「奇跡的な出会いで結婚した妻」を失った男が伊豆の海にスマホを投げる…ヴェネツィア国際映画祭で大絶賛された映画の監督が語る「不可解なシーンの真意」と「演技経験ゼロ」の俳優を起用する理由

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映画『SUPER HAPPY FOREVER』(全国上映中)は、2023年8月に幼なじみの佐野(佐野弘樹)と宮田(宮田佳典)が伊豆にあるリゾートホテルを訪れることからはじまる。観光地にいながらも、彼らの足取りにはどこか暗い雰囲気がただよう。実は佐野は、かつてこの地で出会った妻・凪(山本奈衣瑠)を亡くしたばかりだった。やがて物語は5年前の2018年にさかのぼり、佐野と凪の出会いが振り返られていく――。

監督の五十嵐耕平氏は、東京藝術大学大学院の修了作品『息を殺して』(2014年)がロカルノ国際映画祭新鋭監督コンペティション部門に出品され、またダミアン・マニヴェルとの共同監督作『泳ぎすぎた夜』(2017年)がヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門に出品されるなど、作品は国内外からの高い注目を集めてきた。本作もまた、ヴェネチア国際映画祭ヴェニス・デイズ部門で日本映画初となるオープニング作品に選出され、また製作においてもポストプロダクションをフランスで実施するなど、国際色は豊かなものであったという。タイトルにも感じられるような、「奇跡のような幸福な瞬間」を鮮やかに描いた本作の生まれた過程について、五十嵐監督にお話をうかがった。

5年間の「目に見えない変化」を捉えたい

――長編映画としては前作の『泳ぎすぎた夜』は、「雪と子供」の映画でした。実際に監督もインタビューにおいては、まずそのふたつが『泳ぎすぎた夜』の原点にあったことを語られていますが、本作は対照的に「海と大人」の映画ですね。というのは少し強引かもしれませんが、着想のきっかけについて教えていただけますか。

もともとは、今回主演を務めていただいた佐野弘樹くん、宮田佳典くんから「自分たちが面白いと思える映画を作りたい」という由のメールをいただいたことにありました。俳優という仕事はオファーを待つ、つまり「受け身」の姿勢でいることが多いとは思うのですが、ふたりとは一緒に何かできるかなと感じて、そこから映画の構想を練りはじめました。

最初はふたりにどのようなプロットがいいか、案を出してもらって、それを話し合いの中で揉んでいったという感じですね。「幼なじみの男性ふたりが旅行に行く」という設定は、当時の社会状況から生まれたところもあるとは思います。コロナが流行しはじめ、ほとんどどこにも出かけることができていなかったので、逆にリゾート地でバカンスを楽しむような映画を作ってみようと。「旅行に行く」という基本的な軸が固まったのちは、ふたりが旅先で何をするか、少しずつその内容を詰めていきました。

――2018年と2023年、ふたつの時代を組み合わせるという設定はどこからスタートをされたのでしょうか。

シナリオハンティングで熱海や伊東など、いくつかの観光地を訪れたのですが、コロナがはじまる前の2018年の熱海では、あまり多くの人の姿を見ることはなかったような気がします。その一方で、コロナが下火になった2023年には、大学生など多くの若い人の姿を見ることができて、そういう現象自体が考えると不思議だなと思ったんですね。

5年の間に何が変わったのか。建物が取り壊されたり、人が亡くなったりして、物理的な変化は決して少なくはないでしょう。ただ、僕たちはその変化をちゃんとは認識できていなくて、基本的には何事も変わらないような感じで毎日を生きている。表面的には変わらないように見えながらも、でも確実に変わっているものを、映画の中で捉えたいと思いました。

現実と虚構のあわい

――映画の後半では、物語の舞台が2023年から2018年へと移行します。ただ、その転換点はテロップで「2018年」と表示されるようなことはなく、映画が進む中で「あ、ここは過去なんだ」と次第にわかるような構成になっています。

それもいま申し上げたように、「表面的には変わらないように見えながらも、でも確実に変わっているもの」を捉えたいと感じたことに起因します。たとえば、登場人物の髪形とかも変えてはいないですし、わかりやすい差別化はせず、観客と一緒に、じっくりと「変わったもの」について考えたいと思いました。

