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 甲子園に「22」が帰ってきた。現役引退から4年、監督となった藤川球児が帰ってきた。

 新監督を迎えた阪神の秋季練習初日である。藤川は「違和感はない」と言った。ユニホームのサイズも現役当時と同じという。「僕は背中が見えませんから。人からどう見えているかは分かりませんが」。すらっとした長身に「22」は映えた。

 竹中半平の『背番号への愛着』(あすなろ社)に<22番に監督あり>とあった。竹中はプロ野球草創期からのファンで、野球殿堂特別表彰委員会の初代委員も務めた開業医。同書は戦後1946(昭和21)〜47年に月刊誌『ベースボールマガジン』に執筆していた連載をまとめた名著である。

 巨人の初代「22」を背負った藤本定義について書いている。1936(昭和11)年、巨人の初代(形式的には第3代)監督に就いた藤本は伝説の「茂林寺の特訓」で鍛え、同年、プロ野球初年度の王者に導いた。39〜42年と4年連続日本一で、黄金時代を築いた。

 <人呼んで彼を智将という。果たしてそうであろうか>と竹中は書いている。阪神監督として62、64年とリーグ優勝に導いた当時は権謀術数に優れ、「伊予の古だぬき」と呼ばれた。阪神での背番号は「61」だった。

 <しかし、私はそれよりも、彼が若い好選手を見つけ出す眼と、抱擁力の大きさとが、巨人軍をあれまでノビノビと育て上げたのではないかと考えている>。なるほど「22」の名将には若手発掘・育成の眼力と包容力があったのだ。

 「22」初日の藤川をそんな目で見ていると、どこか「22」当時の藤本にあてはまる気がしてくる。グラウンドで選手の輪に加わり、コーチ個々に声をかけて回っていた。「まずは人と人として話した」と説明していた。「監督と選手(またはコーチ)」ではなく、人間的な心のつながりを重んじたのだろう。あちこちで笑顔の花が咲いていた。藤本がつくったノビノビに通じている。

 巨人監督就任時の藤本は31歳。時代は移り、監督も高齢化したが、44歳と若い藤川にも包容力はあろう。現役当時は投手陣のリーダー、投手キャプテンも務めた。若手を引っ張る存在だった。

 眼力も求められる。昨年日本一、今年リーグ2位の阪神だが、新戦力の台頭がなければ、V奪回はありえない。昔の「22」に思いをはせ、期待している。 =敬称略=(編集委員)