「下着をつけずに電車で登校」「保健室で上半身裸に…」胸の大きさが注目され→人気グラドルになった大原かおり(50)が語る、芸能界入りの“きっかけ”〉から続く

 今年5月20日に、デビュー30周年を記念した22年ぶりとなる写真集『キケンなカオリ♡』を発売した大原かおりさん(50)。1990年代半ばにグラビアアイドルとして 一世を風靡し、『出動!ミニスカポリス』『ギルガメッシュないと』(ともにテレビ東京)などに出演していた。現在は実業家としても活躍している。

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 バラエティー番組にも引っ張りだこだった彼女だが、内容は過酷そのもの。耐用回数を超えたロープでバンジージャンプを行い、ロケ先で肋骨が折れても病院に行かず収録をこなす。それでも「楽しかった」と笑顔で振り返る理由とは?(全5回の2回目/3回目に続く)


大原かおりさん ©細田忠/文藝春秋

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ビールのキャンペーンガールのオーディションで何度も落とされたワケ

--グラビアアイドルとして人気が出てきた大原さんですが、大変だった思い出とかありますか。

大原かおりさん(以下、大原) グラビアの仕事をたくさんいただいたんですが、同時期にありがたいことにテレビのレギュラー番組の出演もすぐに決まったんです。なので海外でグラビアの撮影があっても、収録のたびに日本に戻らなきゃいけなかったんですよ。

 月に4回サイパンに行ったこともありましたし、忙しかったですね。その頃からもうマイレージを貯めてたので、すごく得しました(笑)。

 あと、悔しかったのはビールのキャンペーンガールになれなかったことです。私がグラビアをやっている頃はキャンペーンガールを目指している人が多くて、居酒屋に行くとハイレグでビールを持っているポスターが必ず貼ってあったんです。

 どうしてもキャンペーンガールになりたくて、何社かビール会社のオーディションを受けたんですけど、最後の数人までは残るんですが、最終的には落とされることが3回くらいあって。それが悔しくて、悔しくて。

 あとで理由を聞くと、当時はもう『出動!ミニスカポリス』や『ギルガメッシュないと』などの深夜番組にも出演して、下ネタを言ったり、毒舌を吐いたりしていたので、それがかなり大きい要因で落とされていたみたいなんですが……。

 いやいや、それってオーディションを受けた時には分かってるんだから、だったら期待をさせずに早く落としてよって思いました(苦笑)。

バラエティー番組に出演、グラビアの友達から「えっ、あれやったんだ?」と…

--大原さんより1つ下の世代、若槻千夏さん、小倉優子さん、磯山さやかさんなどの世代では、バラエティー番組のグラドル枠に出るためにライバル意識が相当強かったと聞いています。大原さんの時代はどうでしたか?

大原 そういう意識はなかったですね。嘉門洋子ちゃん、桜井あゆみちゃん、パイレーツの浅田好未ちゃんや西本はるかちゃんとか。みんな仲良しでしたよ。

 私はとにかくバラエティー番組、ザ・バラエティーが大好きだったので、つらいことや寒いこと、痛いことであっても「全部やります、それ! 面白い!」と受けていたんです。

 それがテレビでオンエアされると、同期のグラビアの友達から「えっ、あれやったんだ? 私にも話が来たけど断ったよ。その後にかおりちゃんのところに行ったんだろうね」とか言われてました(笑)。

真冬の四万十川で脱がされて、水着姿にさせられ…

--他のグラドルが断る仕事を率先してやったわけですね。たとえば当時のバラエティー番組ではどんなことをやったんですか。

大原 年末特番の企画で「芸能人の夢を叶えます」といって、超売れている芸能人の夢を叶えに、モルモットチームみたいな人たちが過酷なロケに行かされるんですけど、そのチームに私も参加して。「家の鯉が逃げてしまったので、鯉を獲ってきてほしい」という夢を叶えるために真冬の四万十川に鯉を獲りに行くんですよ。

 最初はウェットスーツを着て、鯉獲り名人のところに獲り方を教えてもらいに行くんですけど「お前らにウェットスーツは100年早い」と言われて脱がされて、水着姿にさせられるんです。それで鯉が獲れるまで、真冬の川に潜っては焚き火に当たって体を温めるというのを繰り返してましたね(笑)。

