大阪に「約3.3メートルの大津波」が押し寄せてきた…「南海トラフ巨大地震」がもたらした「衝撃的な被害」

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続いた大揺れ

白鳳地震(684年)から203年後の887年8月22日(仁和3年7月30日)午後4時頃、大地震が発生。この地震は南海トラフの東側(東海地震の震源領域など)と西側(南海地震の震源領域)が、ほぼ同時又は短い時間差の連動地震で、それぞれM8.0〜8.5と推定され、「仁和(にんな)南海トラフ巨大地震」の可能性が高いとされている。

その18年前には三陸沖を震源とする「貞観地震(869年 7月9日・推定M83)」が発生し、仁和地震の9年前には千葉県沖を震源とする「関東諸国大地震(相模・武蔵地震・推定M7.4)」地震が発生していた。

文徳天皇に続く清和・陽成・光孝3代の歴史を編年体で記した勅撰国史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』巻五十に、「卅日、申時、地大震動、経歴数剋震猶不止、天皇出仁寿殿、御紫宸殿南庭、命大蔵省、立七丈幄二、為御在所、諸司倉屋及東西京廬舎、往往顛覆、圧殺者衆、或有失神頓死者、亥時又震三度、五畿内七道諸国、同日大震、官舎多損、海潮漲陸、溺死者不可勝計、其中摂津国尤甚(以下略)」と地震のことが記されている。日本三大実録は史家の間でも信頼性が高いとされているので読み下すと、「卅日(さんじゅうにち)申時(さるのとき)、地大震動(ちだいしんどう)し、数剋(すうこく)を経歴して、震(ふ)ること猶(なお)止まず。天皇、仁壽殿(じじゅうでん)を出(い)でて、紫宸殿(ししんでん)の南庭(なんてい)に御(おわ)し、大蔵省に命(めい)じ、七丈(しちじょう)の幄(あく)二つを立てしめ、御在所(ございしょ)と為(な)し給(たま)ひき、諸司(しょし)の倉屋(そうおく)及び東西京(とうざいきょう)の廬舎(ろしゃ)、往々転覆(ところどころてんぷく)し、壓殺(あつさつ)せらるる者衆(おお)く、或(あるい)は失神して頓死(とんし)する者有りき。」と書かれ、御所などで激しい揺れが続いた模様がつぶさに綴られており、天皇は仁壽殿を出て、紫宸殿の南庭に今でいうテント2張を張り、仮の御在所となされた。建物の下敷きによる「圧死者」や失神(気を失って)しての「頓死(急死)」が多かったと記すほど激しい揺れだった。「數剋(すうこく)を経歴して、震(ふ)る猶(なお)止まず」「亥(ゐ)の時、亦(また)震(ふ)ること三度(みたび)」とあるように、午後4時ごろの地震の後も揺れが続き、午後10時ごろには大揺れが3回あったとされる。その後も続いた地震の模様が綴られていく。その被害は京都だけでなく、「五畿内七道(ごきないしちどう)諸国(しょこく)も同日大震(どうじつだいしん)ありて官舎(かんしゃ)多く損じ。海潮陸(かいちょうりく)に漲(みなぎ)りて、溺死者(できししゃ)勝(あげ)て計(はか)るべからず。其(そ)の中(うち)攝津國(せっつのくに)尤(もっと)も甚(はなは)だしかりき」。

地震の後に襲ってきた津波で海水が陸地を覆い、溺死者は数えきれなかったと津波の凄まじさを伝え、「津波被害がもっとも甚だしかりき」とされた攝津國(せっつのくに)は、当時、摂津国の国府が難波津(なにわず・なにわのつ)の旧鴻臚館(こうろかん)にあり、摂津職という官職が難波津に置かれていたといわれる。難波津とは、古代の大阪湾に面して存在した港湾施設のことをいうが、当時この難波津が地域の政治や経済の中心的役割を果たしていたと思われる。難波津があった場所については諸説あるが、現在の大阪市中央区付近と推定する説が多い。

大阪に大津波、長野では山体崩壊

つまり、1136年前の仁和南海トラフ巨大地震で注目すべきは、現在の大阪という大都市に約3.3mの大津波が押し寄せ、甚大被害をもたらしたと推定されることである。この後の南海地震でも、同じよう大阪の被害が繰り返し伝えられている。木造建物は津波の浸水深2mで構造被害や損壊が生じ、浸水深4mで流出する可能性が高いと考えられる。「水都大阪」は低地が多く河川や堀川を溯上する津波に弱い。こうした歴史をもう一度思い返し、BCP(事業継続計画)や防災マニュアルに津波対策をきちんと反映させる必要がある。

