納税者がツケを支払う…「クソどうでもいい仕事」の温床、会社が「人々を食い物にする」実態

写真拡大

「クソどうでもいい仕事(ブルシット・ジョブ)」はなぜエッセンシャル・ワークよりも給料がいいのか? その背景にはわたしたちの労働観が関係していた?ロングセラー『ブルシット・ジョブの謎』が明らかにする世界的現象の謎とは?

現代の資本主義は「レント資本主義」?

さて、利潤が「レント」という形式をとるとは、モノを売ってそれで利益をえる、というよりも、このような不動産とか株式から利益をうるほうに比重がおかれるということを意味しています。

「レント」は、かつては主に「地代」を意味していました。地代とは、土地所有者に対して支払われる土地の使用料、すなわちレンタル料を指します。財産所有者に流れ込んでくるそれ以外の支払いとは区別されていたのです。

かたや、働いてなにかを生産して、その生産物を売ってお金をえるという形態があります。かたや、なにかを所有していてそれへのアクセスの権利を与える(たとえばレンタルする)ことによってお金をえるという形態があります(マンションを所有していてその部屋を貸すことでお金をえるのです)。

封建制は基本的に農業社会であり、土地を基礎にしています。そしてその土地は、これも基本的には君主や王が名目的には所有していることになっています。そしてそれを臣下に貸し与えているというかたちをとっています。臣下もまたヒエラルキーをつくっていて、ある臣下がその土地をさらに細分化してみずからの臣下に貸し与える。かれらはその土地に緊縛された(農民の移動は原則として禁じられていました)農民たちに、その土地をやはり貸与して、そこから賦役という形態であれ、現物形態であれ、あるいは金銭という形態であれ、対価として富を徴収していました(それぞれ、労働地代、生産物地代、貨幣地代といいます)。

基本的には、土地それ自体はだれによっても生産されませんよね。土地で育つ農産物、あるいは土地の上に建つ工場ならば、人間によって生産することができます。でも、もともと自然のめぐみとして存在する土地にはそれ自体の価値が存在します。それゆえ、この土地の所有権を主張できる者はだれも、土地を活用することではなく、この土地という所有物へのアクセスを支配している事態だけに、つまりそれを所有しているというだけで支払いを要求しうるのです。

近代初期に経済学(政治経済学)が発展しはじめたとき、レントとはおおよそこの土地所有から発生する支払い、すなわち「地代(ground rent)」のことでした。

ところが資本主義が展開するとともに、たんにお金をもっていることから発生する支払いとか、大きな機械設備を所有していてそれを貸し出すことから発生する支払いなど、レントの概念は、必然的に拡張され、より抽象的になります。

そして現在では、いわゆる情報化とかIT化がすすむなかで、従来はモノの売買であったものが、知的所有権への使用料や手数料による取引になりつつあります。

たとえば、パソコンのソフトにわたしたちが支払うのはいわばレンタル料ですし、電子ブックもそうです。そればかりか、もっとも知的所有権のようなものとは縁遠いとみなされていた農作物すら、遺伝子組み換え技術によってレントの領域に入りつつあります。このような意味で、現代の資本主義を「レント資本主義」といったりするのです。

ところが、こうした封建制に淵源をおくレントは、当初、新興の資本主義とは対立するもの、あるいはなじまないものであり、しだいにすたれていくものとみなされていました。

資本家とは、おおざっぱにいって、戦争するか遊んでいる──狩りとか馬上槍試合などで──か、といった封建領主とは対極的に、時間を惜しんで働き、稼いでも禁欲して、さらに事業を拡大すべくチャレンジする人のことでしたから。

だから、この時代、「レンティアー」(レントで生活する人)、たとえば「金利生活者」とは、なんとなく貧相な年金暮らしの人間か、寄生的な投機家などといった悪いイメージになります。そして、20世紀、ついにわれらがケインズが「金利生活者の安楽死」を唱えることになるわけです。

「ブルシット」の温床

さて、封建制はこのレントに基盤をおいていました。そしてそのレントの徴収は、「経済外的」におこなわれていました。日本でも江戸期には年貢の徴収は、政府に委託された村役人がおこなっていたように。

