問題発言議員に決死のネガティブキャンペーン
青い芝の会が徹底して追及したのは、障害者は健全者より劣るとする優生思想だった。兵庫青い芝のメンバーは、県会議員の障害児に対する問題発言をきっかけに、今でいうネガティブ・キャンペーンを続けた。選挙カーと同じような車を用意し、マイクで議員の差別性をがなり立て、議員の評判を落とす作戦に出た。選挙ポスターには、ナチスのハーケンクロイツが加えられた。果たして兵庫青い芝の主張は、選挙戦に反映されたのか?
本記事は『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(角岡伸彦著・講談社刊)の一部を抜粋・再構成したものです。
『カニは横に歩く』第4回
第3回「重度障害者が施設を占拠――“無法者”たちのてんまつ」より続く
障害児は生きていても国の世話になるだけ――県議の問題発言
発端は1982年8月17日に開かれた兵庫県議会文教常任委員会でのある県会議員の発言だった。その前年、県立淡路聾学校幼稚部(洲本市)の聴覚と知能に障害を持つ男児が、学校内にある池で水死した。その賠償金に関する質疑で、自民党の井上安友(やすとも)県議(姫路市選出)が、次のように発言したのである。
「知恵遅れの子が学校の池で水死してなぜ1500万円もの賠償金を支払わなければならないのか。生きていても国の世話になるだけ。親が金をもってきてもいいくらいだ」
「池に落ちて死んだぐらいで、これほどの賠償金を支払う必要があるのか。こんなことをしていたら世の中、乱れる一方だ」
「私が建築会社を経営していたころは一家の大黒柱が労災で死亡しても日給の1000日分しか出なかった。知恵遅れの子に一体、どれだけの金が稼げるのか。明らかに出し過ぎだ」
(『朝日新聞』1982年8月20日付)
賠償額は過去の判例などから、障害児であるがゆえに将来の収入は見込めないとされ、遺族側の請求額の半分である1560万円しか県から支払われないことになっていた。井上は前掲の記事の中で次のようにコメントしている。
学校の中で起きた事故でも、子どもに過失のある場合は親も災難とあきらめ、見舞金程度でがまんすべきだ、ということが言いたかった。このごろの親は取れるものは取れ、という気持ちが強い。どこかでクギをささなければおさまりがつかない。障害を持つ人たちを差別するつもりはなかった。
また、地元紙には以下のように話している。
障害者を差別する発言では決してない。一納税者の立場から、県費の支出を厳しくしてもらいたいと思い、自分の考えを正直に述べたまでだ。
(『神戸新聞』1982年8月20日付)
電動車イスごとひっくり返される
もとより県側は、池に柵などを設置せず、安全管理に落ち度があったことを全面的に認めている。つまり井上の言うように「子どもに過失のある場合」ではなかった。
しかも賠償金は、日本学校安全会からの死亡見舞金が1200万円、県からはその三分の一の360万円しか支払われないことになっていた。井上の発言は、障害児の命が賠償金を支払うに値しないものであることを露骨に示していた。発言を報じる前出の記事には、いずれも「差別発言」という見出しが付けられていた。
生きていても国の世話になるだけ――そう言い切る議員に、一貫して優生思想に反対し続けてきた青い芝が黙っているわけがなかった。
新聞報道があった二日後、兵庫青い芝は自民党兵庫県連に抗議文を手渡し、二週間後にその回答を要求した。県連側は、発言は井上個人によるものと逃げたため、兵庫青い芝は井上に面会を求め続けた。井上とは一度、会うことができたが、差別発言はしていないと居直った上、「今度来たら、警察の手を借りて排除するぞ」と脅した。
業を煮やした青い芝のメンバー数人は、11月半ば、謝罪を求めて県連事務所で座り込み闘争を決行する。福永がその時の情況を語る。
「階段を上がって二階の事務所に行ったら『何や、お前ら?』いう感じの対応やった。『井上を出せー、出さんかい!』言うたら、『今日は来てない』と。そしたらすぐに警察を呼ばれて、機動隊員に電動車イスを抱えられて1階に降ろされた。降りたら、電動車イスごとカメみたいにひっくり返されて、タイヤが真上になった。わしはうまい具合にケガせんように落っこった」
当日、福永の介護に入っていた広瀬正明がその時の様子について語る。
「機動隊が来たら逃げるように言われてたんで、介護者はみんな建物から離れた。20分くらい経ってからかなあ、現場に戻ったら福永さんの電動車イスが完璧にひっくり返されとってん。福永さんも仰向けになっとったから元に戻したけど、あれは故意に倒してたと思う、確実に。びっくりしたで。機動隊も無茶しよるなあと思たもん」
さいわい福永にケガはなかった。議員の後ろ盾があるから、少々手荒な事をしてもかまわないと考えていたとしか思えない機動隊の行動であった。