例えば津波襲来時のビルでは、上階は水没しなかったとしてもビル自体が孤立し、必然的に籠城(巣ごもり)作戦が必要となる可能性がある。あるいは、川や水路に囲まれた市街地や地下鉄・地下街などが浸水又は破壊され、建物の残骸や瓦礫などが押し寄せた場合、通勤・通学途上の人はどうするべきだろうか。こうした想定に対応するためには、発災時の安全・減災行動について一人一人の知識と意識を啓発することや、事前の実践的避難訓練が不可欠となる。

災害と歴史は繰り返す。だからこそ、歴史の教訓に学び、我々は同じ轍を踏まないようにしなければならない。

仁和地震で大揺れに襲われた五畿内七道とは、五畿内と呼ばれる大和、山城、摂津、河内、和泉の五国(現在の奈良県、京都府中南部、大阪府、兵庫県南東部を合わせた地域とされる)と、七道と呼ばれる東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道(街道というより街道に面した周囲の地域を意味する)をあわせた地域のことである。「五畿内七道諸国同日大震(おおなゐ)す」、つまり、全国の広い地域で同時又は連続して大揺れに襲われたものと考えられている。京都では数尅(約2時間)を経歴しても揺れが止まなかったと書かれているが、これは仁和地震が広大震源域で長い破壊継続時間だっただけでなく、東海地震と南海地震が同時又は短い時間差で連動して動いた南海トラフ巨大地震だった可能性を窺わせる。

さらに、いくつかの古文書に記載されている誘発災害がある。それは遠く離れた信濃国(長野県)では、仁和地震(887年)の大揺れで山体崩壊が起き、川が堰き止められた。その天然ダムが約1年間湛水し続け、翌年の888年(仁和4年)6月20に決壊し大洪水を引き起こす。被害は信濃国の六郡(佐久・小県、埴科、更級、水内、高井郡・現在の佐久市、千曲市、長野市など)に及び、各所の城や住居を押し流し、多数の牛馬男女が流死。死骸は丘を成したと書かれている。

状況からすると、地震の大揺れで大規模な山体崩壊が起きたのは北八ヶ岳と推定される。それにより大月川岩屑(がんせつ)なだれが発生し、千曲川・相木川の河道閉塞(かどうへいそく・川の堰き止め)が発生、その結果日本最大規模とされる巨大な堰き止め湖(天然ダム)ができたものと推測されている。その翌年、仁和地震の303日後に堰き止め湖が決壊し、千曲川流域で「仁和の大水(にんなのおおみず)」と呼ばれる大規模洪水が発生し、多数の人と建物が流されたと考えられている。

太平洋沿岸から約300キロメートル内陸(長野)の地まで、大規模土砂災害を発生させる凄まじい大揺れであったことが推定される。つまり、いったん南海トラフ巨大地震が発生すれば、危険なのは沿岸だけでなく、「海から遠く離れた内陸でも、大揺れ、山津波、大洪水に襲われる可能性がある」ということだ。こうした歴史と大地からの警告を、覚悟をもってしっかり受け止めての減災対策が重要である。

夏の早朝、「正平の南海トラフ巨大地震」

887年仁和地震の474年後、1361年7月26日(正平16年・康安元年6月24日)午前4時頃(寅の刻)に発生したのが正平地震(しょうへいじしん)。この地震名の「正平」は南朝の元号から取ったものであり、北朝元号の康安から取って康安地震(こうあんじしん)とも称される。多くの史料が北朝の年号で書かれているため、日本史学の慣習に倣って「康安地震」と称した方が良いとする意見もあるが、本書では一般的に多く使われている正平地震の名称で進める。

北朝の廷臣・三条公忠(きんただ)の日記『後愚昧記(ごぐまいき)』には、「四天王寺、金塔転倒、微震になりおわんぬ、また、大塔の空輪(くうりん)落ち、塔傾き危うと云々。伶人(れいじん)一人、承仕(しょうじ)一人、在庁(ざいちょう)二人圧死と云々」と記されている。西暦593年に聖徳太子が建立したとされる四天王寺では、その金塔が転倒し、空輪は落ち、大塔が傾いたとあるように、現在の大阪市にあたる地域が激しい揺れに見舞われている。それによって伶人(雅楽を演奏する楽士)や承仕(仏具管理などに従事する僧など)が死亡と書かれている。

