豊臣秀吉はどんな人物だったのか。歴史学者の渡邊大門さんは「敵とみなした人間への仕打ちはすさまじかった。後継者として育てた親族に対しても容赦しなかった」という――。(第2回)

※本稿は、渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)の一部を再編集したものです。

■豊臣秀頼の父親は誰だったのか

秀吉には多くの側室がいたが、中でももっとも知られているのが浅井長政とお市の間に生まれた茶々(のちの淀殿)である。秀吉と茶々が結婚したのは、天正16年(1588)のことである。そして、文禄2年(1593)に2人の間に生まれたのが、次男の秀頼である。

秀吉没後、秀頼は豊臣家を継承し、大坂の陣で徳川家康に敗れて自害した。秀頼に関しては、古くから秀吉の実子ではなく、淀殿と大野治長の間の子であるといわれてきた。現在でも、秀頼が秀吉の実子であるか否かに関しては、論争が続いている。

実子でないことを主張する近年の説は、根本的に秀吉には子種がなかったと考えられること、秀頼が誕生する10カ月前に秀吉と淀殿は同じ場所にいなかったことなどを理由として挙げている。

実際に、フロイス『日本史』にも秀吉に子種がなかったことや、夭折した長男・鶴松が実子でないと明確に書き残されている。こうした点は誠に興味深いところであるが、未だ検討の余地があるといえよう。

一ついえることは、秀頼が実子だったか否かは別として、秀吉の後継者になったことが重要という点である。このことによって、豊臣家は存続するのであり、他人の子であるか否かは関係ない。多くの戦国大名は養子を受け入れていたので、別に珍しいことではなかったのだ。

狩野光信作・重要文化財《豊臣秀吉像》(部分)(写真=京都・高台寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■秀次が重用されたシンプルな理由

秀頼誕生以前、秀吉と本妻であるおねとの間には、ついに子宝に恵まれなかった。そこで秀吉は、織田信長の四男・秀勝を天正7年(1579)に養子に迎えた。ちなみに同名の秀勝は、もう一人存在したが(三好吉房と姉・日秀の子)、ともに若くして亡くなった。

秀吉の後継者問題は、喫緊の課題だったのである。そこで、秀頼が生まれる以前に秀吉の後継者と目され、養子に迎えられたのが、豊臣秀次である。秀次は秀吉の姉・日秀の子で、最初は宮部継潤の養子となり、後に三好康長の養子となっていた(最初は、信吉と名乗る)。

さらに秀次は秀吉の養子となったが、同じ一族という事情もあり、重用されることとなる。秀吉の後継者の最有力であったにもかかわらず、秀次の人生は決して平坦なものではなかったといえる。

一例を挙げると、秀吉が家康と一戦を交えた天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、秀次が指揮を誤って多くの戦死者を出したとされる。先行きを期待されていただけに、手痛い失策であった。

この大失敗によって、秀次は秀吉から厳しい叱責を受けたのである。それでも、秀次が重んじられたのは、彼が秀吉の数少ない縁者だったからであると考えられる。

■知られざる秀次の功績

天正12年(1584)9月、秀吉は秀次に対して訓戒状を与えた(「松雲公採集遺編類纂」)。その趣旨とは「秀吉の甥である覚悟を持つこと」などを記している。養子の秀勝(織田信長の四男)が病弱であるがゆえに、秀次に代理ともいうべき地位を与えたのである。

秀次は合戦で失態を演じたにもかかわらず、秀吉は大きな期待をかけていた。おそらく、この頃には「秀次」という名乗りと羽柴姓を与えたと推測される。以後における秀次の活躍ぶりは目覚しいものであり、秀吉の叱咤激励が功を奏したと考えられる。

その軍功は、以下に示すとおりである。

1.天正13年(1585)紀州雑賀攻め、四国征伐の軍功により、近江国蒲生郡八幡(滋賀県近江八幡市)などに43万石を与えられる。従三位権中納言になる。
2.天正18年(1590)小田原合戦に出陣。尾張国、伊勢国北部を与えられる。
3.天正19年(1591)正二位左大臣に就任。

秀次は秀吉にとって貴重な身内だったので、軍功を挙げれば相応に処遇することができた。何より出自の賤しい秀吉にとっては、実に頼もしい存在であった。

実質的な権力は、秀吉が掌握していたものの、秀次はその後継者として着々と栄光の道を歩んだのである。そして、秀次にも婚姻という節目が訪れることになった。

小田原征伐のために作られた石垣山一夜城から望む小田原城(写真=Mocchy/PD-self/Wikimedia Commons)

■政略結婚が行われた背景

秀吉とその類縁は出自が貧しかったが、栄達を遂げたこともあり、秀次にはふさわしい結婚相手が求められた。秀次が正室として迎えた相手は、一の台と呼ばれる女性であった。

一の台は公家の菊亭晴季の娘であり、晴季は最後には右大臣にまで昇進した人物である。『菊亭家譜』によると、晴季の長女として一の台が誕生していることを確認できるが、単に「女子」と記載されているのみで、実名がわかっていない。女性特有の史料の限界が認められる。

