金正男氏

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 過去に世間を騒がせたニュースの主役たち。人々の記憶が薄れかけた頃に、改めて彼らに光を当てる企画といえば「あの人は今」だ。今回取り上げるのは、2017年に金正男氏を猛毒で暗殺し、その後逮捕された2人の女性の事件後の知られざる生活だ。

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 2017年2月13日、現地時間午前9時ごろ。マレーシアのクアラルンプール国際空港の3階出発ロビーで搭乗を待っていた一人の男性の背後に、両手を顔の高さに掲げた2人の女が近づいてくる。女らは突然、男の顔にオイル状のものを塗りたくったかと思うと、一瞬のうちに踵を返してその場を立ち去ってしまった。

 顔に薬剤を塗られた男の名は金正男。11年に亡くなった北朝鮮の金正日前総書記の長男であり、同国の現在の最高指導者・金正恩総書記の異母兄にあたる人物である。後の捜査で、女らが正男の顔に塗った物質は、猛毒のVXであったことが判明。VXの作用により、45歳の正男はわずか2時間足らずのうちに帰らぬ人となったのだ。

金正男

 防犯カメラや警備員が多数配置され、市中で最もセキュリティーが高いはずの国際空港で起こった白昼堂々の暗殺劇。陰で計画を操った北朝鮮の工作員たちが首尾よくマレーシア国外に脱出する中、実行役となった2人の女の素性に世界中の関心が集まった。

訓練された暗殺犯?

 マレーシアの警察当局は、事件から2日後の15日にベトナム国籍のドアン・ティ・フオン(29)=当時=を、翌16日にインドネシア国籍のシティ・アイシャ(25)=同=を相次いで逮捕。世界を震撼させた暗殺劇の実行役は、いともたやすく“お縄”となったのである。

 事件を取材したジャーナリストによれば、

「警察当局は、ドアンとシティが正男の顔に液体を塗りつけた後、いずれも両手を自分の体に触れないよう上に上げてトイレに駆け込んだ点に着目し、二人が手に付いた液体を危険な物質であると認識していたと主張しました。検察当局もこの見方を受け継ぎ、二人が訓練された暗殺犯であるとして、殺人罪での起訴に踏み切ったのです」

彼女らに暗殺の意図はあったのか

 ところが、ドアンとシティに金正男暗殺の意図があったとする当局の見立てには首をかしげる向きも多かった。その理由は、彼女らが“暗殺の実行役”としてリクルートされた経緯にある。

「ドアンは大学卒業後、就職がうまくいかず、女優として生きていくことを夢見てオーディションを受けていました。そんな折、かつての仕事先の同僚から『イタズラ動画の出演者を探している人がいる』とプロデューサーに扮した北朝鮮工作員を紹介されたのです」

 一方のシティもリクルートされた方法に大差はない。

「シティはインドネシア出身ですが、家が貧しく小学校の卒業と同時に首都・ジャカルタに上京し縫製工場で働くようになった。そこで結婚して17歳のときに長男をもうけますが、数年で離婚。長男は夫の実家に引き取られ、彼女は仕事を求めてクアラルンプールに移り住んだのです。しかし、マレーシアで彼女が得た仕事といえば性的サービスを伴うマッサージ店くらい。周囲に『女優になりたい』と話していたシティは、やはり知人からイタズラ動画の出演者を探しているというプロデューサーを紹介され、北朝鮮の工作員にからめ捕られてしまったのです」

本当にドッキリだと思っていた可能性

 2人の女性はここから数カ月にわたって「日本で放送するイタズラ動画の撮影」という名目で、見ず知らずの他人の体にベビーオイルをつけたり、後ろから目隠しをしたりする「ドッキリ」を繰り返すことになる。

「確かに、 結果的には全てが金正男の顔にVXを塗布する“訓練”になっていたわけですが、彼女らはその様子も全てSNSで発信していた。これから暗殺をしようとする者が不用意に自らの手の内を明かすことは考えにくく、『イタズラ動画で有名になれる』と信じて指示に従っていたと考えるのが自然です。しかし、自国の玄関口でやすやすと要人暗殺を遂げられたマレーシア当局には、せめて実行役だけでも有罪にしてメンツを保たなければという焦りがあった」

 結果、検察側の立証が終わった段階で、裁判所から2人の女性に申し渡された“心証”は、「イタズラ動画の撮影には見えず、暗殺の訓練だったと考えるのが自然」、つまり有罪相当というものだった。

 当時のマレーシアの法律では、殺人罪の法定刑は死刑のみ。被告人である彼女らが検察側の主張を覆せなければ、有無を言わさず死刑が宣告される絶体絶命の立場に置かれたのである。

SNSの更新もストップ

 ところが、ここから事態は誰も予想しなかった展開をたどる。

「二人が拘束されてから2年余りが経過した19年3月、検察が突如、シティに対する起訴のみ取り下げると申し出たのです。背景にはインドネシア政府によるマレーシア当局に対する自国民の釈放要請がありました。これにより、シティは即日釈放。母国の政治力の低さによって一人容疑者として取り残されたドアンは打ちひしがれましたが、結局、ドアンについても政府間交渉により軽い傷害罪に訴因が変更され、19年5月に出所となったのです」

 女優を志していたものの、貧困がもとで大きく道を踏み外したドアンとシティ。現在はどのような暮らしをしているのだろうか。

「ドアンもシティも釈放後は家族に迎えられましたが、その後の動静については、地元メディアで取り上げられることもなく、あれだけ頻繁に更新していたSNSの投稿すら確認できなくなってしまいました」

「新たな証拠が見つかれば…」

 ドアンは帰国時に「これから何がしたいか」と記者に尋ねられ「演技がしたい」と笑顔で答えていたが、帰国後はネット上でバッシングが起こり、誹謗中傷の嵐にさらされたのだという。

 起訴を取り下げられたシティも一件落着とはいかなかったようで、

「釈放後、インドネシア外務省が『完全な釈放ではなく、新たな証拠が見つかれば、再び起訴される可能性がある』としており、彼女も表立った活動は控えるつもりなのかもしれません」

 これぞ翻弄された人生と言うしかあるまい。

「週刊新潮」2024年8月15・22日号 掲載