――物語が始まった時点では、突然スマホを海に投げたり、5年前に失くした帽子がないか突然ホテルの従業員に尋ねるなど、佐野の行動は観客の視点からは不可解なものが目立ちます。しかし、その理由はだんだんと観客にもわかってくる。登場人物の置かれた状況や世界観について基本的な説明をせず、いわば謎を孕んだまま物語が進んでいく構成は、『息を殺して』などにも通底する五十嵐監督の作法であるように思いますが、そのような構成の根底にあるものは何か、教えていただけますか。

僕の中では、そうした構成は奇をてらったものというよりは、むしろ自分の中での自然な感覚を落とし込んだものなんですよね。日常で誰かに接するときには、その人のことを完全に理解できるということはまずないですよね。なんとなくな「その人像」は自分の中にできても、その人がどういう思いを持っていて、どういうことで悩んでいるのか、深い内実は時間をかけなければ近づけない。または時間をかけたとしてもそれはわからないものです。最初から情報を提示して、観客がその人物についての「わからなさ」のないままに物語が進んでいくという風にはしたくなかったですし、観客が少しずつ、佐野や宮田のことを知っていくという形にしたいと思っていました。ただそれでも彼らのことや他者のことを安易に、わかった、共感できる、理解できると言えてしまうこと、思えてしまえることには抵抗したいと思っています。

――五十嵐監督の作品は基本的にはフィックスでの撮影で、かつ引きのショットが多いこともあり、ドキュメンタリー的な肌触りを感じることも少なくありません。本作の撮影もまたそのような形ですが、いっぽうで同じ「佐野」という名字の人がたまたま会い、何気なくプレゼントした帽子が意図せずに誕生日の贈り物になるなど、ストーリーの部分ではなかなか偶然にはありそうもない連鎖が起きますね。ドキュメンタリーとフィクションの「あわい」のようなものについては、どれくらい意識をされているのでしょうか。

意識はしていないです。ただ僕の場合、もともとは自分が生きてきた中で経験したことや、社会への憤り、不思議に思ってきたことを映画という形に落とし込んでいるところはあるので、ドキュメンタリー的な肌触りがあるとすれば、そういう現実から発想をスタートさせていることに理由があるのかもしれません。ただ、僕がこういう経験をした、これを怒ってると話すだけでは映画にはならないので、映画にする際に、フィクションの要素を足していく。そういうことだと思います。

――『息を殺して』や『夜来風雨の声』(2008年)にも通底しますが、映画の役名が、「佐野」「宮田」という俳優の実際の名前を踏襲していることもそうですか。

そうですね。とはいえ今回は最初からそうするつもりはなかったのですが、脚本を書く段階で、実際の佐野くんや宮田くんには普段の生活のことや、普段考えていることを色々と話してもらって、そこからヒントを得つつ物語を組み立てていったんですね。実際に映画の中でも彼らの「現実」は引き継がれていて、佐野のリサイクルの仕事をしているという設定は、実際の佐野くんの経験を使わせていただいたものですし、宮田のボクシングをやっていて、スピリチュアルなものに惹かれがちという設定もまた然りです。脚本では暫定的に、役名も彼らの名前のまま書いていたので、そういう流れの中に身を置いていると、途中から改めて役名を作るのもなと思い、留まった感じです。

演技経験のない人を作品に起用

――また、演技経験のない人を作品に起用するのも、五十嵐監督の作品によく見られる傾向ですね。本作では、ホテルの従業員であるベトナム人のアンを演じた、ホアン・ヌ・クインさんはそうした方にあたります。

映画がきっちりとした、ひとつの形におさまるようなことに息苦しさを覚えていることがあるかもしれません。映画はスクリーンという「形」におさまるものではありますけど、むしろスクリーンが破れて、その外にある世界まで広がっていくほうが、自分にとってはいいんじゃないかと思うんですね。現実と映画の境界が破れるような、風通しのよさを求めているというか。演技を経験したことのない人を作品に起用するとか、ロケーションを重視することもその一環です。

キャスティングについてもう少しお話しすると、演技経験があるかないかということは、僕にとってはさほど重要ではありません。映画における人物像をある程度練ってみて、こちらが想定するその役の置かれた状況、また言葉やアクションが演じる人の身体性に合っていれば、演技はできるのかなと思っています。

実際にホアンさんは、そういう意味でのずれはありませんでした。むしろ、彼女は戸惑った様子もなく、演技の中では本当に堂々としていて、みんながその度胸に驚かされたくらいでした。

