優勢だった反オットー軍が犯した、東フランク王国の‟絶対的なタブー”…オットー1世による「逆境の打開」と反乱軍への「冷酷な処罰」
ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。
オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。
『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第40回
『オットー1世の‟右腕”ハインリヒの本拠地バイエルンまで反オットー派に…「ドイツを作った男」が迎えた「国中敵だらけの四面楚歌」』より続く。
リウドルフが犯した禁忌
潮目が変わるとは、こういうことを言うのだろうか。
954年2月、馬体は小さいが足の速い馬(ポニー)に乗ってハンガリー軍がやってきた。むろん東フランクの内乱に乗じての略奪行である。彼らはバイエルン、フランケン、シュヴァーベン、ロートリンゲンを荒らしまわって西フランクまで迫り、彼らが通った後はぺんぺん草も生えないといった有様となる。
オットー、リウドルフ両陣営は互いにこの事態の責任を相手に擦り付ける。
だが、バイエルンを荒らしまわっていたハンガリー軍にリウドルフが案内人をつけフランケンに誘導していたこと、さらにはコンラートも自領ロートリンゲンの反抗勢力であるレギナール伯を追い詰めるためにハンガリー軍を利用したことが明るみにでた。
ハンガリー軍を傭兵として雇い敵にあたらせる。これはイタリアや他の国では常套手段である。しかし東フランクではそうはいかない。ハンガリーは国家の怨敵である。だからこそ、東フランクの貴族たちは今から約30年前の926年、オットーの父ハインリヒ1世がハンガリーと結んだ屈辱的休戦条約のための高額な貢納金の分担に文句一つ言わずに応じ、臥薪嘗胆に徹したのである(第2章)。
それがハンガリーと手を結ぶとは! 囂囂たる非難の声が巻き起こった。後は一瀉千里である。
リウドルフの敗北
954年6月、休戦協定が結ばれ、オットー、ハインリヒ、リウドルフ、コンラート、マインツ大司教フリードリヒが、ランゲンツェンでの宮廷会議で一堂に会した。
ハインリヒはハンガリーと手を結んだのは反逆罪に相当するとリウドルフを激しく非難した。リウドルフはやむを得なかったのだ、と必死に弁明するが無駄であった。コンラートとフリードリヒはオットーに服することを決めた。そして2人はリウドルフにオットーに服従し、その裁きを受けるようにと説得した。
オットーの弟ブルーノもまた「アブサロム(ダビデの三男)になるなかれ、さすれば汝はソロモン(ダビデの末子)になれるのだ!」と、いかにも聖職者らしく旧約聖書の有名な一節を引いて、甥を説得したという。しかしリウドルフは聞く耳を持たず、レーゲンスブルクに籠城する。
こうしてレーゲンスブルク包囲戦が再開された。今回はザクセンの守りを任されていたゲーロ辺境伯までもが参陣している。ザクセンでは反乱が鎮圧されたということである。オットーは余裕綽々で包囲戦を武将たちに任せてザクセンに戻る。
籠城軍は時折、反撃を試みるがその都度追い返される。籠城軍の中心的存在であったルイポルト家のアルヌルフ2世も命を落とした。そのうち城内は飢えに苦しむことになる。結局、レーゲンスブルクは8月中旬、焼け落ちた。
リウドルフはチューリンゲンのザウフェルト(現タンゲルシュテットと推定されている)で狩猟中の父オットーのもとに現れ、父の前に裸足でひれ伏した。
父は息子を許した。叔父ハインリヒのいないところで親子の和解が成立したのである。仮にこの時ハインリヒが同席していたらどうなっていただろうか。おそらく、ハインリヒはリウドルフの謝罪を受け入れてはならぬとオットーに耳打ちしたであろう。リウドルフはそれを恐れて、狩猟中という、いわばプライベートの場を選んで父に詫びたのではないだろうか。
ハインリヒの落ち武者狩り
同年12月、アルンシュタットの宮廷会議で正式な処分が決まった。リウドルフとコンラートはそれぞれシュヴァーベン大公領とロートリンゲン大公領を没収された。ただし2人の財産は保全された。
新シュヴァーベン大公には王妃アーデルハイトの叔父ブルヒャルト3世が任命された。そしてブルヒャルトはバイエルン大公ハインリヒの娘ハトヴィヒを娶り、バイエルンとシュヴァーベンの長年のしこりをほぐすことになる。
ロートリンゲン大公にはオットーの弟ブルーノが就く。彼はケルン大司教でもある。この俗界領主と高位聖職者の兼務はオットーの教会政策を如実に表しており、多くの問題を孕んでいた。
マインツ大司教フリードリヒが死去し、後任にはオットーの庶子ヴィルヘルムが就任する。彼は後に父に臆することなく、父の教会政策を痛烈に批判することになる。
バイエルンを奪回した大公ハインリヒの落ち武者狩りは凄惨を極めた。旧大公家のルイトポルト家はほとんど追放され、他にもハインリヒは敵側についた貴族たちを容赦なく追い詰めた。司教たちも例外ではない。ザルツブルク大司教ヘルホルトは目を抉られ追放された。
世俗領主が高位聖職者に残虐な摘眼刑を科したのである。これは教会が世俗権力の支配下に入ることの是非がいまさらのように問われる出来事であった。事実、ハインリヒの甥であるマインツ大司教ヴィルヘルムは、このことで叔父を引いては父オットーを痛烈に批判するのである。
しかしオットーは弟ハインリヒの苛烈な処理を支持し、2人は翌955年の復活祭をバイエルンで祝った。そしてオットーは6月、バイエルンの完全服従を見届けると、故郷ザクセンに戻った。
こうして息子リウドルフの反乱は終わった。オットーはこれで二度の内戦を乗り切ったことになる。
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