紫式部がリスペクトした人物とは?写真はえさし藤原の郷(写真:なな/ PIXTA)

NHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして、平安時代にスポットライトがあたることになりそうだ。世界最古の長編物語の一つである『源氏物語』の作者として知られる、紫式部。誰もがその名を知りながらも、どんな人生を送ったかは意外と知られていない。紫式部が『源氏物語』を書くきっかけをつくったのが、藤原道長である。紫式部と藤原道長、そして二人を取り巻く人間関係はどのようなものだったのか。平安時代を生きる人々の暮らしや価値観なども合わせて、この連載で解説を行っていきたい。連載第11回は紫式部と伯父の為頼のエピソードや、源氏物語で最多引用され、紫式部のお気に入りだった和歌について紹介する。

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筆マメな藤原実資が紫式部の存在を記す

平安時代中期の公卿である藤原実資は、ずいぶんと筆マメだったようだ。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、お笑い芸人のロバート秋山が演じて、話題を呼んでいる人物のことだ。

21歳から84歳まで欠かさず日記『小右記』を書き続けて、朝廷で起きたさまざまな出来事を詳細に記している。

『小右記』の熱心な読者の1人が、藤原定家だ。実資が1046年に死去してから100年以上が経った1162年に生まれた定家だったが、『小右記』を読み込みすぎて、夢のなかで実資と会ったのだという。

実資に憧れるあまり、自身も18歳から74歳までの56年にわたる克明な日記『明月記』を残しているくらいだ。

そんなふうに、後世にも影響を残した『小右記』は、紫式部の実存を裏づけるのにも、一役買っている。

藤原実資が一条天皇の皇后である彰子の御殿へ出入りしていると、いつも同じ女房が取り次いでくれたのだという。

長和2(1013)年5月25日には、日記『小右記』に次のように記している。

「今朝帰り来たりて云わく、去んぬる夜、女房に相逢う」

さらに、この女房のことを「越後守為時の娘」と説明しており、越後守を務めていた藤原為時の娘、紫式部のことだということがわかる。

紫式部がいつ生まれたのかは諸説あり、970(天禄元)年とする説や、973(天延元)年とする説などがある。また「紫式部」は宮中での呼び名で、本名ではない。生年も本名もはっきりしていないことを思えば、「記録魔」ともいうべき、実資の筆マメさによって、上記の1行が書かれた意味は大きく、貴重な記録だと言えるだろう。

紫式部に限らず、平安時代において、天皇の后や子供でもなければ、女性の記録が残されることはなかった。それでも、男性側の記録は残っているので、紫式部の家庭環境を紐解くことはできる。バックグラウンドを見ていこう。

花山天皇の出家でダメージを受けた兄弟

紫式部といえば、その文学的素養に、漢学者の父・為時が「惜しう。男子にて持たらぬこそ幸ひなかりけれ」(つくづく残念だ。この子が男子でないとは、なんと私は不運なんだろう……)と嘆いたというエピソードがよく知られている。

紫式部は、父の為時の影響下で、漢学や漢詩の才を育むことになったが、和歌の才は為時の兄、つまり、伯父の為頼から受け継いだものかもしれない。為頼の和歌は『拾遺和歌集』に5首選ばれ、勅撰集に11首も載せられられている。

紫式部の父・為時はなかなか官職を得られなかったが、兄の為頼はそれなりにうまく立ち回ったようだ。安芸権守・丹波守と地方官を兼ねながら、花山天皇が即位後は、従四位下にまで昇進を果たしている。

だが、寛和2(986)年に、花山天皇が出家して退位したことによって、為頼の出世も停滞する。弟の為時も同じく官職を解かれていることから「寛和の変」によって、兄弟でダメージを受けたことになる。


花山天皇の出家で式部の父と伯父は大きなダメージを受ける。写真は、花山天皇が出家した京都府元慶寺(写真: くろうさぎ / PIXTA)