――作中では、現在と過去をつなぐ重要なアイテムとして、凪がかぶっていた「赤い帽子」と、アンをはじめさまざまな登場人物が口ずさむ歌『Beyond the Sea』が登場します。

こちらも、僕自身の生活の中から出てきたものではあります。劇中で凪が失くす帽子については、ヴェネチアで前作の『泳ぎすぎた夜』を上映した際に大木(真琴)プロデューサーが携帯を海に落としてしまって、そこから想起しました。あの携帯は僕らが死んでもまだアドリア海の底にあるのかと思うことがあります。取るに足らないようなただのiPhoneだけど、失うことで強烈な思い出になる。そしてヴェネチアでの幸福な時間が、失くしたiPhoneとともにある気がして、失うってことはただ消滅することなのではなく、世界に散らばっていくことなのかなと思いました。

『Beyond the Sea』は、なじみの居酒屋で聴いた曲です。店は和風なんですが、アメリカのオールディーズの曲がかかっていることが多く、そこで偶然、『Beyond the Sea』に出会ったんです。今考えている映画にぴったりだなと感じ、映画の中にも使用することを決めました。

フランスでのポストプロダクション

――本作のポストプロダクションはフランスで行われたとのことですが、そこでの利点としては何がありましたか。

長く時間をかけることの意義を学べたのが大きかったですね。たとえば、サウンドデザインには5ヶ月くらいをかけたのですが、日本ではそれくらい時間に余裕を持てることはまずないので、長いスパンの中で映画の音が少しずつ良くなっていくことを実感できたのは幸せでした。

その一方で、それがオーバーワークにつながるということもなくて、向こうでは「時間通りにやる」ということが常識になっていました。毎日朝10時に仕事場に来て、夕方5時になったら、スタッフが子どもを迎えに行く時間だから終わりとなって、必要以上に疲れるということもありませんでした。

また、スタッフとの「違い」を感じられたこともありました。もちろん、日本でも個々人の価値観や、生活環境の違いについては指摘できますが、フランスではまず人種が多様ということもあり、基本的な感じ方においても「違い」はあったんですね。日本の場合、こういうシーンでこういう音を使うと、こういう風に感じるよねといった暗黙の了解があって作業は進みますが、そういうところでも「違い」があって。それだけ当初は思ってもみなかったアイデアも聞けて、それも映画のブラッシュアップには役立ちました。

――意識している同時代の監督はいらっしゃいますか。難しければ、本作を作るうえで示唆を得た作品などでも大丈夫です。

前者は難しいので、後者でお願いします(笑)。まずはロベール・ブレッソンの『やさしい女』(1969年)ですね。映画はドミニク・サンダの演じるヒロインが亡くなり、その遺体を夫が見る場面から始まります。それから回想のシーンとなり、夫妻の出会いやさまざまな思い出が振り返られていく。映画の中では、ヒロインがすでに亡くなった現在と、生きていた過去がはっきりと区別されるのではなく、むしろ重なり合っているように見えて、それが興味深い。

もう一つは、『アメリカ人消防夫の生活』(1903年)ですね。映画が発明されてごく初期に作られた10分弱の短編ですが、クロスカッティングされたバージョンと、クロスカッティングされていないバージョンがあって、このクロスカッティングされていない方に改めて映画の魅力を感じたんですね。内容は家で火事が起きて、消防夫たちが消火に向かうという単純なものですが、まず家の中から見た救助の様子が最後まで描かれて、その後で今度は時間を巻き戻して、家の外から見た救助の様子が最後まで描かれる。同じ時間を、視点を変えた上で繰り返して描いている。映画はこのように、単一的じゃない世界を表現するものなんだなと改めて思いました。

――今後、作りたい作品や、挑みたいテーマなどはありますか。

ぱっとは思いつかないですね(笑)。僕の場合、自分から明確なイメージがあって映画がはじまるということはなくて、誰かとの出会いのなかできっかけが生まれて、それが転がって映画になっていくという感じです。今後もそのような出会いの中から、作品を生み出していくのではないかと思っています。

出演:佐野弘樹、宮田佳典、山本奈衣瑠、ホアン・ヌ・クイン

監督:五十嵐耕平 脚本:五十嵐耕平 、久保寺晃一

製作:NOBO、MLD Films、Incline LLP、High Endz 配給:コピアポア・フィルム

©2024 NOBO/MLD Films/Incline/High Endz 2024年/日本=フランス/94分/DCP/カラー/1.85:1/5.1ch

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