95歳、認知症の父が退院間近。入居予定の老人ホーム見学の日、あきらかに父は緊張していた
高齢者が高齢者の親を介護する、いわゆる「老老介護」が今後ますます増えていくことが予想されます。子育てと違い、いつ終わるかわからず、看る側の気力・体力も衰えていくなかでの介護は、共倒れの可能性も。自らも前期高齢者である作家・森久美子さんが、現在直面している、95歳の父親の変化と介護の戸惑いについて、赤裸々につづるエッセイです。
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前回〈95歳で認知症の父がついに退院、自宅ではなく施設に入るよう勧める時が来た。父は「俺のことを一番よく知っているのは、おまえだ」と言った〉はこちら
老人ホーム見学の日、あきらかに父は緊張していた
私が父を入居させたいと思っている老人ホームの担当者から、電話がかかってきた。
「今日病院に伺ってお父様に面会させていただき、ご入居の意思を確認できました。体調的にも問題がないとのことでした。ご本人が『自分で見て決める』とおっしゃっているので、見学の日を決めていただけますか」
「はい、なるべく早く伺います」
ホームの人からの電話を切ると、私はすぐに父の入院病棟の看護師さんに電話した。そして、翌日の外出許可を医師にとってもらうように頼むとすぐOKが出た。
10時に病院の受付に着くと、準備を整えてもらっていた父が、車椅子に乗ってエレベーターで降りてきた。苦々しい口調で私に不満を言う。
「俺は歩けるのに、外まではこれに乗れって……」
私は車椅子を押してくれている看護師さんの手前、父を諭した。
「転んだら困ると思って、安全のために車椅子に乗せてくれているのだから、我慢してちょうだい。私は玄関前に車を寄せるから、そのまま待っていてね」
父の表情や話し方から、初めて老人ホームに行くことに構えているのが見て取れた。移動の時間、気まずい空気が続くのかなと思いながら、車を玄関正面に横付けした。車椅子を押してきた看護師さんが父に聞く。
「後ろの座席に乗りますよね?」
「いや、助手席に乗る」
6月中旬から3ヵ月以上入院していた父にとって、久しぶりの外出だ。後部座席で寛いでいてほしいと考えた私は、父に言った。
「後ろの席のほうが広くていいんじゃない?」
「俺はずっと車の運転をしていたから、前が見えないといやなんだ。後ろの席は好きじゃない」
父が妙に機嫌が悪いのは、やはり緊張しているのだろうか。それとも元気になったため、以前のようにまた私と些細なことでバトルを繰り広げるつもりなのだろうか。
一方私は、父が3ヵ月に渡り入院していたおかげで心身ともに余裕がある。前より落ち着いて対応できるようになっているから、喧嘩にはならないはずだ。
外の空気に当たり、父らしさを取り戻した
私は助手席側に回りドアを開けて、車椅子から降りる父に手を貸してシートに座らせ、シートベルトをするのを手伝ってから、父に言った。
「パパ、ちょっと待っていてね。戻る時間を看護師さんに言い忘れていたわ」
本当は、玄関で見送ってくれている看護師さんに、一言謝りたかったのだ。
「すみません、久しぶりの外出に気が立っているようで機嫌が悪くて。見学と昼食を済ませたら戻りますので、帰りは2時半頃になると思います」
車が動き出すと父は少し気分が変わったように見えた。
「空がもう秋の色だな」
久しぶりのドライブが楽しいのか、目に入るファミレスやガソリンスタンドなどを指差し、子どものようにはしゃぎ始めた。
「帰りにあそこで、ランチするか?」
と言ったかと思ったら、運転席側に顔を突き出して、ガソリンの残量を見て言った。
「帰りにあのスタンドで、ガソリンを入れたほうがいいな」
私は残量のメモリが1か2になるまで給油しないので、つれない返事をした。
「いや、まだあるからいいよ」
父は2年前まで自分で車を運転していた時の習慣を思い出したようだ。
「早めに入れておくのが危機管理というものだ。何事もギリギリはよくない」
極めて真っ当な考えだと思うが、私には私のお金のやりくりがあるから、適当に相槌を打つだけにしておいた。
見学する老人ホームまであと300メートルの地点で、好きな焼き肉屋のチェーン店があるのを見つけた父は突然上機嫌になった。
「帰りはあそこで、焼き肉を食べよう!」
「パパ、いきなり脂っこいものを食べて大丈夫なの?」
「あぁ、俺は肉食系なんだ。肉を食べると健康で長生きするっていうけど、あれは俺のことだな」
オーマイ・ダッド! 体調が良くなったら、いきなり健康自慢ですか。
