リーダーになるような人に教養教育は必修であるといえる理由とは(写真:ほんかお/PIXTA)

現在、学校のみならずビジネス社会においても「教養」がブームとなっている。そもそも「教養」とは何か。なぜ「教養」が必要なのか。

前回に続き、3万5000部のベストセラー『読書大全』の著者・堀内勉氏が、東大教授でAI研究の第一人者である松尾豊氏に「進化するAIと教養」をテーマに、「教養とは何か」「人はなぜ学ぶのか」についてインタビューを行った。

「文系・理系」分離の問題点

堀内:私も松尾さんもお互いに大学の教員でもありますが、いまの大学の教養教育について、どのように感じているでしょうか。東大の場合は他大学とは少し違っていて、1年生は全員が駒場の教養学部に入って、3年生から本郷と駒場に分かれて専門課程に入っていく。その中で、3、4年生でも教養学部という専門課程を選択できるという独特なシステムになっています。

松尾:もちろん専門をきちんと選ぶために視野を広げるという意味で、教養学部はあってもよいのですが、学ぶ順序が逆で、専門課程のあとに教養を学ぶほうがよいのかもしれません。専門の知識を持った後であれば、自身の専門と異なる世界や別の見方や考え方について学ぶことは、より意義があることになる。とりわけリーダーになるような人に教養教育は必修にすべきと言ってもよいでしょう。

現在の日本の大学の多くが1、2年生で教養を学ぶコースになっていますが、それだとどうしてもお勉強っぽくなってしまいます。社会に役立てるという意味では、博士課程を終えたあとくらいに、博士課程に進んでいない人も20代の後半くらいに、もう一度、教養的なものを学ぶべきだと考えます。

堀内:松尾さんは、ご自身が教養教育に関わろうというお気持ちはあるのでしょうか。

松尾:いま時点では、具体的にはないのですが、私の研究室でスタートアップ事業を行っていて、社会で何を目指すのかということについてきちんとした見識や考え方を持つ必要性は痛感しています。そこがしっかりしていないと、経済的な成功に満足して、そこで終わってしまうからです。

堀内:今の教育論の中で、「文系ってそもそも何なんだ」という議論があります。文系だからテクノロジーのことは知らなくても構わない、数学や物理や化学は学ばなくても構わないんだということでよいのかという声があがっています。

松尾:文系・理系に関しては持論があります。以前、リクルート社が行っている「スタディ・サプリ」と共同研究を行ったことがあるのですが、生徒がどのように学んでいるかをオンラインのログで分析したところ、勉強ができる子――「メタ認知学習者」と呼んでいましたが――は、自分が何をわかっていないかがわかるので、復習するときにピンポイントのその場所に飛べるのですね。そうすると、とても学習の効率が良く、それをシステムとしてサポートするということを行っていました。

その中で、理系科目と文系科目の違いで大変面白いことがわかりました。理系科目は教える内容の概念のネットワークが密で、都市のネットワークのように密接につながっている。一方、文系科目はムラのネットワークで、その世界の外とはあまりつながっていない。例を挙げれば、平安文学がわからなくても経済や法律を学ぶことに大きな問題は生じないといった感じです。

文系・理系人材の強みと弱み

松尾:ところが、理系科目の場合は、すべてが密につながっていて、ある概念を理解できないと、脳梗塞を起こしたときのようにその先のネットワークすべてがわからなくなってしまうのです。一度わからなくなるとメタ認知学習者でない限り戻れないため、そこから先が理解できなくなってしまうのですね。つまり、ほとんどの人が、理系科目ではどこかで脱落することになる。上のレベルに行くにつれて、ふるいにかけられるように脱落し、最後まで脱落しなかった人が理系で、脱落した人が文系になる。

つまり、途中で脱落した人をサポートするような双方向で教育の仕組みができていれば、もっと多くの人を理系に残すことができ、いまのように、明確に文系・理系に分ける必要もないはずなのです。テクノロジーが進む社会においては、急務の問題と思っています。

面白いのは、早くに脱落した文系の人間は、自分には不得意なものがあって、不得意なものを克服するには人の助けを借りなければいけないと早くから気づくので、何かを成し遂げるにはみんなで協力すること、チームの力が必要だと、社会で当たり前のことを早い時期から理解できていることが逆に強みになることです。