さらに法隆寺の記録『斑鳩嘉元記(いかるがかげんき)』には、大和の寺社の被害に続き、「また安居殿御所西浦(やすいどのごしょにしうら)まで潮満ちてその間の在家人民多くもって損失する云々」とある。これは津波についての記載。安居殿御所西浦の位置については諸説あるが、当時、天王寺西門の坂下には「西浦」と呼ばれた地名があり、貝類などを採集・販売を生業(なりわい)とする商人らの居住地があったという説や、西方寺の境内に立地する合邦辻閻魔堂(がっぽうがつじ えんまどう・現在の大阪市浪速区松山町筋・下寺町筋)付近という説もある。ここは四天王寺正門の西方に位置し、上町台地西方にある天王寺七坂のひとつ、逢坂(おうさか)の上り口にあたる。四天王寺門前まで上町台地の斜面を上って、坂に向かって右手に一心寺、左手に安居神社(やすいじんじゃ・安居天満宮ともいう)がある。安居殿御所西浦が安居神社付近と仮定すれば、海抜約3.3〜4.65mと推定される。「西浦まで潮満ちて」となると、津波溯上高は3.3メートル以上と思われる。現代よりも当時は海が近かったにしても、海岸から約2キロメートル以上の内陸に3.3m以上の津波が押し寄せ、多くの人々が犠牲になるほどの大津波だった事になり、8.0〜M8.5の正平の南海トラフ地震と推定されている。

さらに、前述の『後愚昧記』や『斑鳩嘉元記』のほか、南北朝時代の貴族・近衛道嗣の日記『愚管記(ぐかんき)』など複数の史料には、本震の3日前および2日前、京都・畿内において強い地震の記録がある。これを正平地震の前震という説や、正平の東海地震と推定する説もある。つまり、1361年7月23日、24日に正平の東海地震又は東南海地震領域の半割れが発生。その後余震が続き、2日か3日後の時間差で正平の南海地震の続発地震が発生したという推定もできる。伊勢神宮に伝わる『神宮文書(じんぐうぶんしょ)』に、「康安元年六月の地震により外宮(げくう)正殿の御壁板が抜け懸け、御束柱が顛倒(てんとう)する」との記載があり、この付近に烈震をもたらしたのが東海地震の領域か東南海地震の領域が動いた半割れの地震だったか。そしてその数日後の時間差で南海地震領域が連動して動いた「正平南海トラフ巨大地震」の可能性があるともされる。

直接外洋に面していない紀伊水道や瀬戸内海であれば、南海トラフ地震でも津波の影響はさほど大きくはないと思われてきた。しかしもし今、その地域を3.3m以上の津波が襲えば、人口や社会資本の集積度からして甚大な物的人的被害が出る可能性がある。「正平南海トラフ巨大地震」は、こうした地域に662年前という時空を超え、今も警鐘を鳴らし続けている。

晩秋熱波の昼、「宝永の南海トラフ巨大地震」

もう一つ、全割れ地震と推定されるのは、1707年10月28日13時45分頃に発生した宝永地震(宝永4年10月4日)。遠州灘沖〜紀伊半島沖〜四国沖を震源域としたM8.7〜9.3の超巨大地震で、南海トラフのほぼ全域にわたって断層が破壊されたと推定されるという。澤田弘列が土佐国(現高知県)の出来事を書いた『萬變記(ばんぺんき)』には、「10月4日朝ヨリ風少(すこし)モ不吹(ふかず)一天晴渡リテ雲見ヘス(くもみえず)其(その)アツキ事極暑ノコトク」。晩秋にもかかわらず、土佐は真夏のような暑さの昼過ぎ、突然大地が揺れ始める。「未(ミ)ノ刻ハカリニ東南ノ方オヒタタシク(おびただしく)鳴リテ大地フルヒイツ其ユリワタル事天地モ一ツニ成(ナル)カトオモハル大地二三尺ニ割(ワレ)水湧出山崩(クズレ)人家潰(ツブル)事将碁倒(ショウギダオシ)ヲミルカコトシ」大揺れの後、大津波が襲う。「沖ヨリ大波押入ルト声々ニ呼バハリ上ヲ下ヘトカヘシ近辺ノ山ニ逃上ル」大津波は軽々と堤防を越え、高知城下に流れ込み数百人が波に呑まれ海に押し流され、城下だけでも溺死者は400人以上といわれる。地震による土砂災害も発生「山々ノ崩ルル土煙四方ニ渡リ忽(タチマチ)闇夜ノ如シ男女泣(ナキ)サケフ事限(カギリ)ナシ」