元気を取り戻したのは喜ばしいが、ホームに入居してから健康自慢をしたら、他の人に嫌われてしまうのではないかと、先行きが心配になってくる。
見学した感想がいかにも父らしい
現地に到着して入り口の前に車を停めると、私が見学した日に案内をしてくれた相談員の方がロビーの入り口で待っていた。
助手席のドアを開けた父は、用意してくれていた車椅子を一瞥し、それが不要であるのをアピールするかのように、しゃきっとした姿勢で地面に降り立ち歩き始めた。
「私は歩けますから、車椅子はいりません」
相談員の人は、父のようにプライドが高くて頑固な年寄りに何度も出会ったことがあるのかもしれない。父の意思を尊重し微笑みながら、一緒にゆっくり歩いて応接室に案内してくれた。
ソファに座りあらためてパンフレットを見せてもらうと、父は冷静に入居費用や毎月の支払方法について相談員に訊ねた。私が口を挟まずに見守っていると、父は建物の設備を早く見たいと言い出した。相談員が気を遣って聞いてくれる。
「このホームは100室以上の居室があるので、歩くと疲れるかもしれませんから、使わないとは思いますが車椅子を用意しておいていいですか?」
父には90歳過ぎまでスポーツクラブで軽い筋トレをしていたおかげで、自力で歩けるという自負が強く残っている。95歳なのだから、筋力や体力が落ちて当然なのに、どうしても認めたくないらしく、強気の返事をした。
「乗らないと思いますけど、用意するのがそちらのお仕事ならどうぞそうしてください」
私が職員なら、「感じの悪い年寄りだ」と思ってしまいそうな言動をする父が恥ずかしい。相談員の方は気を悪くしたふうでもなく、にこやかに父を先導して応接室を出た。父は幅の広い廊下が気に入ったようだ。
「建物は新しいし、廊下が広いのは気持ちいいな」
(写真提供◎株式会社ノアコンツェル 以下すべて)
浴室を見せてもらうと、モール温泉(北海道に多い温泉)の茶色いお湯の色に満足そうな顔をしている。次に食堂を見せてもらっている時に、私は父の耳元で言った。
「厨房が見えるでしょう。調理器具がピカピカだし、調理員さんたちがてきぱきと昼ご飯の盛り付けをしているのがいいよね」
父は厨房には大して興味を示さず、相談員を急かすように言った。
「部屋を見せてください」
エレベーターで2階に着くと、父は相談員に聞いた。
「部屋まで遠いですか?」
「そうですね、エレベーターホールからはちょっとありますね」
車椅子が役に立つ時が来た。父は観念したように車椅子に乗り、廊下の両脇にある居室の番号を見ている。相談員が鍵を開けて中に入った途端、父の顔が輝いた。
「いいマンションだな。窓が広くて明るくて気持ちがいい」
父は老人ホームに入るというより、新築のマンションに入居する錯覚に陥っているらしい。このまま気に入って入居してくれたら、私も安心して過ごせるようになるのだが。
隣接した棟にあるデイサービスセンターの見学などをして、ロビーに戻ると父は車椅子から降り、相談員に言った。
「少し考えてから返事をします」
え? 私はその場で決めてくれると思っていたので動揺した。でも考えてみたら、昔から父は重要なことは時間をかけて結論を出す性格だったことを思い出した。例えば、車を買う時や家の改修工事をする時にも、今回のような返事をしていた。
老人ホームを出ると、私は父が行きたがっていた焼き肉屋に向かった。疲れたのか何もしゃべらず、黙々と肉を焼く父に一応聞いてみる。
「パパ、見学してどう思った?」
「まあまあだな」
40年前に亡くなった私の母は、父の「まあまあ」の真意がわからなくて困ると愚痴っていた。しかし、母よりも父と長くいる私は、父の「まあまあ」は良いと思っている場合に出る表現だと知っている。焼肉をパクパク口に運ぶ父を、今日はそっと見守っていたほうが良さそうだ。
食後のコーヒーを飲みながら、私は仕事の近況等の他愛ない話をして、ホームの話題を避けながら、父の心中を想像していた。
95歳になって、住居を変えるのはかなり勇気のいることなのではないだろうか。67歳の私にとっても、身近な問題となる日が近い将来やってくる。自分に置き換えて考えたら、私には父を急かすことはできなかった。
病院に送り届けると、別れ際に父は言った。
「おまえがいいと思うようにしていいぞ。俺は、あそこは嫌いではない」
老人ホームに入ることによって娘の負担を軽くしようとしてくれる親の愛に、私は胸がいっぱいになった。
【漫画版オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく】第一話はこちら