日本人の肉食の歴史をたどります(写真:shige hattori/PIXTA)

寿司や天ぷら、蕎麦など、現代も食べられている料理が誕生した江戸時代。食文化が発展した時代でもありますが、肉食はタブー視されていました。しかし実際には、庶民から大名まで、さまざまな人が肉料理を楽しんでいたという記録も残っています。江戸時代の人たちは、いったいどのような肉を食べていたのでしょうか。

※本稿は安藤優一郎氏の新著『江戸時代はアンダーグラウンド』より、一部抜粋・再構成のうえお届けします。

肉食がタブー視されたのは「稲作」が影響

かつて、日本では肉食がタブー視された。殺生禁断を重視する仏教が日本人の生活や意識に深く根付いていたことが社会的背景として指摘されるが、仏教伝来自体はその契機ではない。

邪馬台国が取り上げられていることで知られる『魏志倭人伝』には、「倭人(日本人)は喪に服す間は肉を食べない」という記述がみられる。つまり、少なくとも仏教伝来より300年以上も前から、肉食はタブー視されていたということだ。

では、どのような理由から、肉食は忌避されたのか。一つには、仏教伝来以前より大陸から国内に伝わり、日本の代表的な農業となっていた、稲作との関係が指摘できる。

天武天皇4年(675)に、天武天皇は肉食禁止令を発している。仏教の影響だという指摘もあるが、禁令の対象は牛馬などに限られ、それまで日本人が食べてきた鹿や猪は除外された。これでは禁止する意味がないが、稲作への影響を鑑みると、目的が明らかになってくる。

この禁止令は、4〜9月までの期間、つまりは稲作期間に限定されたものだった。おそらく、動物の殺生が稲作の妨げ(穢れ)になる、という考え方が広まっていたのだろう。稲が無事に実ることは、古代国家にとって重要であった。

米は聖なる食べ物として敬われていた。天皇も稲の収穫を祝って新穀を神々に供え、そして自分も食することで翌年の豊穣を祈願する新嘗祭を執り行った。だからこそ、不必要な殺生を控えることが求められたと考えられる。言い換えると、稲作に支障がなければ肉食は許容されたということだ。

翻って江戸時代に入ると、米の収穫高を社会的価値の基準に据えた石高制社会が到来する。江戸時代は米がすべての価値の基準となっており、土地の評価額から武士の身上に至るまで米で表示された。

それゆえ、肉食をタブー視する風潮が強まるのは自然の勢いだったが、人々が肉をまったく食べなかったわけではない。というより、世俗化した江戸時代において、食のタブーは揺らぎつつあった。

江戸時代初期から鳥類は食の対象とされていたし、時代が下ると獣肉食も珍しくはなかった。これからみていくのはそうした、食に対する人々の本音である。

その数なんと18種類!バリエーション豊かな鳥肉

そもそも江戸時代において、鳥を食べるのは当たり前のことだった。江戸初期にあたる寛永20年(1643)に刊行された『料理物語』という本には、鴨・雉・鷺(さぎ)・鶉(うずら)・雲雀(ひばり)など、18種もの野鳥が取り上げられている。

現代では口にしない、様々な鳥が食用だったことがわかる。しかも調理法も多様だ。鴨の場合でみると、汁・刺身・なますなど15種類以上の料理法が紹介されている。

現在、鳥類のなかで最も食べられている鶏はどうかというと、卵を産む家畜として飼育されたこともあり、江戸初期の頃はあまり食べられなかった。鶏の鳴き声には太陽を呼び戻す力があると神聖視されたことも、大きかったようだ。

しかし、食用だった野鳥が乱獲されて鳥肉が不足すると、家畜用だった鶏も食用となっていく。『守貞謾稿』(もりさだまんこう)によれば、文化年間(1804〜18)以降、鶏肉は京都や大坂では「かしわ」と呼ばれ、葱鍋として食べられた。

江戸では「しゃも」という呼び名で食べられた。価格の安さもあり、庶民の間で鶏肉の人気は高かった。鶏の卵は高級品だったが、肉用に加えて採卵用の養鶏も盛んとなったことで、価格が低下していく。それに伴い、卵料理の数も一気に増える。

天明5年(1785)に刊行された『万宝料理秘密箱』(まんぼうりょうりひみつばこ)には、103種類もの卵料理が掲載された。同年刊行の『万宝料理献立集』でも掲載された料理の献立すべてに卵が挙げられており、卵料理の普及ぶりが窺える内容となっていた。