「流家壹萬千百七拾軒、潰家四千八百六拾三軒、破損家千七百四十貳軒、死人千八百四十四人」と萬變記にあるように、宝永地震による主な被害は、土佐国(高知県)だけでも流失家屋1万1,170軒、倒壊家屋4,863軒、損壊家屋1,742軒、死者1,844人とされる。

津波は伊豆諸島から四国、九州にまで及んだが、それは太平洋沿岸だけでなく、伊勢湾、大阪湾、瀬戸内海、豊後水道の奥まで襲来している。津波高は伊豆下田で5〜7メートル、紀伊水道で5〜10メートル、阿波(徳島県)で5〜7メートル、土佐(高知県)で5〜8メートルと推定されている。特に須崎(現高知県須崎市)では、津波の溯上高推定約18メートルといわれる。津波は国内だけにとどまらず、遠く韓国・済州島、中国・上海にも押し寄せ各地で被害をもたらした。

幕府の記録では宝永地震の時、江戸近辺では被害はなかったが、大阪には津波が押し寄せ淀川や木津川河口から溯上し、約1800軒の家が倒壊し、約500人が死亡したとされていた。

ところが、2013年に矢田俊文新潟大教授(中世災害史)が、尾張徳川家の藩士が17〜18世紀に記録した『朝林』を調べると、大坂町奉行から幕府に届いた報告書を写したものとして、大坂では地震により「3,537の家がつぶれ、5,351人が圧死、1万6,371人が(津波で)溺死」と書かれていたという。

これまで宝永地震による死者は全国で2万人以上、倒壊家屋約6万戸、津波による流失家屋約2万戸とされてきたが、前述の『朝林』では、大阪だけで2万1,722人が死亡し、しかも1万6千人以上が溺死するほどの大津波が大阪に押し寄せたことになる。これは宝永地震の見方を大きく変える記述である。大坂の人口は当時約35万人とされ、死亡率は大阪の全人口の6%%に達し全国最多となる。大阪は南海トラフで地震が発生するたびに大きな被害を出しているが、宝永地震でこれほどの被害であったとすれば驚くばかりである。

2013年10月に大阪府が算出した南海トラフ巨大地震が発生した場合の被害想定によると、最悪の場合、大阪府の人的被害(死者)は13万3,891人、全壊建物17万9,153棟と推計している。宝永地震における大阪の被害を勘案すれば、現在との人口比率などからしても、この推計は決して過大ではないのかもしれない。被害軽減のために、個人、企業、自治体はどこまで減災対策を進めているのだろうか。

そして、宝永地震後に起きた富士山の宝永噴火である。宝永地震の余震が続く中、12月3日頃から富士山の山麓周辺でМ4〜5程度の地震が数回発生。そして地震から49日後の12月16日、大地震の後に富士山宝永大噴火が始まった。富士山の南東斜面からの噴火で、白い雲のような噴煙が上がり、その後高温の軽石が大量に降り続いた。それにより付近の家屋が焼け、田畑を砂礫が埋め尽くした。暮れると噴煙の中に火柱が見え、火山雷による稲妻が飛び交った。100キロメートル以上離れた江戸では降灰によって昼間でも夜のような暗さになったという(新居白石著『折たく柴の記』)。噴火は約1か月続いてほぼ収束する。この年が亥年であったことから、宝永地震と富士山の噴火を合わせて「亥の大変(いのたいへん)」とも呼ばれた。この宝永地震は大地震×大津波×富士山噴火が重なった多重複合災害である。「富士山三大噴火」とは、「延暦(800〜802年)の大噴火」「貞観(864〜866年)の大噴火」「宝永(1707年)の大噴火」だが、大地震の発生直後に噴火したのは宝永だけである。

このように今後想定される南海トラフ巨大地震の後に富士山が噴火する可能性は否定できないが、現段階では、富士山噴火と南海トラフ巨大地震に関する被害想定は別々に作成されている。この課題と詳細解説については後述する。

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