破滅型な『火宅の人』のイメージとは裏腹に…最後の無頼派・檀一雄が家族だけに見せた「やさしい素顔」

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「火宅の人」が見せた素顔

人間なにものか……、もう一度出直させてみたかった。出来得れば、その修羅のただ中で、正確を得たかった-。

「最後の無頼派」と呼ばれた作家、檀一雄。彼は自身の作品についてこう振り返っている。人間とは何か。檀は問い続け、作品に投影させてきた。その代表作が、遺作『火宅の人』だ。

昭和31(1956)年、妻子ある44歳の檀は、29歳の新劇女優・入江杏子と男女の関係になり、その恋は6年続く。その惑いと修羅の実体験を小説という形にし、檀は、死の1ヵ月前、病床で命を削ってまで書き続けた。

『火宅の人』のモデルということもあって、世間では家庭を顧みぬ奔放な「破滅型」作家という印象が檀にはある。事実、交遊を重ねた太宰治は情死、坂口安吾も薬物に屈している。だが、本当にそうだったのか。

「父の実像は小説の中とは違っていました。家では家族全員で食事をすることを心から願っていました。『あなたの人生だから自分の好きなことをやりなさい。私の目の黒いうちは尻拭いをしてあげますから』と私の背中を押してくれたこともありました」

長男でエッセイストの檀太郎氏はこう振り返る。無頼に見えながら、実は家庭人。それが檀一雄の素顔だった。太郎氏が続ける。

「昭和51年、病院で息を引き取る直前にも、父は私に『タロー、あなたは見舞客のおもてなしをしなさい』と、常に気遣いを忘れなかった。檀一雄っていうのは、破滅型の人とか言われますが、非常に思いやりの強い、やさしい人だったんです」

放浪こそ人生の醍醐味

行き当たりばったり、その場で知り合いになった人々と、その場の交流を楽しむ。それが檀流の放浪術だ。作家の嵐山光三郎氏は、雑誌編集者時代、檀に付き従って日本各地を旅した。

「檀さんの旅行鞄の中には小さな包丁が入っていて。旅先で市場を訪れ、魚菜を買い漁り、料理を作っては、地元の人たちに豪快にふるまって親しくなるんです」

なぜ檀は放浪を愛したのか。ルーツは、その生い立ちにある。画家を志した父が勤め先を転々と変えたこともあり、檀は幼少期、福岡にある父方と母方の家を往復することを余儀なくされた。〈生まれたときから自分の居場所を喪失していた〉と言ったように、「孤独」に苛まれる日々を送った檀。だが同時に、何物にも縛られない「自由」の歓びを知ったのだろう。

「昭和49(1974)年夏、太宰治の故郷・青森が、檀さんとの最後の旅となりました。その時、太宰の思い出を物寂しそうに話す姿を見て、檀さんは『自由で豪快な中に、孤独を秘めている』と感じました。旅もまた、自由で孤独なもの。だからこそ心から放浪を愛したのでしょう」(嵐山氏)

料理が内なる狂気を抑え込む

檀の料理好きは有名だ。食材の買い出しを日課とし、毎日のように自宅に多くの客を招いてたくさんの料理をふるまうのが習いだった。

「父の料理の根底には『生きる』という意志がある」と、前出の太郎氏は話す。

「父が9歳の時、祖母が出奔してしまいます。祖父は家事がほとんどできない人で、自ずと父が家族の面倒を見ないといけなくなった。だから生きるために料理を始めたわけです」

最初こそ、強いられる形で料理を始めた檀。だが、いつしか料理は檀に欠かせない存在となる。

「料理を作ってふるまうことは人の心を穏やかにする。太宰や坂口同様、檀さんも執筆の中で狂気に陥る可能性もあった。料理に没頭することで、内なる狂気を抑え込んでいたのかもしれません」(前出・嵐山氏)

檀にとって料理は心の防波堤だったのだ。

「週刊現代」2024年9月28日号より

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