それに対して、資本主義社会ではおおよその場合、余剰の徴収はそんなお役人がやってきて、搾取させてもらうよといってふんだくっているわけではありません。だから「搾取」はみえにくいのですが、封建制におけるレントの徴収では、どれほど収奪されているのかがはっきりとわかります。

『ブルシット・ジョブ』のなかでグレーバーは、「領主はふつう、法的権利と伝統の複雑な集合体にもとづいて、農民や職人たちによる生産物の一部を吸い上げ」るといってました。それはこのことをいっています。

「わたしは大学で『法的−政治的徴収(juro-political extraction)』という専門用語を学んだ」ともいってますが、これはマルクス派の史的唯物論に独特の表現です。これを「経済外的強制」といいます。経済的余剰の徴収が政治的におこなわれるということです。だからここでは、政治的なものと経済的なものが不可分です。それに対して資本主義においては主要には「経済内的強制」というかたちをとる、といいます。そこでは、経済的なものが自立しているようにあらわれます。

こうみてみると、つぎの一節もわかるとおもいます。

経済的思惑と政治的思惑が重なり合う封建制の論理にしたがえば、そのような事態も完全に理解可能である。PPIを割り当てる業者たちのように、その核心は、敵から強奪するか、手数料や使用料、地代、徴税などによって平民から徴収することで、たんまりと略奪品を獲得し、それを再分配することにあるのだから。この過程のなかで、取り巻きの一群が形成される。それは、華やかさや威厳を誇示するための視覚的な手段であると同時に、政治的な利益供与を配分する手段なのである。たとえば、忠実なる同盟者に報奨を与えることで潜在的な不満分子を買収したり、手の込んだ名誉と権限のヒエラルキーをつくって下級貴族を相争わせたり、である(BSJ 233〜234)

「PPIを割り当てる」とは、イギリスのお話です。イギリスでは、2006年にPPIスキャンダルという事件がありました。消費者むけ銀行におけるイギリス史上最悪のスキャンダルといわれています。PPIとは支払保障保険を意味していますが、多数の銀行が不適切なそれを顧客に売りつけたことが発覚します。裁判所は金の大部分を返還するように命じたのですが、それはとんでもない巨額にのぼりました。その結果、PPI払い戻し請求の処理をめぐって巨大産業ができあがったのです。

それは予想できるように「ブルシット」の温床になります。

第五章でエリオットというイギリスの大手会計事務所で働いていた人が証言しています。その事務所は銀行と契約をしており、補償の支払いを請け負いました。

ところが、エリオットをふくむその業務をおこなう人員にはほとんど教育もなにもなされず、だからミスが連発します。それにくわえて、システムもたえず変更され、それがまたミスを誘発します。

その状態はあえて放置されている、あるいは、あえてそういう状態が構築されている、というのがエリオットの感触でした。なぜならば、そうすると契約が引き延ばされ、そこからあがる利益も増大するからです。グレーバーとエリオットはこういうやりとりをかわしています。

グレーバー 基本的に資金の分配にかかわるシステムでは、あちこちの隙間に可能なかぎり寄生者のレイヤーをつくりだすことが重要なのですね。なぜこういえるのか、よくわかりました。ところで、かれらは究極的にはいったいだれを食い物にしているのでしょう? 顧客でしょうか? あるいは別の人たちでしょうか?

エリオット 最終的にはだれがこのツケを支払ってるんでしょうね? 銀行でしょうか? そもそも詐欺的行為による損失に対する保険を銀行とむすんでいる保険会社でしょうか? 結局のところ、支払いをしているのが消費者や納税者であることはあきらかです。こうした会社は、人々を食い物にする方法だけ、わかっていればよいのです。(BSJ 221〜222)

つづく「なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病」では、自分が意味のない仕事をやっていることに気づき、苦しんでいるが、社会ではムダで無意味な仕事が増殖している実態について深く分析する。

なぜ「1日4時間労働」は実現しないのか…世界を覆う「クソどうでもいい仕事」という病