意外と誤解している「割に合わない仕事」と「クソどうでもいい仕事」の大きな違い

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「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

「シット・ジョブ」とはなにか

地味だけど社会的に意味のある仕事は無償かあるいは非常に低額の報酬で、そうではないよくわからない仕事には多額の報酬が与えられている──BSJ現象に普遍的にみられるこの力学を考えるときには、ここまで大事だけれどもペンディングにしていた論点にふれておかねばなりません。「クソ仕事」つまり「シット・ジョブ」です。

もう誤解はないとおもいますが、最初のうち、わたしもよく遭遇した混乱に、BSJと労働条件の劣悪な仕事とのとりちがえがありました。グレーバーはこの「割に合わない仕事」を「シット・ジョブ」と呼びます。日本語で「クソ仕事」としてかまわないとおもいます。

BSJとシット・ジョブは似ているようで、実は正反対です。シット・ジョブは、たいてい労働条件は劣悪です。それにあまり社会的地位が高いともいえません。日本でかつて「3K労働」といわれていたものは、その典型です。

3Kとは「きつい、汚い、危険」という意味です。「一般的には建設・土木、ゴミ処理などの肉体労働や、警察官や看護師、介護士など勤務・労働条件の厳しい職業を指」す。これはウェブ上にある「人事・労務の情報サイト『日本の人事部』」掲載の「人事労務用語辞典」からの引用で、2004年の記述です。もう20年近く前になりますが、この記述はかなり示唆的です。

これまで述べてきたように、こうした人たちが、じぶんたちの仕事が、社会にとってなんの意味もないと感じていることはまれです。そもそも、じぶんの仕事がブルシットである、と感じるためには、仕事には報酬だけでは測れない価値があるとだれもがうすうす感じているからです。

もちろん、モノやサービスについても、わたしたちは、これはぼったくりだとかえらく得したとかいうわけですから、うすうす市場価値と実質的価値には乖離があると感じていないわけではありません。ですが、わたしたちの「労働力商品」にかんしては、その乖離はこれまでみてきたように普遍的でかつ深刻なわけです。

社会的価値と市場価値の反比例

『ブルシット・ジョブ』を通して、印象深い証言を残している、「エリート」BSワーカーのハンニバルは医療現場での経験をこう表現しています。

「仕事をしてえられるお金の総額とその仕事がどれだけ役に立つのかということは、ほとんどパーフェクトに反比例している」(BSJ 273)

社会的価値に乏しければ乏しいほど、実入りはよくなり(市場価値は上がり)、社会的価値に富んでいれば富んでいるほど、実入りは悪くなる(市場価値は下がる)。

要するに、だれかがきつくて骨の折れる仕事をしているとすれば、その仕事は、世の中の役に立っている可能性が高い。つまり、だれかの仕事が他者に寄与するものであるほど、当人に支払われるものはより少なくなる傾向にあり、その意味においても、よりきつい仕事となっていく傾向にある。

この逆説を、グレーバーは以下のように定式化しています。

その労働が他者の助けとなり、他者に便益を提供するものであればあるほど、そしてつくりだされる社会的価値が高ければ高いほど、おそらくそれに与えられる報酬はより少なくなる[強調引用者](BSJ 271)

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病