粗末な板塀に白い花がひとつ、笑うように咲いている(写真:yasu /PIXTA)

輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。

NHK大河ドラマ「光る君へ」で主人公として描かれている紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。

この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 1 』から第4帖「夕顔(ゆうがお)」を全10回でお送りする。

17歳になった光源氏は、才色兼備の年上女性​・六条御息所のもとにお忍びで通っている。その道すがら、ふと目にした夕顔咲き乱れる粗末な家と、そこに暮らす謎めいた女。この出会いがやがて悲しい別れを引き起こし……。

「夕顔」を最初から読む:不憫な運命の花「夕顔」が導いた光君の新たな恋路

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夕顔 人の思いが人を殺(あや)める

だれとも知らぬまま、不思議なほどに愛しすぎたため、
ほかの方の思いが取り憑いたのかもしれません。

「もはや最期」

日が暮れてから惟光(これみつ)がやってきた。光君が穢れに触れたというので、邸に参上する人々もみな着席することなく退出していき、邸はひっそりとしている。光君は惟光を呼び、

「どうだった、やはりだめだったのを見届けたか」と訊くやいなや、袖を顔に押し当てて泣き出してしまう。

「もはや最期とお見受けしました。いつまでも山寺に安置しておくのもよくありませんし、明日なら日柄も悪くないようですから、葬儀のことは知り合いの高徳の老僧に頼みこんでおきました」

と惟光は伝える。

「付き添っていた女房はどうしている」光君は重ねて訊く。

「その者ですが、もう生きてゆけそうにはございませんと、自分も後を追わんばかりに取り乱しまして、今朝は谷に飛びこんでしまいかねない有様でございました。五条の家の者たちに知らせたいと申しますが、少し落ち着きなさい、事情をよく考えてからにしようとなだめておきました」

それを聞くと光君はますますやりきれない気持ちになり、

「私もひどく気分が悪くて、どうなってしまうのかと思うよ」と言う。


「夕顔」の人物系図

何ごとも因縁だと思おうとするが

「何を今さらくよくよすることがありますか。何ごとも前世の因縁でございましょう。だれにも知られることはないと存じます。この惟光が念には念を入れて万事始末いたしておきます」

「そうさ、何ごとも因縁だと思おうとしているのだけれど、自分の無責任な恋心のせいで、人をひとり虚(むな)しく死なせたと非難されるに違いないんだ。それがつらくてやりきれない。少将命婦(しょうしょうのみょうぶ)にも内緒にしておくれ。尼君にはなおのことだ。忍び歩きをやかましく咎(とが)められるだろうから、私は合わせる顔もなくなってしまう」と光君は口止めをする。

「そのほかの僧侶たちにも、すべて違う話に言い繕ってあります」

と言う惟光を、光君は頼りにするしかない。

邸の女房たちは、この会話を漏れ聞いていったい何ごとなのだろうと不思議に思う。穢れに触れたとおっしゃって宮中にもいらっしゃらないのに、何をひそひそとお話しになっては悲しんでいらっしゃるのだろう……といぶかしむのだった。

「これからのこともうまくやっておくれ」と、光君は葬儀の段取りを指示する。

「いえ、何、大げさにすべきことでもございません」と惟光は立ち去ろうとするが、光君はまたしても悲しみに襲われて呼び止める。

「こんなことはすべきじゃないとわかっているけれど、もう一度あの人の亡骸を見ないことにはとても気持ちがおさまらないから、私もいっしょに馬でいくよ」

まったくとんでもないことだと思いながらも、

「そうお思いになるのなら仕方がございません。早くお出かけになって、夜の更けないうちにお帰りになられますように」と惟光は承知した。

最期の亡骸を見ないことには

最近の忍び歩きのためにこしらえた狩衣(かりぎぬ)に着替え、光君は邸を出た。まだ気分も悪く、気持ちも沈んでいるせいで、こんな非常識な軽はずみで出てきて、また昨夜の物の怪に襲われるのではないか、引き返したほうがいいのではないかと光君は迷う。けれども悲しみはやはり紛らわしようがなく、最期の亡骸を見ないことには、ふたたびいつの世で女の顔を見ることができようかと、気持ちを奮い立たせ、随身を伴って惟光と出かけたのである。

道は果てしなく遠く思えた。十七日の月が上り、賀茂河原のあたりにさしかかると、先払いの者が持つ松明(たいまつ)の明かりもほのかで、火葬場のある鳥辺野(とりべの)がぼんやり見えるのはいかにも薄気味悪いが、光君はもうこわいと思うこともない。気分のすぐれないまま、山寺に着いた。

あたり一面、ただでさえおどろおどろしいのに、板葺(いたぶ)きの家の傍らにお堂を建てて修行している尼の住まいは、ぞっとするほどさみしい光景である。お堂の灯明が戸の隙間から漏れている。板葺きの家からはひとりの女の泣く声がして、外では僧侶が二、三人、言葉を交わしながら話の合間に無言の念仏を唱えている。近隣の寺の勤めも終わり、静まり返っている。清水寺のほうは灯火もたくさん見えて、大勢の人が行き交っている様子だった。この尼の息子である高徳の僧が、尊い声で読経(どきょう)をはじめ、光君は涙を体中から絞り尽くすような気持ちでそれを聞く。

板葺きの家に入ると、灯火をそむけ、亡骸とのあいだに屛風を隔てて右近は臥(ふ)せっていた。その姿を見て、どんなにつらく悲しいことだろうと光君は思う。亡骸は、おそろしい感じがまったくせず、生前の時と寸分変わらず可憐(かれん)である。光君は女の手を取った。

「どうか、もう一度だけ声を聞かせておくれ。前世でどんな因縁があったのだろう……あっという間にだれよりもいとしい人になったのに、私を置き去りにして、こんなに悲しませるなんて、あんまりだ」光君は声を抑えることもできずに泣き続けた。高僧たちは、この人はだれだろうと思いながらもついもらい泣きをしてしまう。

「さあ、二条院へ行こう」と、光君は右近を誘うが、

「ずっと長いあいだ、幼い頃からかたときも離れることなくお仕え申したお方と、急にお別れすることとなって、いったいどこに帰るところがありましょう。それに、ご主人さまはどうなさったと人に申せばいいのでしょう。お亡くなりになった悲しみもありますが、世間になんと言い立てられるかと思うとつらくて仕方がありません」右近はそう言って泣き崩れる。「ご主人さまの煙を追いかけたく思います」

右近をなぐさめながらも


「そう言うのも仕方がないことだと思うよ。けれど世の中とは無常なものだ。悲しくない別れなどないよ。今亡くなった女君も、残された私たちも、だれにも命に限りはある。気持ちを強く持って、私を頼りにしなさい」光君はそう右近をなぐさめながらも、「こんなことを言っている私だって、もう生きていけないような気持ちなんだ」と言ってしまうのは、いかにも頼りないことです。

「夜が明けて参ります。さあ、早くお帰りなさいますよう」

惟光に急かされ、光君は幾度もふり返りふり返りしながら、なおのこと胸のふさがるような思いでその場を去った。

次の話を読む:はかない別れの後、ようやくわかった夕顔の正体


*小見出しなどはWeb掲載のために加えたものです

(角田 光代 : 小説家)