紫式部と伯父・為頼の関係はどのようなものだったのか。為頼は自身の歌集『為頼集』を残しており、そこには次のような和歌がある。

「夏衣 薄きたもとを頼むかな 祈る心の隠れなければ」

現代語訳としては「夏衣の薄い袂を頼みにしなさい。あなたの無事を祈る私の心は隠れることはないのだから」といったところだろう。これは、紫式部が越前へと向かうときに、為頼が「小袿」という上着のたもとにいれた、和歌だと言われている。

時期としては、紫式部の父・藤原為時が越前守に任命されたときで、紫式部も同行することになった。旅立つ姪・紫式部を心配する伯父・為頼の思いが、この和歌には凝縮されている。

もう1人の伯父の為長もまた歌人で、『後拾遺和歌集』には1首が掲載された。だが、為頼のように紫式部と交流があったのかどうかは記されていない。

天元3(980)年頃に陸奥守に任ぜられたようだ。さらに『為頼集』には「はらからの陸奥の守亡くなりての頃」という記載があるため、為頼よりも早くに亡くなったらしい。

紫式部が最もリスペクトした歌人

漢学に優れた父に、和歌に優れた2人の伯父。さらにさかのぼれば、この3人の父方の祖父、つまり、紫式部にとって曽祖父にあたるのが、藤原兼輔である。

藤原兼輔は、「三十六歌仙」の1人に数えられるほどの和歌の名人で、従三位、中納言兼右衛門督まで昇進した。こんな作品を残して、小倉百人一首に選ばれている。

「みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ」

みかの原を湧き出て流れる泉川よ、その人をいつ見たといっては、恋しく思ってしまう。本当は一度たりとも見たこともないのに……。

紫式部は、この兼輔から伯父の為頼、そして父の為時へと受け継がれた邸宅で、生まれ育った。兼輔は「堤中納言」の名で知られたが、それは邸宅が鴨川の西側の堤防に接しており、「堤邸」と呼ばれたことに由来している。

紫式部は、兼輔が残した堤邸で、多感な青春時代を過ごしただけではなく、人生の大半を過ごした。父と同行した越前から戻ると、堤邸に夫の藤原宣孝を迎えて、娘の賢子を育てている。さらに、『源氏物語』を書いた場所も堤邸である。

紫式部が気に入った和歌

創作活動を行いながら、和歌で名を馳せた曽祖父のことを、堤邸でたびたび思い出したのだろう。兼輔が残した作品のなかでも、紫式部がとりわけ気に入ったのが、次の和歌だったようだ。

「人の親の心は闇にあらねども 子を思ふ道にまどひぬるかな」

子を持つ親の心は闇というわけではないが、子どものことになると道に迷ったようにうろたえるものですな……。

紫式部は『源氏物語』で曽祖父の歌を多く引用しており、この「人の親の心は……」が最も多く使われている。『源氏物語』が読み継がれることで、兼輔の歌も後世により広く知られることになった。これ以上の「曽祖父孝行」もないだろう。

そうして紫式部が受け継いだ和歌の才能は、さらに紫式部の娘、大弐三位(賢子)にも引き継がれていくことになる。

(つづく)

【参考文献】
山本利達校注『新潮日本古典集成〈新装版〉 紫式部日記 紫式部集』(新潮社)
倉本一宏編『現代語訳 小右記』(吉川弘文館)
笠原英彦『歴代天皇総覧 増補版 皇位はどう継承されたか』 (中公新書)
今井源衝『紫式部』(吉川弘文館)
倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社現代新書)
倉本一宏『敗者たちの平安王朝 皇位継承の闇』 (角川ソフィア文庫)
関幸彦『藤原道長と紫式部 「貴族道」と「女房」の平安王朝』 (朝日新書)
鈴木敏弘「摂関政治成立期の国家政策 : 花山天皇期の政権構造」(法政史学 50号)
真山知幸『偉人名言迷言事典』(笠間書院)

(真山 知幸 : 著述家)