労働は人間に与えられた「罰」なのか…社会にとって不可欠な仕事ほど給料が安い「根本原因」

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「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

教員のストライキと反発

教員や自動車工場の労働者のストライキの例をグレーバーはあげています。

アメリカでは(というか世界では)工場労働者や教員がストライキをやることは労働者の権利の行使として常識的な現象です。とはいえ、かれらのストライキに対する反発も強い。そこには「あいつらはやりがいのある仕事をしやがって、しかもそれなりの報酬もえやがって、それ以上なにが欲しいんだ、ふざけるな」という反感がひそんでいる、とグレーバーは分析しています。

ここでの議論は、少し理解がむずかしいかもしれませんが、BSJの文脈となっている労働観を念頭において想像したり、とくにもし日本でいま教員のストライキが起きたらと考えたりしてみれば、わかりやすいとおもいます。

まあ想像するだにおそろしい罵詈雑言、誹謗中傷、陰謀論が「ネトウヨ」を先頭にネットで荒れ狂うでしょう(こう想像してみると、価値ある仕事をめぐる反感が右翼ポピュリズムの源泉であるということの意味がわかるような気にならないでしょうか)。

とはいえ、もともと日本では小中高の教員のストライキへの抵抗は根強いものがありました(もちろん、そこでは公務員にスト権がないという日本独特の条件も手伝っています)。いわゆる「革新勢力」のなかにすら反発があったのですから。

教師とは「聖職」であるというのがひとつの理由です。そこには他者にとりわけ奉仕する価値ある仕事だからこそ、ふつうの労働者とおなじように物質的条件をもとめてその崇高な仕事を放棄するなどあってはならないとする観念があります。

このなによりも有用である労働、社会的価値のある労働に対して報酬をもとめることへの反感がわかりやすいかたちで露呈しています。いまではもっとむきだしの反発があふれるでしょう。教員の労働条件の過酷さはだれもが知っています。

そういえば、文科省がツイッターで「#教師のバトン」というハッシュタグを使って、現役の教師たちの声を募集したことがありました。もともとの狙いとしては「いまは教師になる人が少ないから、現場から教師という仕事のすばらしさを発信してもらおう」というものだったとおもうんですが、ふたをあけてみると、そのハッシュタグが「残業代未払い」とか「部活動の強制労働」などの話題であふれて、教師という仕事の労働環境の酷さを逆に露呈させるものになってしまいました。

それでもいま教師になろうとする人の多くは、きっと教師という仕事を「それでもやりがいがあるはずだ」と選んでいるとおもいますし、実際に仕事をしながら、そのかたちはさまざまでしょうが、なんらかの意義を感じてもいるでしょう。

でも、それがこのような労働条件の過酷さがスルーされていく条件なのです。それ以上のことを要求すると、「ふざけるな、やりがいがあるだろう」「そんな仕事をしていて物質的厚遇をもとめようなんて、なんて欲深いんだ」となるわけです。

それにしても、こうした精神状態ってほんとに荒廃してますし、そもそも、こういうシステム全体から膨大な富をえている一握りのエリート以外、「だれも得をしない」ですよね。こうした状況に早急にとどめを刺したい、というBSJ論の意図が迫ってきます。

「労働」とはなにか

このような考えの背景に、グレーバーは資本主義あるいは資本主義をドライブする資本主義的価値観の揺籃となった北部ヨーロッパにおける労働観の成立を歴史的にたどっています。ここでは最低、つぎの点を押さえておけばよいとおもいます。

「エッセンシャル・ワークの逆説」をもたらす労働についての観念には、以下の三つの観念が複合しています。

(1)労働は人間に与えられた罰であり、人間にとっては苦痛であるという観念

(2)労働は無からなにかを生みだす創造であろうという観念

(3)労働にはそれ自体で価値がある、しかもそれはモラル上の価値であるという観念

これらの三つの観念が、中世後期の北部ヨーロッパで絡まり合って、資本主義の展開とともに、、わたしたちのいまにいたる労働観を形成している、グレーバーは、こう考えているようにおもわれます。

この議論は、(1)と(2)がキリスト教的伝統と神学に根ざしているのに対して、(3)は中世の北部ヨーロッパの世俗的展開に根ざしていることから、さらにややこしさが増しています。それぞれみていきたいとおもうのですが、そのあふれでる含蓄にあまりかかずりあわないように、筋だけをピックアップします。

