旧・奈良監獄(写真:dango k / PIXTA)

NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が放送以来、好調をキープし、まもなく最終回を迎える。毎朝の放送のたびに、SNSでも大きな話題となっているようだ。主人公・佐田寅子(ともこ)のモデルとなっているのが、女性初の弁護士で、女性初の裁判所長となった三淵嘉子(みぶち・よしこ)である。実際にはどんな人物だったのか。解説を行っていきたい。

アメリカを参考に設置した「家庭裁判所」

「アメリカには、ファミリー・コートと呼ばれる裁判所があるらしい」

昭和23(1948)年、三淵嘉子が弁護士から裁判官に転身しようとしていた時期に、最高裁民事局の会議でそんな話題が出たと、嘉子はのちに回想している。

アメリカの「ファミリー・コート」では、家事部と少年部が連携しながら、家庭に関する問題を引き受けるのだという。

日本でも家庭裁判所を作るべきではないか。そんな議論のなかで、すでに少年事件の審判や保護を行う「少年審判所」があったため、「いくつも裁判所があるのはまずい」という慎重な意見も出た。だが、少年審判所は終戦時で全国18カ所しかなく、十分な対応はできていないのが、実情だった。

最高裁民事局で議論した結果、「家庭裁判所の設置に賛成」で意見はまとまった。嘉子も賛成している。全国49カ所に家庭裁判所が作られたのは、その翌年の昭和24(1949)年1月1日のことだった。

立ち上げから携わってきた嘉子からすれば、家庭裁判所への思い入れは並々ならぬものだった。だが、嘉子は裁判官の赴任先として、家庭裁判所をあえて希望しなかった。

「先輩の私が家庭裁判所にいけばきっと次々と後輩の女性裁判官が家庭裁判所に送り込まれることになろう。女性裁判官の進路に女性用が作られては大変だ」

そんな理由から「50歳前後まで家庭裁判所の裁判官は引き受けない」と心に決めたという。

その決意どおりに、13年余りの地方裁判所の経験を経たのち、昭和38(1963)年4月から、48歳にして家庭裁判所へと異動。嘉子は「少年審判部九部」に所属することとなった。

少年事件の担当が当初は不安だったワケ

家庭裁判所で扱う事件は、大きく分けて2つある。1つは「家事事件」で、離婚や遺産相続をめぐるトラブルなど、家庭内の紛争だ。もう1つが、未成年者の非行や犯罪などの「少年事件」である。

嘉子はこれまで民事裁判でキャリアを積んできた。そのため、「家事審判」ではなく「少年審判」の担当になったことに、当初は不安を感じていたという。だが、家庭局時代の上司にあたる宇田川潤四郎からこんな激励を受けて、考えが少し変わったようだ。

「少年事件は少年を処罰するものではないから、刑事的な思考ではなく、むしろ民事の感覚が大切だ」

ここから嘉子は少年審判のプロフェッショナルとして、日々研鑽することになる。

嘉子を待ち受けていたのは、22万件(昭和38年当時)を超える、膨大な少年事件である。少年事件の背景となる社会情勢についても、嘉子が家庭裁判所から離れていた約10年の間で、大きく変化していた。

連続テレビ小説『虎に翼』第25週・第123回(2024年9月18日放送分)では、伊藤沙莉演じる主人公の佐田寅子が、家族の皆に少年事件について考えを聞くシーンがあった。そこでは、森田望智演じる米谷花江がこんな発言をしている。

「正直、私はピンとはきていないわ。闇市の子どもたちみたいな子も……今はいないしね」

その後、ほかの家族からは「雀荘の周りには若い子がたむろしているよ」「ジャズ喫茶の近くにも気だるそうなガキがわんさか」「凶悪犯罪が起きているのは確かだけど、新聞やテレビが誇張して不安をあおっている部分があるんじゃないか」などという声があがり、少年犯罪の様相が変化してきたことが、ドラマでは描写されていた。

実際の件数でみれば、戦後の混乱が収束するなかで、少年事件は昭和27(1952)年をピークに落ち着いていく。しかし、昭和30(1955)年頃から再び増加に転じている。

シンナーやボンド遊びといった非行が横行し、自動車やオートバイの所有台数が伸びたことを受けて、少年が起こす交通事故も増えた。そして、昭和40年代からは学生運動が急速に広がり、多くの学生たちが逮捕されることになる。

