日本人の「もの」の見方を考える──【山本伸裕『日本人の死生観を問う』】

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日本人の「もの」の見方を考える

人の老・病・死に接する看護師学生を相手に、日本思想史家の著者・山本伸裕さんが説いてきた講義のエッセンスである『日本人の死生観を問う 「やまと言葉」の倫理学』

外国語が伝来する以前から日本にあった「和語=やまと言葉」。それらの語源を明らかにすることで、日本人の「何を目指して生き、どう死に臨めばよいのか」という「倫理構造」が見えてきます。

納得して「生ききる」ために触れておきたい、日本人による日本人のための「はじめての死生学」講義となる本書より、「人」と「人間」という言葉についての一節を公開します。

『日本人の死生観を問う 「やまと言葉」の倫理学』

言葉と人間

「人」と「人間」

 私は、過去十数年にわたり、大学の教壇に立って「生命倫理」や「死生学」などの講義を行ってきた。その初回の授業で、学生たちに必ず投げかけてきた問いがある。「あなたは『人(ひと)』ですか? それとも『人間』ですか?」という質問である。

 私の肌感覚では、七、八割の学生は「人間」と答え、残りが「人」と答える。しかし、なぜそのように答えたのかと改めて問い質しても、曲がりなりにもその理由を、自分の言葉で説明できた学生は、これまで一人もいなかった。

 とは言え、唐突に「人」と「人間」の違いを問われて即座に説明できる人は、学生に限らず、成熟した大人であっても、決して多くはないであろう。にもかかわらず、私たちは日常生活の中で、これら二つの語をほとんど無意識のうちに使い分けてきたのではなかろうか。もし私たち日本人が、「人」と「人間」という類似した語を、状況や文脈に応じて適宜使い分けてきたのだとすれば、その背後には、何らかの文化的・言語的な理由や根拠が、必ず伏在しているはずである。

 この世に、自分の意志で生まれてきた人は、一人もいない。私たちの人生は、ある日、突如として幕を開ける。みずからの意志とは無関係に、子宮の中から押し出されて産声を上げた命は、母との最後の肉体的つながりである臍の緒を断ち切られた瞬間、名実ともに「人」となる。

「ひと」という語は、「一つ」の「ひと」と同根である。生まれた瞬間から、私たちが独立した一個の人であることに、何ら疑う余地はない。「人間」と答えた学生たちも、自分が「人」であることを否定しているわけではない。それでもなお、多くの学生が「人間」と答えた、あるいはそう答えざるを得なかったのは、いったいなぜなのか。

 語弊を恐れずに言えば、生後間もない赤子は、「人」ではあっても、いまだ「人間」ではない。赤子は、生後しばらくの間、他者を意識していない。物心がつく以前の赤子は、胎内にいたときと同様、投げ出された世界の中で原初的な全体性に包まれて存在している。換言すれば、意識上に裂け目や切れ目のない、混沌(カオス)の世界を生きているにすぎない。

 生まれて間もない赤子にとっての現実は、実にあやふやである。一説によれば、「あや(危)うしや」が簡素化された語が「あやふや」であるとされる。この「あや」は、「あや(怪・妖)しい」や「あや(殺)める」の「あや」と同根で、見通しのきかない混沌状態を意味している。一寸先の未来すら見通せない制御不能な世界は、危うさに満ちた世界でしかない。

 しかし、混沌の世界に揺蕩(たゆた)っていた赤子は、やがて外界の事物に反応を示すようになる。そして、それと同時に自己の外に何かが確かに存在しているという意識が芽生え始める。

 人が外界の存在に気づき、それらを意識し始めるということは、それまで均質だった世界に亀裂が入り、自己と他者とが分離するという根源的な体験でもある。

「人」として誕生した赤子が「人間」になるのは、外界の存在に対して「ことば」を発した瞬間である。人が口にするはじめての言葉は、大概「ママ」である。幼子が外部の存在に「ママ」と呼びかけるのは、自己以外の存在として「ママ」が認識されているからにほかならない。そこに成立するのは、自他の関係性である。こうした関係性は「柄」とも言い換えられようが、その「間柄」の成立によって、「人」ははじめて「人」となるのである。

 冒頭で提起した、なぜ学生の答えが「人」と「人間」に分かれるのかという問いに話を戻せば、その理由は、ひとまず次のように説明できるであろう。すなわち、意識が「個」の側面に向いている学生は「人」と答え、自己を他者との「間柄」において捉えている学生は「人間」と答えたということである。

 もっとも、私たちは普段、「人」と「人間」を意識的に使い分けているわけではないし、どちらを選んだとしても、生活上に直ちに支障が生じるとは考えにくい。しかし、例えば救急医療の現場などでは、これらの語は、かなり明確に使い分けられてきたのではなかろうか。

 救急医療の現場で、第一に向き合われるのは人命である。そこで問題となるのは、医学的・生物学的な観点から捉えられる命である。したがって、救命措置に医師や看護師が全力で当たるのは、至極当然のことと言える。

 だが、そこで共有されているのは、あくまでも「人」として「生きている命」という視点である。生物学的に命が維持されてさえいれば、それだけで十分だと考える人はいないであろう。生きていること以上に、個々の命には特別な意味があり、その意味が問われるところに、人の命の真の価値があると、私たちは信じてきたのではないだろうか。

 個々人にとっての最大の関心事は、自分の人生をいかに自分らしく生きていけるかということにある。そこでは必然的に、「人間」として「生きていく命」のありようが問われる。この問いは、人と人との間において、他の誰とも違うこの私が、私だけの人生をいかに生きるかという実存的問い以外の何物でもない。

 このように、人と人との関係性の中で「いかに生きるか」という観点から問い直される命は、単なる医学的・生物学的な命ではなく、社会的・実存的な命である。それゆえ、そこでは自己が生きる意味が、不断に問われ続けることになる。

本書『日本人の死生観を問う──「やまと言葉」の倫理学』では、下記の構成で、「やまと言葉」をもとに、日本人の「倫理の基本構造」を探っていきます。

序章 日本人の「もの」の見方
第一章 生成する「いのち」  
第二章 つながる「いのち」 
第三章 「老」に向き合う
第四章 「病」の諸相
第五章 「死」と向き合う
第六章 「死者」を弔う
終章 美しき人生

著者

山本伸裕(やまもと・のぶひろ)
東京医療保健大学准教授。1969年生まれ。専攻は倫理学、日本思想史、仏教学。東京大学文学部倫理学専修課程卒業、東洋大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(文学、大谷大学)。親鸞仏教センター研究員、東京大学東洋文化研究所研究員を経て現職。著書に『「精神主義」は誰の思想か』(法藏館)、『清沢満之と日本近現代思想』(明石書店)、『清沢満之の宗教哲学』(筑摩選書)、一般向けに『他力の思想――ブッダから植木等まで』『日本人のものの見方――〈やまと言葉〉から考える』(ともに青灯社)がある。
※刊行時の情報です。

■『日本人の死生観を問う 「やまと言葉」の倫理学』より抜粋
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