なぜ秀次は、一の台を妻として迎えたのであろうか。その辺りは、養父である秀吉の思惑が絡んでいた。天正13年(1585)、関白相論(二条昭実と近衛信輔の関白の座をめぐる争い)を契機として、秀吉と深いつながりを持ったのが菊亭晴季であった。朝廷・公家への対策という点において、秀吉は晴季を重用することになる。

となると、両者はその関係をより強固なものにする必要があった。その一つの方法こそが、結婚を介したものだったのである。

秀次と一の台が結婚した時期は、明らかにされていないが、秀吉が関白に就任する前後の天正13・14年(1585・1586)頃が有力視されている。

先に触れたとおり、秀吉が対朝廷・公家の対策で晴季の協力を得るため、秀次と一の台の婚姻を推し進めたと考えてよい。いうまでもなく、政略結婚の一環であった。

■なぜ秀次は失脚したのか

天正19年(1591)12月、関白職は養子の秀次に譲られ、豊臣家が世襲するところとなった。この様子を見た摂関家の人々は、大変落胆したことであろう。秀吉が関白に就任した際に交わした約束どおり、五摂家に譲ることが反故にされたからである。逆に言えば、秀次に明るい未来が開けたことになる。

このように順風満帆であった秀次の先行きには、やがて暗雲が立ち込めることになった。秀吉と淀殿との間に秀頼が誕生したからである。秀頼に関しては実子・非実子説があるものの、秀吉と淀殿が目に入れても痛くないほどかわいがったのは事実である。秀吉が実子を後継者に据えたいというのは、ごく自然な話である。

そして、事件が勃発したのである(以下『甫庵太閤記』など)。文禄4年(1595)7月3日、石田三成ら5人の奉行が聚楽第の秀次のもとを訪れ、高野山(和歌山県高野町)へ行くように命じた。秀吉は秀次に対して、謀反の嫌疑をかけたのである。

理由はさまざまなことが指摘されているが、秀吉に実子である秀頼が誕生したため、不要になったという説がよく知られている。この他にも秀次が酒色に溺れ、殺生を繰り返したとの説もある。また、曲がりなりにも秀次は関白の職にあったので、養父である秀吉と異なる政治的志向があったのかもしれない。そのことが、秀吉の癇に障った可能性もある。

豊臣秀次像(部分)(写真=瑞雲寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

■天下人は2人もいらない

秀吉は関白の職を秀次に譲ったとはいえ、決して引退したわけではなかった。秀吉は太閤として君臨していただけでなく、現役の太政大臣でもあり、秀次をはるかに凌駕する政治権力を保持していた。つまり、豊臣政権下では天下人が2人も存在するような事態になり、秀吉と秀次が下す政治的判断が異なることもあった。

文禄4年(1595)に蒲生氏郷が亡くなると、子の秀行が跡を継いだ。しかし、遺領を引き継ぐ際に、秀吉と秀次の判断が分かれた。これは一つの例であるが、こうしたことが重なったとすれば、秀吉と秀次との間に確執が生じるのは当然である。それは、先述した武田氏、徳川氏と似通っている。

秀吉からすれば、いかに秀次を後継者候補に据えたとはいえ、政治路線が一致しない以上は、何らかの対処をせねばならなかったということになろう。その結果、秀次は自害を求められたのである。

かつて、秀次は秀吉に命じられて自害したのではなく、自らの無実を訴えるため自害に及んだという説が提示されたが、現在では否定されている。その5日後、秀次は釈明をするために伏見の秀吉のもとを訪問したが、ついに面会は叶うことがなかった。

そして、同日の8日には、高野山へ向かったのである。同年7月15日、福島正則が高野山に蟄居する秀次のもとを訪れ、秀吉から自害の命が下ったことを知らせた。秀次以下、疑いをかけられた小姓などは、高野山で自害させられたのである。

■あまりに無慈悲な仕打ち

ところが、死後の秀次には、悲惨ともいえる措置が取られた。秀次の配下の者たちの遺骸は、そのまま青厳寺(金剛峰寺。和歌山県高野町)に葬られたが、秀次の首は三条河原に送られたのである。これまで後継者として処遇された秀次に対して、あまりにひどい仕打ちといえる。そして、秀次が切腹に追い込まれたことは、さらに家族へと累が及んだのである。

同年8月2日、秀次の妻子が処刑された。その方法なりを見る限り、秀吉の残虐性を再確認することができる。当日の朝、石田三成ら秀吉配下の武将が3千人の兵を率い、京都の三条河原へやってきた。

渡邊大門『戦国大名の家中抗争』(星海社新書)

四方に堀を掘って鹿垣を築くと、秀次の首を西向きに据え置き、その妻子たちに拝ませたのである。これまで秀次の妻子として、彼女らは何不自由ない生活を送っていたであろう。しかし、秀次が罪人として処分されたことにより、非情ともいうべき過酷な運命が待ち構えていたのである。

秀次の妻の数は諸書によって異なるが、おおむね20人から30人であったと考えられる。息女に至っては、まだ13歳の少女であった。その処刑シーンは書くことが憚られるほどの惨状であり、見る者が目を背ける光景であった。

まさしく合戦における秀吉の残虐性が再現されたが、処刑に立ち会った石田三成らは、嘆き悲しむ素振りすら見せなかったと伝わっている。

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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。
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(歴史学者 渡邊 大門)