「張さん、もうやめましょう」…新人を驚愕させた球界の番長・張本勲の立ち回り

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18歳で球界入りして“裏のヒエラルキー”を知る

「最近、すっかり乱闘を見なくなってしまった。乱闘はある意味“プロ野球の華”。ちょっと寂しいですね。昔は、どの球団にもコワモテがいたものですが……」

こう切り出したのは、ロッテや中日で活躍した愛甲猛だ。プロ20年で、通算1142安打を記録した。

夏の甲子園の優勝投手である愛甲(横浜)が、ドラフト1位指名を受け、ロッテに入団したのは1981年。監督は山内一弘だった。

初めてのキャンプで、愛甲はいきなり“プロの洗礼”を受ける。

「何しろ、初めてのミーティングなので、僕は監督の言葉を一言も聞き漏らすまいと真剣に聞き耳を立てていた。ところが山内さんの話は長いんです。しゃべり出したら止まらない。なにしろニックネームが“かっぱえびせん”というくらいですから、CM通り、本当に“やめられない、止まらない”んです。

申し訳ないけど、途中で何を言っているのかよくわからなくなった。で、やっと終わったと思ったら、また話し出して、最後は“今日もケガしないように、皆頑張っていこう!”(笑)。もう全く脈絡がない。

と、その時です。最前列に座っていたのがロッテにやってきて2年目の張本勲さん。山内さんに向かって、“結局、アンタはなにが言いたいんだがね”って(笑)。

もう僕はびっくりしましたよ。プロ野球の世界には、監督のことを“アンタ”って呼ぶ人がいるんだということがわかった。こりゃ、とんでもない世界に入ったと思ったもんです」

81年といえば、張本のプロ最終年である。前年に日本球界では前人未到の通算3000本安打(最終的には3085安打)を達成していた。

張本にアンタ呼ばわりされた山内も、ただ者ではない。“シュート打ちの名人”として名をはせ、首位打者に1回、ホームラン王に2回、打点王に4回も輝いている。年齢は山内の方が張本より8つも上だ。

プロ野球は年功序列のタテ社会である。そのことは愛甲も知っていた。それとは別に“裏のヒエラルキー”があることを知り、18歳は「とんでもない世界に入った」と驚愕したのである。

昭和球界で最も異彩を放った張本勲

それ以上に驚いたのが、乱闘の際の張本の立ち回りだった。

「あれは西武戦での出来事。デッドボールが原因で、ベンチから両軍の選手が飛び出してきて、掴み合いが始まりかけた。一番最後にベンチから、のっそのっそと歩いてきたのが張本勲さん。田淵幸一さんの方を向き返り、“ブチ! ここにいる全員、野球できへん体にさすぞ!”と凄んだんです。いやぁ、もうヤクザ映画顔負けですよ。さしもの田淵さんも気圧されて、“張さん、もうやめましょう……”と。もし球界に番長がいるとしたら、それは張本さんだと、あの時確信しましたね」

その一方で、「張本さんにはプロ野球選手としてのあり方を教わった」とも愛甲は語っていた。

「初めてのキャンプで張本さんを見ていたら、アップを適当にやり、バッティングをちょっとやったら、もう宿舎に帰っちゃうんです。この人、全然練習しないのかと……。それでもスーパースターだから同じ部屋の先輩から張本さんのサインを頼まれる。“悪いな愛甲、張本さんのサインもらってきてくれ”と。

それで翌朝、張本さんの部屋をノックすると、“入れ!”という声がする。“失礼します!”と言って入ると、張本さんの部屋にはベッドがない。全部、畳が敷いてあるんです。その上で、大汗をかきながらバットを振っている。もう鬼気迫る迫力なんです。プロ野球ってこうなんだ。一流と呼ばれる人たちは、皆、人が見ていないところでやっているんだ。それを教わりましたね」

一騎当千の兵(つわもの)が集まった昭和のプロ野球においても、ひとり張本は異彩を放っていたのである。

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