようにするため、ということが挙げられる。逆に言えば、啄木の本当の部分を垣間見ることが出来るのだ。

 貧窮に喘ぐ日々の中で、後に言語学者として名を馳せることになる若き日の金田一京助を始めとする文士たちとの交流や、家族を東京に迎えることについての苦悩が書かれているのだが、そこから浮かび上がる石川啄木という人物の姿は、おそらく多くの人が想像しているものとは違う。
 献身的にわが身を支えてくれる親友の金田一京助を扱き下ろす。妻から生活費の催促をされ、会社から前借りした金で女を買ってしまう。書かなければならない原稿をそっちのけにして、何をするでもなく電車に揺られ続ける。会社をサボる。……等々、実に退廃的な生活を送っているのだ。

 だが、そこにこそ石川啄木という人物の輝きを見ることもできる。貧しくも人に恵まれた石川啄木が理想と現実の狭間で揺れ続け、苦悩に対して時に抗い、時に投げ出してしまう姿は、必死に生きようとするあらわれでもあるからだ。そして、本書には現代を生きる私たちが共感できる部分があるはずだ。
 「啄木・ローマ字日記」を読んだ後に、今一度、冒頭の句を読んでみて欲しい。 きっと、今までとは違った深みを味わえることだろう。
(ライター/石橋遊)


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