母にとって人生初のライブ体験。僕の横で、母は一瞬も逃すまいと見つめていた(画像:World Image/PIXTA)

日常をやり過ごすために必要なのは、映画館の暗闇の中のような絶対的な安心感。ひとりの時間、寄り道と空想、たしかな名前の付いていないあれやこれや。作家・燃え殻が描く、疲れた夜にそっと寄り添う30篇とちょっとのエッセイ集『明けないで夜』より、母のこと。

お好み、どうよ?

「普通にしなさい」

それが母の口癖だった。

「なんで普通のことができないんだ」

二浪までして大学に入れなかった僕に、父がため息交じりにそう言ったのを憶えている。

横浜郊外の「中の中」という感じの新興住宅地で、僕は学生時代を過ごした。僕の育った場所は「理由などなくとも大学には行くものだ」という地域だった。友達の母親同士は仲が良く、たまにみんなで集まって食事会などもしていたと思う。母親同士が話し合って、僕も友達も全員同じ塾に通った。同じ塾でも勉強ができる子と、できない子ではクラスが分かれる。母は、そのクラス分けに関して、かなりセンシティブになっていた。

一度、クラス分けが載ったプリントを、人差し指で確認しながら読んでいる母を見たことがある。そのとき母は、「あぁ……」と肺にあった空気を全部出すかのごとく、ため息を吐き、僕を一瞥してから夕飯の支度をし始めた。そして母は無言になり、わかりやすく天を見つめる。僕の名前は、できない子のクラスにあった。子どもながらに気を遣って、「本屋のおじさん、入院したって」などと話を振ってみるが、トントントンと包丁の音しか返ってこない。

台所に立つ母の近くまで行ってみると、母は野菜を千切りにしながら、涙をはらはらと流していた。そして包丁を使う手を止め、唇を震わせながら、「恥ずかしくて明日からスーパーに買い物に行かれないわ」と言った。僕は犯罪でも犯したかのようにショックを受け、涙を流すこともできずに呆(ぼう)然ぜんとしてしまった。この先自分が生きていても、両親をがっかりさせてしまうことばかりをやってしまいそうで、心底怖くなった。

その日は八月の終わりで、家の近くでたまたま祭りが執り行われていた。テープレコーダーのお囃子の音が、遠くから微かに聞こえる。ときどきマイクを使って、大声で誰かを呼んでいる声も聞こえた。僕は家にいるのがいやで、財布も持たずにそのまま玄関を出て、神社のほうに走った。

夏の夕暮れ、浴衣を着た女性が何人も行き交う。神社の境内までは、まだだいぶあったが、屋台が道沿いに先の先まで並んでいたのを憶えている。綿菓子の甘い匂いがした。金魚すくいの金魚は色とりどりで、座っている子どもたちが、なにが可笑しいのか、大袈裟に笑い転げている。焼きそばが鉄板で焼ける音。威勢のいい掛け声。りんご飴(あめ)を舐めながら歩く若者たち。僕は行くあてもなくずんずん歩いて、境内近くの、お好み焼きの屋台の前を通り過ぎる。

茶髪と黒髪が交じったお姉さんが、一通りお好み焼きを作り終え、椅子に座って煙草をふかしていた。「ふー、いる?」と煙草の箱を出して、僕をからかう。僕は思わず足が止まってしまう。「お好み、どうよ?」と笑顔で言う彼女。「すみません、いまお金なくて……」と返すと、「そう」とそっけない。そして、また彼女は煙草をふかす。僕はそのあと神社まで行って、とぼとぼ帰宅した。戻ってきた僕に、母は「夕飯できてるわよ」とだけ言った。

祭りの終わり

次の日、小遣いを持って、もう一度祭りに向かうと、昨日で終わりだったようで、はっぴを着た大人たちが、提灯などを外している真っ最中だった。道もキレイに掃除がされていて、あれだけあった屋台は跡形もなく消えていた。

茶髪と黒髪が交じった彼女のお好み焼きの屋台も、もちろん跡形もない。きっと僕の知らないどこかの町の祭りで、今日も一通りお好み焼きを作り終えたら、また煙草をふかしているに違いない。彼女からあのとき一本煙草をもらって、そのままどこか知らない土地まで、一緒について行きたかった。

