藤原行成ゆかりの石清水八幡宮(写真: terkey / PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたっている。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第41回は、道長や一条天皇からの信頼も厚かった藤原行成のエピソードを紹介する。

摂政の孫に生まれたが後ろ盾を失う

歴史に名を刻むような強烈な個性を持つ人物は「己の力だけで道を切り拓いた」と思われがちである。しかし、その背後には「右腕」のような存在がいることが少なくない。

平安時代に貴族のトップとして栄華を誇った藤原道長にもまた、そんなサポーターたちがいた。「四納言」と呼ばれる4人の公卿、源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成らがそうである。

なかでも最も若手である藤原行成は蔵人頭として、一条天皇と道長の架け橋となった。道長が剛腕を振るうたびに、行成は一条天皇の説得を行っている。

行成は天禄3(972)年、右近衛少将・藤原義孝の長男として生まれた。道長は康保3(966)年生まれなので、道長よりも6歳年下ということになる。祖父の藤原伊尹(これまさ)は屋敷が一条にあり、摂政を務めたことから「一条摂政」と呼ばれた。

しかし、行成が生まれた年に伊尹は49歳で死去。さらに3歳のときには、父が亡くなっている。外祖父の源保光(やすみつ)に養育されることになるが、行成が24歳になった長徳元(995)年に、保光も疫病により死亡してしまう。

摂政の孫に生まれながらも、後ろ盾を次々と失くしてしまった行成。花山天皇とは外戚関係にあったが、藤原兼家が策略を巡らした寛和2(986)年の「寛和の変」によって、花山天皇が出家すると、外戚の地位を失っている。

先行きが見えずに将来が不安だったに違いない。だが、長徳元(995) 年、保光という後ろ盾を失ってすぐに転機が訪れる。蔵人頭だった源俊賢が参議に昇進すると、後任として行成が蔵人頭へと抜擢されたのである。

出世の背景には、「四納言」では最年長の俊賢からの推挙があったと伝えられている。そんな幸運に恵まれたのは、家運が傾くなかでも行成が腐ることなく、誠実に働いていたからこそだろう。

翌年の長徳2(996)年には、行成は権左中弁に任じられている。藤原伊周が花山院に矢を射るという前代未聞の「長徳の変」が起きた年である。伊周が失脚して、道長が確固たる地位を築いていくなかで、道長を支える行成も力をつけていくことになった。

蔵人頭とは、いわば天皇の秘書官長であり、行成は一条天皇の最も傍にいたといってもよい。そのため、道長にとって「ここぞ」という正念場で、蔵人頭である行成が一条天皇の説得役として、大いに活躍した。

道長が娘の彰子を一条天皇の中宮にしようとしたときも、行成の弁舌が光った。一条天皇にはすでに中宮の定子がいた。このうえ、彰子まで中宮になれば、1人の天皇に2人の后がいることになってしまう。

「一帝二后」は前例がないうえに、一条天皇は定子を寵愛し、すでに第1皇女の脩子内親王と、第1皇子の敦康親王も生まれていた。一条天皇としては、宮中をざわつかせてまで、道長の娘・彰子を中宮にする理由は一つもないように思えただろう。

彰子を中宮にさせた「巧みな論理」とは?

はたして行成は、どんなふうに説得したのか。まず、中宮とは本来、神事に奉仕するために設けられていることを強調。現状の問題点をこう説明した(長保2〔1000〕年1月28日付『権記』より)。

「現在の藤氏皇后は、東三条院・皇太后宮・中宮みな出家しているので、氏の祀りを務めない」

定子が出家してしまっているため、本来の中宮の務めを果たせていないというのだ。中宮の意義に立ち返った、もっともな理論展開だといえるだろう。

そして「我が朝は神国である。神事を先とすべきだ」と畳みかけている。ちょうど大水、地震などの怪異が続いていただけに、一条天皇としてもそこを突かれると、痛かったに違いない。

さらに行成は、すでに出家して神事に携われない定子が、中宮のままでいることが、むしろ異例だとまで言った。

「中宮は正妃であるとはいっても、すでに出家されている。そのため、神事を勤められない。特別な天皇の私恩があるというので、中宮職の号を停止されることなく、すべて封戸を納めているのです」

「特別な天皇の私恩」という言葉に、異常な状況を作り出したのは誰なのか……と言外に一条天皇への批判が込められている。一条天皇としては、定子に思わぬ矛先が向かないようにするためにも、新たに中宮を設けざるを得なかっただろう。

