新時代を開いた世界史の英雄・アレクサンドロス。財産を失っても、放った一言がカッコ良すぎる!

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世界史上で「英雄」「大王」といえば、まずこの人物ではないだろうか。マケドニアのアレクサンドロス。東方遠征の軍を起こし、わずか10年ほどでエジプトからインダス川、中央アジアにいたる大帝国を築いて、32歳で早くも世を去った。好評の「地中海世界の歴史〈全8巻〉」の最新第4巻『辺境の王朝と英雄』(本村凌二著)では、この大王アレクサンドロスの生涯と、彼が切り拓いた新たな時代〈ヘレニズム時代〉の文明を描いている。

ポンペイで発掘された大王の勇姿

アレクサンドロスの勇姿を描いた有名な絵がある。

長槍を構え、髪を風になびかせて大きな瞳を見開いた横顔。まさに、強い意志と勇敢さをあわせ持った若き英雄を表現してあまりある。ペルシアの王ダレイオス3世と対決する「イッソスの戦い」のモザイク画だ。

しかしこのモザイク画は、マケドニアやペルシアに伝えられたものではない。ヴェスヴィオ火山の噴火で埋まった古代ローマの都市、ポンペイで発掘されたものなのだ。アレクサンドロスの死(BC323)から300年あまり後の、ローマの富裕層の邸宅を飾っていた精巧な美術品。ここに、大王が生み出した数々の伝説と、ヘレニズムという新たな文明の地中海世界への広がりを見ることができる。

父王フィリポス2世が暗殺され、アレクサンドロスがマケドニア王に即位したのは、紀元前336年、20歳の時だった。その2年後、王は東方遠征に出発する。ギリシアの各都市はすでに父王がほとんど制圧していたので、めざすはさらに東方の超大国、ペルシア帝国である。

遠征にあたって、まず必要なのは兵たちを養う費用だった。

アレクサンドロスの軍隊は、3万人から4万人の歩兵と4000人の騎兵を擁し、ほかにもギリシア都市が差し出す7000人の歩兵と6000人の騎兵がいた。これらの兵士と馬のすべてに食糧と装備を与えなければならず、さらに兵士たちの家族も養う必要があった。

王家といえども、もともと多額の借財をかかえていたが、アレクサンドロスは友人や側近たちの生活が安定していることを確かめなければ、遠征に出発するわけにはいかなかった。そこで、自分の屋敷や村、さらに港や村落からの収入も、人手に渡したのだという。

ほぼすべての王室財産を他人に譲り渡してしまったのだから、さすがに部下たちも不安になったのだろう。

この時の側近との会話がまさに「英雄の資質」を思わせるものだった。

兵たちを養うために財産を手放したアレクサンドロス。

〈親しい側近のペルディッカスが「閣下、ご自分には何を残されるのですか?」と質問すると、すかさず「希望だ」とアレクサンドロスは答えたという。まさしく傑出した英雄の真骨頂ではないだろうか。この若者なら口に出してもよさそうな真実味があり、それが事実であったかどうかを問うのは、もはやよそよそしい気がする。〉(『辺境の王朝と英雄』p.89-90)

この王の答えには、部下たちも強く胸を打たれたようだ。

〈ペルディッカスもまた、ためらいもなく「たいへん結構です。あなたに仕える者たちもまた、それをもつことにしましょう」と微笑んだ。じっさい彼は与えられた贈り物を断ったばかりか、さらに王の友人たち数人も同じように贈り物を断ったという。ここにはたんなる美談ではすまない、稀有な指導者のカリスマ気質が見事なほどあざやかに示唆されているのではないだろうか。〉(同書p.90)

情欲と睡眠は人の命を危うくする

アレクサンドロスは敵味方を問わず、毅然とした気高い姿に非常に好意をいだいた。

マケドニア軍がギリシアの有力都市・テーバイ(テーベ)を制圧したときのこと。殺戮と略奪が繰り広げられる中、略奪品を持ち去り、若い娘を凌辱した隊長がいた。この男はその娘にもっと金銀を隠していないかと問いつめると、娘が庭の井戸を示したので、隊長は身をかがめて井戸をのぞきこんだ。そのとき娘は隊長を井戸へ突き落とし、石を投げ入れて殺してしまった。

兵士たちにとりおさえられ、引き立てられてきた娘が毅然として歩く姿に心をうたれたアレクサンドロスは、娘の素性を問いただした。

〈娘は「われわれの軍勢の武将であり、ギリシアの自由のために、あなたの父フィリポスと戦ってカイロネイアの地で果てた男テアゲネスの妹です」と答えたという。その凜とした勇姿ばかりではなく、彼女の言動のすべてに感動したアレクサンドロスは、彼女を解放し、子どもたちのところへ戻し、都市を去るように勧告し、取り計らうのだった。〉(同書p.86)

日ごろから「情欲と睡眠は人の命をもっとも危うくする」というのが口癖だったといわれるアレクサンドロスは、ペルシア攻略の過程で捕らえた高貴な女性たちにも王者らしいふるまいを見せた。

〈彼女たちに初めて会ったとき、アレクサンドロスは畏友のヘファイスティオンに「あのペルシア女たちは目に毒だ」ともらしたという。自分を抑制できる青年王であったが、できるだけ彼女たちを避けるようにしていたらしい。思わず微笑ましくなるような伝聞である。〉(同書p.114)

もちろん、アレクサンドロスが、部下や庶民や敵兵に対して、常に思いやり深く寛大だったかといえば、必ずしもそうではない。従属国とその国民に対する礼儀正しいふるまいの陰に、殺戮と追放、奴隷化の悲惨な光景があった。

〈たしかに、アレクサンドロスは、古典教育をうけ、天賦の戦術の才に恵まれ、恐れを知らない若者だったが、金で雇った気まぐれな何千人もの殺し屋たちが集まれば、戦利品と流血と略奪のどんちゃん騒ぎでしかなかった。そこには、もはや規律ある市民軍も統制あるプロの軍団もいなかったのだ。このような陰湿な人間集団の一面も念頭においておくべきかもしれない。〉(同書p.140)

アレクサンドロス自身も、愛する親友ヘファイスティオンが熱病で急死した時には、大規模で壮麗な葬儀を営んだばかりでなく、制圧した現地の部族の男たちを捕え、子供から老人まで慰霊のためと称して虐殺したという。

新時代を切り拓いた若き大王は、その人格のなかに高潔さと凶暴さをあわせ持っていたのだ。

※続きは〈アレクサンドロスを大王へと導いた「あの哲人」の英才教育〉をぜひお読みください!

声なき「高地の民」マケドニアの王子、アレクサンドロスを大王へと導いた「あの哲人」の英才教育。