『交番にビラを貼りに行け』
以降、兵庫青い芝は、翌83年4月におこなわれる県議選に向け、反井上キャンペーンに取り組む。今で言うネガティブ・キャンペーンである。
当時の兵庫青い芝の活動は、養護学校義務化反対を訴えた県庁前の座り込みで一時的に盛り返したものの、再び介護者不足などから、会長の澤田をはじめ長谷川らが活動に参加しておらず、福永が実質的に率いていた。
キャンペーンは、問題発言を非難したビラを井上の地元の姫路市飾磨区内でまいたり貼ったりすることから始まった。夜中に青い芝のメンバー4、5人が集合し、井上の家やそのすぐ前の中学校の外壁、周辺の電信柱などに洗濯糊で貼りつけた。ビラには、井上の似顔絵の額にナチスの鉤十字(ハーケンクロイツ)が描かれていた。ヒトラー率いるナチスは、ユダヤ人や同性愛者とともに優生思想に基づいて障害者を迫害した歴史がある。井上は兵庫青い芝によって、歴史に残る差別・排外主義者、ヒトラーに匹敵する政治家の烙印を押された。
当時、神戸大学の学生で、反井上キャンペーン展開中に介護者だった矢野誠が証言する。
「あの闘争はおもしろかったなあ。すごい人らやと思たわ。俺に『交番にビラを貼りに行け』とかさ。肝試しみたいなこと、させんねやがな。軍手して洗濯糊とハケで貼った。こんなことして意味あんのかなあと思ったけどな。そんなことせんでもビラさえ配っとけばええのにと思とったけどな。こんな世界があんねやみたいな感じでおもしろかったよ」
大阪教育大学の学生だった橘純一郎も、反井上キャンペーンで福永らと行動をともにしてきた介護者の一人である。
「Kっていう悪い男がおってな。入ってる施設で人の物を盗んだりしとったから引き取ってくれへんかということで福永さんとこに居候しとってん。Kは悪いことするんが好きやから、夜中に井上安友のとこに毎晩電話しよったらしい。夜、電話するんを手伝うとったと言いよったからなあ」
電話攻撃を指示したのは福永である。福永は自分でもかけていた。
「夜中の2時か3時頃や。『井上さんですか?安友さんいますか?』言うて、本人が出たら切った。10回以上はやったな、電話は介護者がかけたけど、わしが電話に出て言うた」
これはいたずらを通り越した犯罪である。言語障害があるので、電話の声の主が誰であるかは相手にはわかっていたはずである。かつての犯行を、福永は今どう考えているのか。
「青い芝はしつこいよ、ということを言いたかっただけ!」
反省の色は、微塵もない。
元旦に自宅前で新年のあいさつ
選挙が近づくとネガティブ・キャンペーンは本格化した。兵庫青い芝所有のワゴン車と、新たに借りたポンコツの乗用車の屋根に街頭宣伝用のマイクをとりつけ、井上の地元を走り回った。マイクを握るのは、福永である。何を訴えていたのか。
「県会議員にこういう人がおる。飾磨の人はこれでええんですか?と言うて、二台の車で山電(山陽電車)飾磨駅の近くをグルグルまわっとった」
これでええんですか?
と言いたかったのは、攻撃される側の井上であっただろう。
問題発言から5ヵ月経った83年の元旦。兵庫青い芝のメンバーは、さっそく早朝から抗議行動を開始した。福永は屋根に街頭宣伝用のマイクを付けた車二台を「選挙カー」と呼んでいた。
「朝の6時頃に井上の自宅に行って、選挙カーのマイクで『あけまして、おめでとー。今年は選挙あるけど、絶対蹴落としたるからなー』と言うた。しんどなったら交替して、2時間ほどやったかな。この正月のあいさつは、このあとも10年以上やった」
選挙期間の直前には候補者に負けじと、マイク情宣の頻度も増やしていった。再び当時、大阪教育大学の学生だった橘純一郎の話。橘は教員採用試験に合格し、数週間後には新任教師になる予定だった。
「姫路の選挙事務所の前で、青い芝が『こんな悪い奴が許されてええのか!』とマイク情宣してた。俺はその車を運転してた。選挙妨害やいうことで事務所が警察(ポリ)を呼んで、後ろと前にパトカーに挟まれた。あのとき、ああ、せっかく就職したのにと思たんをおぼえてる。結局、警察には誰も捕まらず、セーフやったんやけどな。そのとき事務所のおっさんが、俺らが乗っとった車のドアを開けてキーを抜いてもてな。事務所に取りに行ったけど返してもらえへんかった。それで車に戻ったら、キー抜いとんのにエンジンが切れてないねん。そんな車あるんかいなと思た。そしたらおっさんがキーをポイッと車の中に放り投げた」
福永によると、動いていた車のキーを抜いたおっさんは、井上本人であるという。青い芝によるネガティブ・キャンペーンに、井上も相当苛立っていたに違いない。井上がキーを抜いたまさにその時、福永は、その行為をアナウンサーよろしく実況中継した。