長保2(1000)年2月、中宮の定子を皇后宮としたうえで、道長の娘・彰子が中宮として立后されることになった。行成に対して、道長は「子どもの代まで感謝する」という言葉をかけていたが、その期待に見事に応えたといえよう。

道長だけではなく一条天皇からも信頼

6年にわたって蔵人頭を務めた行成。長保3(1001)年8月、ついに参議に任ぜられた。長男が生まれたばかりということもあり、行成は気を引き締めたことだろう。


藤原行成ゆかりの行願寺(写真: or-kame / PIXTA)

実はこれより半年前の2月4日の時点で、行成は蔵人頭の辞任を申し出ていた。参議昇進を希望しての駆け引きだったのか、精神的なストレスからの辞任願いだったのかは、わからない。

確かなのは、一条天皇は行成の辞職願を却下しているということだ。それだけ必要な人材だったのだろう。9月7日、行成が初めて参議として参内したときには、一条天皇からこんな言葉をかけられている。

「蔵人頭の職からは去ることになるが、これからも聞き得たことを奏上するように」

道長だけではなく、一条天皇も行成の働きぶりを信頼して、頼りにしていたことがわかる。一条天皇は行成を、敦康親王の生活費を切り盛りする家司別当(けいしべっとう)にあてた。敦康親王をバックアップしてほしいという願いを込めてのことだろう。

寛弘8(1011)年、自身が病に倒れて「いよいよ後継者を決めなければならない」というときにも、一条天皇は行成に相談している。

一条天皇の次は、皇太子である居貞親王があとを継ぐことが規定路線だ。実際に居貞親王は、三条天皇として即位することになる。では、三条天皇が即位するときに、誰が皇太子になるのか。つまり、次の次に天皇となる、次の皇太子を一条天皇は決める必要があった。

このとき、中宮となった彰子は一条天皇との間に、2人の皇子をもうけていた。第2皇子の敦成親王と、第3皇子の敦良親王である。

だが、一条天皇は、亡き定子との間に生まれた、第1皇子の敦康親王に継がせたいと考えたらしい。順番からいけば、第1皇子が継ぐのが自然なのも確かだ。中宮の彰子すらも、自身の子ではなく、敦康親王が後継者にふさわしいと考えていたという。

どちらを皇太子に?行成の意見

ところが、第1皇子・敦康親王を皇太子にすることについて、一条天皇から意見を聞かれると、行成は「敦康親王の立太子には反対」という立場をとった。「敦康親王について思い嘆くのは、当然のこと」と一条天皇に寄り添いながらも「皇統を継ぐ者は、外戚が朝廷の重臣かどうかが重要」だとした。

というのも、左大臣の道長が、外孫にあたる敦成親王のほうを、皇太子にしたがるのは当然のこと。いくら一条天皇が敦康親王を皇太子にしようとしても、道長は簡単には承知しないだろう。

強引に敦康親王を皇太子に立てると、批判や不満の声が上がることは避けられない。下手すれば、政変が巻き起こるだろう。そうなれば、追い込まれるのは敦康親王である。

強力な後ろ盾がいない敦康を皇太子に据えても、混乱を招くのみ。それならば、十分な恩給を与えて、有能な人材を仕えさせたほうが、敦康親王のためにもなるのではないか……というのが、行成の意見だった。道長の気質を踏まえたうえでの、今後を見通した現実的な提言といえよう。

一条天皇は、敦康の擁立を断念。道長の孫にして、第2皇子の敦成親王が立太子されることとなった。

大局的な見地から、論理を組み立てて、相手を説得することに長じていた行成。大河ドラマ『光る君へ』では、誠実で温和な行成を渡辺大知が好演してる。大事な場面では、情熱的に語る姿も、よく表現されているように思う。

意外とめんどくさい一面も

一方で『権記』をよく読むと、最愛の妻を亡くしたときに、弔問に来なかった人物の名前をしっかりと書き残していたり(長保4〔1002〕年11月23日)、「私は道長に作法を褒められたが、権大納言の藤原斉信の作法は道長に酷評された」とわざわざ記していたりと(寛弘8〔1011〕年10月18日)、陰気でプライドの高い一面も、垣間見られる。

そんな行成の意外とジメジメしたところもまた、相手への細やかな気遣いへとつながったのではないだろうか。

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
『藤原行成「権記」全現代語訳』(倉本一宏訳、講談社学術文庫)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
源顕兼編、伊東玉美訳『古事談』 (ちくま学芸文庫)
桑原博史解説『新潮日本古典集成〈新装版〉 無名草子』 (新潮社)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
繁田信一『殴り合う貴族たち』(柏書房)
倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)