江戸時代の料理本に載る鳥の数々。右2行目の「第四 鳥の部」以降、鶴、白鳥、雁、鴨、雉などの名がみえる  出典:https://www.digital.archives.go.jp/img/1240055

庶民だけでなく、大名からも愛された鳥料理

ちなみに、鳥を食べたのは庶民ばかりではない。大名は、将軍から拝領した鶴の肉を食べることがあった。鷹を野山に放って鳥類を捕える鷹狩りは、将軍にとっては堅苦しい城内の生活から解放される貴重な機会。定期的に催され、捕獲した鶴は大名に下賜された。

長寿の象徴として珍重された鶴の料理は、最高級のおもてなしだった。鶴を拝領した各大名家では、宴席の場を設け、家中で共食(きょうしょく)することが義務付けられた。切り身で下賜された鶴はお吸い物の形で共食された。

共食とは、神への供え物を皆で飲食することである。神と人、および人と人の結び付きを強めようという儀礼的な食事だ。神事の終了後、お神酒(みき)や神饌(しんせん)を下ろして飲食する酒宴は直会(なおらい)と呼ばれるが、拝領鶴のお吸い物の共食はまさに直会のようなものであった。

将軍からの拝領品とは、いわば神様から下賜されたものとして取り扱うよう求められたわけである。将軍の存在を当該の大名の家中にも改めて周知させようという幕府の目論見も透けてくる。

肉食が盛んになった時代に食べられていた「山鯨」

江戸っ子の間では鶏肉が人気を呼び、大名の間では将軍から下賜された鶴の肉が食べられたが、鳥類はともかく四つ足の動物となると、食用は一般的ではなかった。肉食をタブー視する風潮が枷になったことは想像するにたやすい。


比丘尼橋周辺の江戸の絵。「山くじら」、すなわち獣肉食を出す店の看板が描かれている(歌川広重『名所江戸百景 びくにはし雪中』)出典:https://dl.ndl.go.jp/pid/1312350/1/1/

「薬食い」という用語がある。養生や病人の体力回復のため薬代わりに肉食する風習のことだが、この用語にしても肉食をタブー視する風潮への配慮が窺える。

だが、江戸後期にあたる19世紀に入ると、獣肉を調理して提供する店が増えはじめる。それだけ、鳥以外の獣肉が食べられるようになったからである。

『守貞謾稿』によれば、天保期(1830〜44)以降、肉食が盛んとなったという。獣肉を扱う料理屋の店先には「山鯨」(やまぐじら)という文字が書かれた行燈(あんどん)が掲げられたが、山鯨とは猪を指す言葉だった。

肉食をタブー視する風潮に配慮し、猪を山鯨と称して食べていたことがわかる。

随筆家の寺門静軒(てらかどせいけん)が書いた『江戸繁昌記』にも、猪などの獣肉を「山鯨」と称して食べることが天保期頃には盛んになったと記されている。

店内では、山鯨こと猪や鹿の肉に葱を加えて鍋で煮た料理が出された。幕末にあたる嘉永年間(1848〜54)以降は、琉球鍋と称されて豚肉も出されるようになる。

江戸で獣肉を扱う料理屋は、北関東の山間部から材料の獣肉を得ていた。農民たちは猪鍋を「牡丹鍋」、鹿鍋を「紅葉鍋」などと称して食べており、鳥肉以外の獣肉を食べることにあまり抵抗感はなかった。とりわけ山間部ではその狩猟も盛んだったことから、獣肉の供給源にもなったのである。

牛肉も江戸時代から食べられていた

明治に入ると、牛鍋屋が繁昌したことに象徴されるように、文明開化の時流を受けて欧米の食文化が日本人の間に広まる。よって、牛肉が食べられるようになったのは明治からという印象は今なお強いが、実は江戸時代から食べられていた。


江戸中期より、彦根藩井伊家では将軍や御三家、幕閣の要人に牛肉の味噌漬けを贈るのが習いとなっており、贈答先ではたいへん喜ばれた。

いわゆる近江牛である。高給品ではあったものの、将軍や大名の間ではすでに牛肉が食べられていた(原田信男『江戸の食生活』岩波書店)。

古来、日本は稲作や仏教との関係で肉食がタブー視された。そうした事情は江戸時代に入っても変わらなかったが、鳥は広く食べられ、時代が下るにつれて猪・鹿・豚・牛といった四つ足動物の肉も食べられるようになる。

こうした肉食の拡大は、泰平の世を背景に食生活を充実させたい人々の食欲がタブーを乗り越えていった過程に他ならなかった。

(安藤 優一郎 : 歴史家)