日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」

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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。

※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。

「言葉」って何だろう?

私たちの日々の経験のなかで「言葉」はどのような役割を果たしているであろうか。本講ではまず経験と言葉との関わりについて述べ、それを踏まえて、そもそも「言葉とは何か」ということについても考えてみたい。

私たちは自分が見たり聞いたりしたもの、あるいは感じたりしたものを言葉で表現しなくても、しっかりとその内容をつかんでいると思っている。しかしもし言葉で言い表さなければ、それらはあいまいなままにとどまり、自分でも何を見たのか、何を感じたのか、はっきりとつかむことができないのではないだろうか。たとえば夕日に染まるあかね色の空を見て、その美しさに引き込まれたというような経験をされた人も多いのではないかと思う。そのとき、もしそれを夕日として、あるいは空として、その色をあかね色として認識しなければ、そこにはただ漠然とした印象だけがあるのではないだろうか。そしてその漠然とした印象はすぐに流れ去り、忘れ去られていくように思われる。

見たり聞いたりしたものに名前を付け、言葉で言い表すことで、私たちははじめて私たちが経験したものをしっかりとつかむことができる。そしてそれをあとからふり返ったり、他の人に伝えたりすることができる。私たちの経験のなかで言葉が果たしている役割は大きい。

しかし逆に、卓上に飾られた一輪の赤いバラを見て、「赤くて美しい」と言ったとき、それによって私たちは自分が見たり、感じたことをすべて言い表すことができるであろうか。赤といってもさまざまな色合いがあるが、このバラの独特の赤色をこの「赤い」ということばで表現できるだろうか。あるいは「美しい」ということばで、他の花にないこのバラ特有の美しさが表現できるだろうか。

言葉はまちがいなく私たちの経験と密接に結びついている。しかし経験とそれを言葉で言い表したものとは同じではない。むしろそのあいだには距離があるようにも見える。両者がどう関わっているのかは、哲学にとっても大きな問題である。日本の哲学者はその問題についてどのように考えてきたのであろうか。その点をまず以下で見てみることにしたい。

「純粋経験」の正体

西田幾多郎の「純粋経験」についての理解は言葉の問題にも深く関わっている。そこで見たように、西田は、真の意味で「ある」と言えるものは何かという問いに対して、「純粋経験」こそそれであるという答を示した。そしてこの「純粋経験」、つまり「真に経験其儘の状態」について、一方では、何かを見る「私」、何かを聞く「私」と、見たり聞いたりする「対象」とが区別される以前の「色を見、音を聞く刹那」であると説明するとともに、他方、「この色、この音は何であるという判断すら加わらない前」とも説明している。

判断とは、ほんとうであるかそうでないか、つまり真偽が問題になる事柄、たとえば「この花の名前は何か」とか、「明日の日の出は何時か」といった問題について、ある定まった考えを示すことを指す。その判断は通常、「この花はヒマワリである」といったように命題の形で言い表される(「命題」というのは、判断の内容を、「AはBである」というように言葉で言い表したものを指す)。

それに対して、いま引用した文章では、「純粋経験」はそのような判断がなされる以前の状態である、と言われている。たとえば「この花はヒマワリである」とか「この花の色は黄色い」といった仕方で判断がなされ、言葉で言い表される以前の事実それ自体が「純粋経験」なのである。

さらに連載記事〈あまりに難しすぎて多くの人が挫折した…日本人が初めて書いた哲学書「善の研究」が生まれた「驚きの事情」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。

あまりに難しすぎて多くの人が挫折した…日本人が書いた初めての哲学書「善の研究」が生まれた「驚きの事情」