「カギを抜いたけど、車がボロやから動いた。マイクも使えた。『いま、井上がカギを取りましたー。そして逃げましたー』と言うた。車はまだ動くやんか。そやから井上はケッタイな顔しよった。なんでカギが抜けたのに動くんや、と」
ネガティブ・キャンペーンの成果
執拗かつ露骨な反井上キャンペーンに、警察の監視も徐々に厳しくなり、マイク情宣中に警官が注意を与えることもあった。福永と高田は、選挙違反で検挙されないように、発言中に、ときおり兵庫青い芝が発行している出版物を連呼するなどして選挙妨害が目的ではないことを強調した。
井上とは一触即発の場面もあった。福永の指令で夜中に電話をかけていたKも一枚噛んでいる。福永の話。
「選挙カーにみんな乗って、井上の事務所の前で情宣活動してた。Kが小便(しょんべん)したい言うから、尿瓶に取らして、『事務所の前にまけー』言うて流したんや。あわてて事務所の人が出てきた。『なんでそんなことするんですか!?』言うから、マイクで『なんでこんなことをするか、井上が発言したことをよう考え!』て怒鳴った。そしたら事務所から井上が出てきて、小便を撒いたKにぶつかってきよった。『おい、引き返そう』言うて、その場を離れた」
井上の県議会における委員会での発言が、障害者にとって大問題であることは言をまたない。しかし、兵庫青い芝の常軌を逸した行動は、犯罪すれすれのネガティブ・キャンペーンであった。
71年に約1万4000票で初当選し、二期目に2000票を上乗せして再当選していた井上は、三期目を目指したこの選挙で、3000票を減らし、12人の候補者中、最下位で落選した。自民党が候補者を一人増やし五人が出馬したため票が割れたことが大きかった。加えて総評など20団体が加盟する「障害者問題を考える兵庫県連絡会議」も井上発言を問題視し、抗議声明を出すなど選挙戦に少なからず影響していたことは考えられる。しかし、兵庫青い芝の執拗なネガティブ・キャンペーンが、ジワジワと功を奏したことは否定できないだろう。
執拗な追及が議員を追いつめる
キャンペーンの首謀者である福永は、次のように振り返る。
「最下位やんか。やったーいう感じ。きめこまかーい運動の成果や。嫌がらせの運動や(笑)。まさかこういうことをやる障害者団体があるいうことを知らんかったやろ。祝杯はあげてない。落っこったという宣伝はやったけどな。翌日に選挙カーで飾磨をグルーッとまわって『落ちて良かったですねー。おめでとうございます』て言いに行った」
福永は「嫌がらせの運動や」と語っているが、これは運動ではなく、純粋な嫌がらせであろう。
青い芝の闘いはそれだけでは終わらなかった。落選という目的を達成することはできたが、次回の選挙で出馬するかもしれない。出馬して当選でもすれば元の木阿弥になる。そうならないよう、井上の再出馬への警戒は怠らなかった。毎年元日には“選挙カー”で井上の自宅前でマイク情宣をおこなった。86年12月に開かれた兵庫青い芝の役員会のレジメには、「差別糾弾」の項目に、「『おめでとう』コール行動(宣伝コール)1987年1月1日PM1:00、山電飾磨駅集合」とある。「『おめでとう』コール」とは、新年のあいさつの後、「今度選挙に出たらまた蹴落としたるー!」とマイクで怒鳴るのである。さぞかし井上は、陰鬱な新年を迎えたことだろう。
井上は次の87年の県議選にも出馬したが、やはり最下位で落選している。前回の得票よりさらに2000票以上目減りしていた。以降、一度も立候補することなく、2002年に死去した。二期を務めた県議は、自らの失言と兵庫青い芝の執拗なネガティブ・キャンペーン、福永言うところの「嫌がらせの運動」によって政治生命を断たれた。
私は2009年の秋に、遺族に話を聞くべく井上宅を訪れたが、触れられたくない忌まわしい記憶であったのだろう。インターホンごしに取材拒否の通告を受けただけで、会うことさえできなかった。
兵庫青い芝はそれ以前も、そしてそれ以後も数々の糾弾闘争を展開してきたが、その大半が子殺しなどの優生思想に対する闘いだった。その都度、行政の責任を追及し、抗議集会を開いても、子殺しや心中が減少することはなかった。それだけ優生思想が日本社会に根強く存在していたと言える。
自らが撃った弾が、どこに飛んでいるのか、それが当たっているのかすらわからない。そんな運動を続けていた兵庫青い芝にとって、県議の問題発言に端を発した落選運動は、数少ない目標を達成できた闘争であった。当落という具体的な結果が得られ、なおかつネガティブ・キャンペーンの成果とも言うべき得票数も公表されている。兵庫青い芝から見れば、二度の落選、得票数の減少は、完勝であった。抗議方法はともかく、「こんな議員が許されていいのか」という障害者の怒りが、優生思想を持つ県会議員に少なからぬ打撃を与えた。