『虎に翼』最終回、寅子が穂高に激怒した「雨垂れ石を穿つ」を最後に肯定できた理由

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『虎に翼』振り返り日記:最終週「虎に翼」

X(旧Twitter)に日々投稿する『虎に翼』に対する感想がドラマ好きのあいだで人気のライター・福田フクスケさん(@f_fukusuke)。毎週末にその週の内容を振り返る連載「『虎に翼』振り返り日記」では、週を通して見えたものを福田さんが考察と共に伝える。

4月に放送開始されるや、異例の反響の大きさで社会現象とも呼べる渦を作った『虎に翼』が、半年間の放送を終えてとうとう最終回を迎えた。

ときに主人公・佐田寅子(伊藤沙莉)の手に負えないような問題までも扱い、この社会の複雑な構造を複雑なまま提示しようとした本作の姿勢は、賛否両論を巻き起こした。

しかし、本作が繰り返し提示し、最終週でも強調されたテーマは、意外にもシンプルで力強いものだったのではないか。そんな本作が最後に残したメッセージを振り返っていく。

「特別な私」にとらわれ、自分の人生を見失ってしまった美佐江

生まれたときから自分は自分として尊重されるべきであり、誰からも奪われたり損なわれたりしない。そして、どの自分も自分であり、どんな自分でありたいかを選ぶ権利がある代わりに、その責任もまた自分にある

これが、『虎に翼』が繰り返し描いてきた大きなテーマだ。最終週では、このテーマを変奏するような2つのメッセージが提示されていたと思う。

一つは、「何にもとらわれる必要はない」代わりに、「何を拠り所にしてもいい」ということだ。両者は一見相反するように見えるが、「自分が主体的に選んだ人生であれば」という条件下において、矛盾なく両立する。

もう一つは、「特別だから価値があるのではない。ありふれた人たちのありきたりな人生こそが社会を作り、誰かの一部となって後世に繋がっていく」ということだ。

私たちは得てして、能力主義や成果主義などによって「優れていなければ価値がない」「特別でなければ尊重してもらえない」という呪縛に絡め取られてしまう。その考えを歪んだ形でこじらせたのが、森口美佐江(片岡凛)という女性だったのだと思う。

彼女は、人を支配し操ることで、「自分は特別」であることを証明し続けようとした。しかし、社会の荒波に揉まれ、自分が特別でもなんでもない「ただの女」であることを思い知らされた結果、彼女はそれを受け入れることができずに自ら「消える」ことを選んでしまう。

娘の並木美雪(片岡凛の二役)は、そんな母親のもとに生まれた意味を見出そうと、母親をなぞるように生きてきたのだろう。彼女は「他の子たちとは違う。異質で特別で手に負えない」ことを自分のアイデンティティにすることで、いわば母親にとらわれて生きてきたのだと思う。

そんな美雪に、「私は今、あなたの質問に答えています。お母さんの話はしていません」「私の話を聞いてあなたはどう思った?」と語りかけ、美雪の主語を「お母さん」から「私」に戻そうとしたのが、寅子だった

親の呪縛から解放され、自分の人生を生きることにした美雪と美位子

寅子は、美佐江を「どこにでもいる女の子だった」として“特別”の呪縛から解放し、「親にとらわれ、縛られ続ける必要はないの。どんなあなたでいたいか、考えて教えてほしいの」と諭す。

“特別な母親から生まれた特別な私”を否定された美雪は、「そんなのつまらない。そんなのありきたり! そんな私じゃ駄目なんです!」と取り乱すが、寅子は「どんなあなたでも私はなんだっていい! どんなあなたでも、どんなありきたりな話でも聞くわ」と、“ただのありふれた子”である美雪を受け止め、肯定する。

あのとき、美佐江に言ってあげることができなかった「特別でなくても、あなたはあなたであるだけで尊重されるし、価値があるのだ」ということを、世代を超えてようやく伝えることができたのだ。

美雪とはまた別の意味で親にとらわれ、親に人生を奪われてきたのが斧ヶ岳美位子(石橋菜津美)である。

長年にわたる父親のおぞましい虐待に耐えきれず、自ら手をかけた美位子。

「人を殺した自分が、このまま社会に戻っていいのか」と思い悩む彼女に、寅子は「あなたにできることは、生きてできる限りの幸せを感じ続けることよ」と語りかける。

先週、山田よね(土居志央梨)が美位子に「お前がかわいそうなわけでも、不幸で弱いわけでも決してない」と語ったように、「クソ」なのは親であり、法であり、社会であって、彼女自身の尊厳は損なわれてはいけないからだ。

尊属殺に関する刑法第200条を憲法違反であるとする最高裁判決は、司法の歴史を塗り替えたという大きな意義がある。

しかし、美位子にとってはそれ以上に、「親に虐待を受けた弱い私」「親を殺した悪い私」「不幸に見舞われたかわいそうな私」という“特別な私”の呪縛から解放されて、“何者でもない、ただの一人のありふれた私”であることをようやく取り戻し、自分の人生を生き直すための闘いだったと言えるだろう。

「もう誰にも奪われるな。お前が全部決めるんだ」というよねの言葉は、だからこそ胸に響く。

最終週では、美雪と美位子という2人の女性を通して、あなたはあなたであり、何にも(それがたとえ肉親であっても)とらわれる必要がないということ、特別である必要がないということを、本作は示したのだ。