(1)労働とは人間に与えられた罰であるというのはキリスト教的伝統にあります。アダムは神の掟を破った罰として、エデンの園を追放され、苦行としての労働を課せられます(ギリシアのプロメテウスの神話でも、人間は神をだました報復として労働が課せられます)。労働は苦行である、これがひとつです。

(2)もうひとつ、神学的伝統です。労働は弱められた神の創造であるというのは、キリスト教の展開のうちにあらわれたヨーロッパに伝統的な発想です。無からなにがしかの主体がすべてを創造するといったイメージは、一神教に強い発想です(多神教の伝統においては、たいていすでに宇宙はそこにあります)。こうした無からなにかを生みだすという神のイメージが人間、とりわけ家父長制のもとで男性にスライドして(女性は子どもをうみます)、「弱められた神の創造」としての労働のイメージとなります。

たしかに、わたしたちは労働というとすぐに、それまでなかったなにかをこの世にもたらすこと、その意味での製造と等しく考えられた生産と捉えがちです。ところが、労働の現実をみるなら、それがおもいこみにすぎないことがわかります。

グレーバーのよく出す例でいえば、ガラスのコップです。ガラスのコップをこの世に生みだす作業は一度きりです。ところが、そのコップはたとえばレストランあるいは家庭で何万回と洗われ保管されて、わたしたちの食生活に奉仕することでしょう。コップをめぐってそれを現実にもたらした時間やそれに携わった人間を、それの「メンテナンス」にかかわった時間や人間のほうがはるかに凌駕するのです。

ところが、わたしたちは労働のこうした重要な側面を、労働を観念するときになぜか忘れてしまいます。そして、19世紀から20世紀にかけて、工業化がすすんでいくにつれ、ますますこの観念は強化されました。

ロンドンで地下鉄労働者がストライキをおこなったとき、そのビラにかれら自身がみずからの仕事の細目をあげたものがあって、それをみたグレーバーは、かれらのあげる業務の大半は、迷子を探したり、客の問い合わせに応じたり、忘れ物を管理したり、客どうしのトラブルやあるいは犯罪に目を光らせたりといった、輸送に直接かかわる職務よりも人間への配慮にかかわるものであることに気づきました。

つまり、わたしたちの労働のかなりの部分が、モノの生産ではなく、モノや人のケアの次元にかかわっている、あるいはほとんどすべての仕事にケアの次元がふくまれているのです。

(3)そして、ヨーロッパ中世の神学には直接にはかかわらない要素です。中世の北部ヨーロッパには「ライフサイクル奉公」という制度がありました。

「ライフサイクル奉公」とは、男女問わず、かつほとんど身分も問わず、仕事にかかわる人生のはじめの7年から15年ほど、じぶんの家族を離れて、修業するというものです。

たとえば、職人が一番わかりやすいのですが、ティーネージャーの若者がまず親方に徒弟としてつきます。それから雇職人(ジャーニーメンといいます)となり、一定の期間をへて親方の地位を獲得します。それではじめて一人前です。結婚してじぶんの家庭や店をもち、じぶんの弟子をとる。こういう過程です。

農民にもおなじような仕組みがあり、貴族でさえ例外ではありませんでした。貴族の娘は、わずかばかり高い地位にある既婚の貴族女性に侍女として仕え、青年期を送りました。侍女は「ladies-in-waiting」ともいいます。つまり、やがて結婚しみずからレディ(淑女)になるまでの待機中の女性です。「仕える」を「wait upon」と表現しますが、これもそこからきています。ウェイター、ウェイトレスという現代のサービス業の表現にこうした伝統が残存しています。

この時期、一人前未満の男女は奉公の対価に報酬をえていました。だからこれは、ある意味で先駆的な賃労働であるともいえます。

とはいえ、ここで重視されていたのは、マナーの獲得でした。マナーとは、たんなるエチケットのようなものではありません。「世界のなかで人がふるまったり存在したりするその様式、より一般的には、人々の習慣や趣味、そして感性」のことです。つまり、人間としてのありようを学ぶ機会でもありました。ここでは支払い労働は同時にこの世界を生きるためのモラルを学ぶ教育の機会でもあったのです。

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病