祭りが終わって、いつもの町がいつも通りに戻っていく様子を見ながら、そんなことを考えていた。

母にとっての人生初のライブ体験

母の病気が見つかったのは、いまから六年前のことだ。緊急で行った大手術のあと、医師が母から摘出したモノを、僕たち家族に見せてくれた。それを見たとき、大袈裟でなく卒倒しそうになった。身体からこんなに多くを取ってしまって、人間は生きられるのだろうかと思ったほど、その量は多かった。酸素マスクをした母のもとに通されたのは、そのあとすぐのことだ。その日は冬で、病院の窓のサッシが、北風でカタカタと音を立てていた。母はベッドに横たわり、スーハースーハーと小さく息をしている。「お母さん」と妹が語りかけるが、目をつむった母からの返事はない。布団をかけられた母の身体が、僕の記憶よりも薄く感じた。

父は無言のまま、涙を拭いている。管に繫(つな)がれた母の右手を、僕はそっとさすってみる。母の手が冷たい。機械音がずっと鳴っていて、見たことのない数字が、画面の中で増えたり減ったりしていた。僕は母の冷たい手を手繰るように握ってみた。すると母はゆっくり片方ずつ目を開ける。

「お母さん」僕は母に語りかける。

酸素マスクをした母は、ほんのすこし口元を開いたあと、僕の手を信じられないくらい強く握った。「しっかりしなさい」と言われた気がした。

術後、容態は安定し、春になると一時退院することまでできた。母は、医師も驚くほどの回復を見せたが、身体にはまだ癌は残ったままだった。しかし高齢でもあり、その進行は遅い。放射線治療や外科手術を何度かしながら、自宅療養が現在もつづいている。

母は、僕がナビゲーターを務めるラジオ番組を、欠かさず聴いてくれていた。必ず感想もメールで送ってくれる。あるとき感想をメールではなく、電話で伝えてきたことがあった。それは『BE:FIRST』のLEOくんがゲストの回だった。「あの子はいい子ね。お母さんわかるの」と、まるで親戚の子か孫でも愛しむかのように熱く語っていた。しばらくして、LEOくんがライブに僕を誘ってくれたとき、たまたま母の話をしたところ、「もしお母さまの体調がよろしければ、ライブに来てください」と母の分まで席を取ってくれた。母にとって人生初のライブ体験。それが『BE:FIRST』のライブになった。

「すごいね、すごいね」

当日、関係者席に座った僕の横で、母はバッグの中からプラスチックの弁当箱を取り出す。中には大根を蜂蜜漬けにしたものが入っていた。母が蓋を開けると、関係者席にぷ〜んと漬物のような匂いが漂う。割り箸で、漬けられた大根をもぐもぐと食べだす母。

「それはなに?」と母に問うと、「咳が出たらLEOくんに失礼だから……」と言う。「音が大きいから、そんなこと心配しなくても大丈夫だよ」。僕は呆(あき)れながら説得するが、「周りの方々にも失礼だから……」と、すでに十分失礼な匂いをプンプン振り撒きながら、母は蜂蜜漬けされた大根を食べつづけた。


ライブが始まると、最初のほうだけは、音の大きさや演出の火花などに怯えていたが、その後はずっと「すごいね、すごいね」を繰り返しながら、最後まで少女のように楽しんでいた。若い人たちの拍手に負けないくらいの拍手をしている姿を見たとき、思わず目頭が熱くなる。そんな僕に気づいた母から、「しっかりしなさい」となにを励まされているのかわからない励ましを受けた。

あの冬の日。横浜郊外の病院で、ベッドに寝ていた母のことを、僕は思い出していた。あの日、母の手はとても冷たかった。母の冷たい手を、僕は手繰るように握った。すると母はゆっくり片方ずつ目を開ける。

『BE:FIRST』を一瞬も逃すまいと見つめている母がもう一度、「すごいね、すごいね」と言いながら、大きく拍手を繰り返していた。

(燃え殻 : 作家)