嘉子が着任した昭和38(1963)年頃には、少年事件を扱う少年院、補導委託先、家庭裁判所のいずれもが、パンク状態に陥っており、嘉子曰く「もうそれこそ破産状態だったと言ってもいいと思うんです」という有様だった。

ゆっくりと話すようになった嘉子

そうなると、どうしても家庭裁判所の裁判官も、多忙さから事務的な対応に陥りがちだが、嘉子は違った。

少年や保護者に対して、嘉子は自分の考えを押し付けることもなければ、「お前は悪いことをしたんだ」と説教することもなかった。まずは「なぜあなたがこういうことをしたのか」「どうしてこうなったのか」を、自分でしっかりと考えてもらうようにしていた。

そして、少年院に入ってもらう理由や、試験観察の意義を、嘉子は丁寧に説明。かつては早口だった嘉子も、少年審判にかかわってからは、ことさらゆっくりと、相手の様子を観ながら語りかけるようになったという。


旧・奈良監獄(写真:dango k / PIXTA)

なぜ、それだけ粘り強く対応できたのか。嘉子のなかには、社会情勢がどれだけ変化しようとも「家庭裁判所の原点」を忘れてはならないという思いがあった。講演で嘉子は次のように語っている。

「家庭裁判所において、家事部と少年部とを総合的に機能させることは、創立以来の課題であり、また実務家にとって常に新しい問題といえる」

少年とその家庭には密接な関係があり、どちらかが傷つくと必ず影響を与え合う。だからこそ両方を手当てする必要あるとして、こう続けた。

「この頃考えることは『家庭に光を少年に愛を』というスローガンを掲げて発足した家庭裁判所の原点に戻るべきだ」

昭和47(1972)年6月、嘉子は新潟家庭裁判所所長に就任。日本における初の女性裁判長の誕生となった。

嘉子が担当した事件では、抗告(不服申立ての一種)がほとんどなかったという。少年が自身の犯行と向き合い、下された処分を受け入れることができているからだろう。捜査機関に対しては無言を貫いた少年が、家庭裁判所では話し出すというケースもたびたびだった。

だが、少年事件への世間の目は厳しく、昭和45(1970)年から、少年法の対象を現行の「20歳未満」から「18歳未満」に引き下げるべきではないか、という議論が巻き起こる。

そんななか、嘉子は非行少年の厳罰化に粘り強く抵抗。健全な育成のための措置をとるべきだという姿勢を貫いた。

家裁の「人間的雰囲気」を守り通した

嘉子は家裁広報誌『浜のそよ風』にて「そよ風ファンタジー」と題して寄稿を行っている。家裁が作り上げた「人間的雰囲気」を大切にするべきだとした。

「家裁が始まって以来大事に育てて来た家裁らしい空気は、どんな強風にあっても吹き飛ばされないようにしなければなりません。地裁や簡裁の正義公平を守る司法の厳しい空気に比べ、家裁の空気は、法を守りながら、家裁へ来る人達の福祉を考える人間的雰囲気です。それは新しい裁判所である家裁が30年かかって作り上げたものです」

さらに「嵐は吹き込んで欲しくない、そのときはしっかりと窓を閉めなければと思う」とも続けている。

1人の人間の一生につながった責任を感じる――。少年審判の責務をそう語った嘉子。家庭裁判所で審判を担当した少年・少女の数は、5000人を超えたという。

昭和54(1979)年11月、定年により退官するその日まで、三淵嘉子は少年少女の更生に生涯を捧げることとなった。


【参考文献】
三淵嘉子「私の歩んだ裁判官の道─女性法曹の先達として─」『女性法律家─拡大する新時代の活動分野─』(有斐閣)
三淵嘉子さんの追想文集刊行会編『追想のひと三淵嘉子』(三淵嘉子さん追想文集刊行会)
清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』(日本評論社)
神野潔『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)
佐賀千惠美 ‎『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた“トラママ”』(内外出版社)
青山誠『三淵嘉子 日本法曹界に女性活躍の道を拓いた「トラママ」』 (角川文庫)
真山知幸、親野智可等 『天才を育てた親はどんな言葉をかけていたのか?』(サンマーク出版)

(真山 知幸 : 著述家)