たくさんの拠り所を作って自分の人生を肯定/受容した優未

一方で、美雪や美位子と対比するように描かれたのが、寅子の娘・優未(川床明日香)である。

法曹界に名を残した、いわば“特別な母親”のもとに生まれた優未は、一つの専門分野を突き詰めたり、突出した才能や能力を発揮したりすることなく、結果的に何かを成し遂げたわけでもない。

一歩間違えれば、偉大な母親の存在にとらわれ、そのプレッシャーやコンプレックスに絡め取られて自分の人生を奪われていた可能性だってあるだろう。事実、優未は「お母さんのすごいところ、かっこいいところ、何も引き継げないまま人生が終わっちゃうような気もしてて」とも語っている。

しかし、彼女はそうはならなかった。寄生虫の研究も、家のことも料理も、読書も、マージャンも、着付けやお茶や刺繍も、彼女がこれまでの人生で人から学び、受け取ってきたものすべてが彼女の拠り所となっているからだ。その一つひとつを、彼女は人から無理強いされるのではなく、自分で好きになり、楽しんできた。

「この先私は何にだってなれるんだよ。それって最高の人生でしょ?」と語る優未は、“何者でもない、ありふれた私”――しかしそれは“自分の手で主体的に選び取ってきた私”でもある――を肯定する、この上ない自己受容感を手に入れたのだ。

そして、これこそ寅子の前夫・佐田優三(仲野太賀)が遺した、「どんな自分でもいいから、好きに生きてほしい。心から人生をやりきってほしい」という “優三イズム”そのものではないだろうか。

もちろん、優未という人間を形づくるたくさんの拠り所の中には、“寅子イズム”もしっかりと息づいている。

すっかり中年になった1999年の優未は、不当に解雇されそうになっていた街行く女性(実は美雪である)に労働基準法を教えて、「みんなが持っている権利なので使わないと」と助言する。

優未は、そんな自分の中に確かに母親がいることを感じている。寅子は15年前にとっくに亡くなっているが、その精神や思想は残された者の中に生きている。まさに最終回に現れた“イマジナリー寅子”のように、優未や星航一(岡田将生)の一部となって、彼らに寄り添っているのである。

特別ではない、ありふれた者たちの一滴がいつか石を穿つ

先週、久藤頼安(沢村一樹)が「頭の中のタッキー」に励まされていたように、桜川涼子(桜井ユキ)が「心のよねさん」に叱咤されていたように、たとえその人自身はそこにいなくても、その言葉や思いは残された人に影響を与え、後進の世代に連綿と受け継がれていく

最終週でも、そのような描写は強調されていた。

寅子の「はて?」は、巡り巡って最高裁で弁論をするよねの口から発せられた。

多岐川幸四郎(滝藤賢一)が口を酸っぱくして繰り返していた「愛」の精神は、寅子をはじめとする家裁の人々を団結させた。

「思っていることは口に出したほうがいい!」という猪爪直道(上川周作)の言葉は、今も猪爪花江(森田望智)の、そして猪爪家の拠り所となっている。

寅子が相手の考えを引き出すときに使う「続けて」という言葉は、もともとは穂高重親(小林薫)が寅子にかけてくれたものだ。

ことあるごとに寅子を支え、勇気付けてきた“イマジナリー優三”や、最終回で優未や航一のもとに現れた“イマジナリー寅子”の存在は、もはや言うまでもないだろう。

これらはつまり、崔香淑/汐見香子(ハ・ヨンス)が言うところの「私たち全員、ずっと絆で繋がっている」状態であり、寅子が「みんなが体の一部になっている」と表現したものだ。

女子部の集まりにおいて、年老いた竹原梅子(平岩紙)が居眠りしてしまっていても、轟太一(戸塚純貴)が「そこにいてくれるだけでいい」と語ったように、先人たちが確かにそこにいたという事実の積み重ねが、私たちを形づくっていく。

すなわち、一人ひとりが雨垂れの一滴となり、いつかどこかの石を穿つのだ。それは今すぐではないかもしれないが、「さよーならまたいつか!」と言わんばかりに、確実に後世へと繋がっている。

「未来の人たちのためにみずから雨垂れを選ぶことは苦ではありません」と寅子が語るように、人から強いられて雨垂れにさせられることと、みずから主体的に雨垂れになることには、大きな違いがある。かつて寅子が穂高教授に頑ななまでに反発したのも、寅子の意思を無視して「雨垂れ石を穿つ、でいいじゃないか」と決めてかかったからだ。寅子が最後までこだわったのは、「自分で納得して選ぶ」ことなのだ。

そして、その雨垂れの一滴一滴は、決して特別な成果や功績を成し遂げた人ばかりではない。梅子のように法律家の資格を取らなかった人も、花江のように家族を支えることに幸せや喜びを見出した人も、優未のように何者にもならなかった人も、誰もが一生懸命にその人の人生を生き、歴史を作り上げてきた一人なのだ。

はて? いつだって私のような女はごまんといますよ。ただ時代がそれを許さず、特別にしただけです

最終回のラストシーンで、寅子がそう語ることには、だから大きな意味がある。この社会に「特別な女」など存在しない。誰もがありふれた市井の女性たちであり、そして誰もがかけがえのない存在なのだ。

『虎に翼』米津玄師の歌詞が予告していた、「本当の自分」に戻った寅子の重要な気づき