--めちゃくちゃ体を張ってますね。

大原 別の番組では、バンジージャンプのロープがどこまで使えるか実験しました。当時はバンジージャンプのロープは300回使ったら安全性を考慮して交換していたんですけど、「301回目でも切れないか」というのを実験するために、301回目のロープで飛んだり。

「暑いとか寒いとかも、あまり苦にならない」それでも唯一“苦手だったこと”

--いやいやいや、それ命がかかっているじゃないですか。

大原 でも、300回飛んでも切れないとされているロープは、301回目でも切れないじゃないですか。

--頭では分かっても、普通の人なら、話を聞いただけでゾッとしますよ。

大原 私はそれを聞いて「はい! わかりました。私、飛びます」みたいな感じでした(笑)。それくらいバラエティー番組が好きだったんですよ。

--体の張り方が芸人さんですね。でも、何が楽しかったんですか。

大原 それは今もなんですけど、笑うことが大好きで、あまりつらいと思ったりしないんです。むしろ「面白くない、これ?」となるんですよ。暑いとか寒いとかも、あまり苦にならないですし。

 唯一眠いのだけが苦手で。忙しくして家に帰ってくると、当時はメールとかないから番組出演前のアンケート用紙がファックスでいっぱい届いているんですよ。体はくたくたなんですが、なんとかアンケートに答えて、ファックスで戻して寝るみたいな感じでした。でもつらいのはそれくらいで、他につらいことはなかったですね。

「病院はやっていないので明日行きましょう」ロケ先で肋骨を骨折

--当時はハラスメントという言葉も一般的ではないですし、スタッフさんたちもかなり厳しかったのではないですか。

大原 厳しかったですね。私が一度、地方のスノーボードのロケ終わりにプライベート時間を使って滑っていたら転んで肋骨が折れてしまったことがあったんです。最初は折れているって気づかなかったんですが、帰りに飛行機に乗っていると、気圧のせいでものすごく痛くて。

 でも当時は「撮影で骨を折ったらこっちの負け。怪我をした私が悪い」と思っていたので、何も言わなかったんですよ。

 そうしたら今度は肺のあたりが痛くなってきたので、さすがにまずいと思って、空港に迎えにきてくれたマネージャーさんに肋骨のあたりが痛いと伝えたんです。

 それで病院に連れて行ってもらえるのかなと思ったら「この時間、病院はやっていないので明日行きましょう」って言われて、私も「わかりました」ってそのまま家に帰ったんです。

「番組を2本撮り終えてから病院に行きましょう」骨折したままテレビ出演

--ええっ(絶句)。

大原 それで次の朝にマネージャーさんが車で迎えにきてくれて、このまま病院に連れて行ってくれるのかなと思ったら「すいません、大原さん。ちょっと時間がないので一度現場に行って、番組を2本撮り終えてから病院に行きましょう」と言われて。

--今なら大問題になりますね……。

大原 さすがに肺が痛すぎたので、マネージャーさんに「大声を出すと痛いことを番組スタッフさんに伝えておいてください」とは言ったんです。

 それで番組オープニングの撮影が始まったんですが、当時のテレビってオープニング命ですごく大切だったんです。

 なので痛みを堪えながら「どうも、こんにちはー!」と言うんですけど、大きな声が出ないからスタッフさんが納得してくれず「はい、もう1回!」「気合を入れてもう1回!」って何度も何度もやらされて。

 最後は「肺が痛いかもしんないけどもう1回!」と言われて、痛みを我慢して気合いで大声を出して、やっと「はい、OK!」となりました(笑)。

--すごいですね、ひと昔前のテレビ業界。話を聞いているだけで苦しくなります(苦笑)。

大原 オープニングの後は肋骨の部分を押さえながらロケを2本撮りして、その後、病院に行ったらきっちり肋骨が折れてましたね。

 肋骨はコルセットを巻くか、湿布を貼るくらいしかできないので、くしゃみに気をつけながら、その後もレギュラー番組に出演してました。

 いま聞くと大変なことかもしれないんですけれど、私としてはそういうことも苦ではなかったです。

撮影=細田忠/文藝春秋

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(徳重 龍徳)