その結果、組織の中で活躍する人は文系人材が多くなる。逆に理系の人は、自分は全部わかるという、ある種の万能感を持っているため、社会に出て活躍しづらいという構造があると思っています。

ですから、数学や理科などについて、復習できる仕組みをきちんと作れば、文系の人でももっと理系の技術や理論について理解できるようになると思いますし、逆に、理系の人も自分の弱みを早くから理解する機会を作ることで、協力することや助け合うことの必要性を早くから知ることができ、社会で活躍する人がもっと増えるはずです。

堀内:いまのお話は目からうろこですね。文系科目と言われる学問、特に社会科学系は、まず現実に世の中の動きがあって、それに実際にどう対応するかということを考えていくものです。実社会の経験がない人が、こういった学問を勉強すると、頭の中だけでとんでもなくナンセンスなことを考えたり、理屈を重視しすぎて、とんでもない方向に行ってしまったりするリスクを感じています。

そういう意味で、理論だけで勉強できるものはできるだけ早いうちに学び、そうでないものはある程度年齢と経験を経てから学ぶ、さらにはもう一度大学に入り直して学び直すといったことをくり返していく必要があるのだと思います。

松尾:堀内さんのおっしゃるとおりで、大学もそのようにあるべきだと思います。現在の東大も可能性を秘めていると感じますが、まだ十分な役割を果たせてはいないと感じます。あまり言うと怒られてしまいそうですが、いまの大学の教員の多くはずっと大学の中で学んで、そのまま働いてきて、外の世界を知らない人たちということも大きいと思います。ただ、自己否定になってしまう面もありますので、実際にこれを変えていくことは難しいと思います。

私の研究室の場合は、学生が学びたいということで実際に学生らが起業することも多いですし、共同研究で企業の方との取り組みが非常に多いです。少しずつでもそういった形が大学内で広がってくるとよいと思います。

「知のエグゼクティブ・サロン」への想い

堀内:私が上智大学のプロフェッショナル・スタディーズで「知のエグゼクティブ・サロン」を立ち上げたのは、まさにそうした問題意識がありました。10年以上前に東大のEMP(エグゼクティブ・マネジメント・プログラム)を受講した際に東大の先生方と議論をしたところ、彼らの「知の力」に圧倒されました。生まれつき頭の良い人が同じことを20年、30年と研究していると、こんなにも知識が広く深くなるものかと感動したものです。ただその反面、彼らはこんなにも世の中のことを知らないのかということにも驚かされました。もう少し実社会のことを知って、学問と社会との関係を考え直す機会を持つべきなのではないか、そして、それは学問にとっても必ずプラスになるに違いないはずだと。

それで、学者もビジネスパーソンもともに学び合える場が必要であると思い「知のエグゼクティブ・サロン」を始めたのです。アリストテレスが、「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」と言っているように、本当に好奇心のある人であれば、学者だって実社会のことを知りたいと思うでしょうし、実社会で働いている人も人間の知の集積についてもっと知りたいと思うだろうということで、立場を超えてフラットに議論し合える場をつくりたかったのです。

松尾さんは、その原点には哲学への関心があって、「人間とは何か」や「この世界とは何か」といったことをずっと考えていたということですが、私は教養とは、ソクラテスが言ったように、自分が「どう善く生きるか」ということにすごく関係していると思っています。

さらに、自分という概念をもう少し拡張して考えていくと、自分を取り巻く環境、それを社会または世界と呼んでもよいですが、自分を含むもっと大きな範囲がどのようにより良い姿になっていくのか……そういったことを考える一つの手段が教養だと思っています。松尾さんは教養と社会の関係をどのように考えていますか。

松尾:私は、リーダーが意思決定するために必要なものが教養だと思っていますので、そういう意味では、教養とは実践知に近いもので、そこから離れてしまうとただの物知りということになってしまいます。やはり、いまの時代に大事な意思決定をしていくためには、ものごとの見方を広げ、歴史や他人の経験から学ぶ必要性がある。そこからもう少し広げて、そういった意思決定も含めて、自分の生き方をより善くするためにも教養が必要ということになると思います。

堀内:さきほどお尋ねした、個人とそれを取り巻く社会との関係についてはどう捉えていますでしょうか。たとえば、自分と日本という国を完全に同一視してしまって、日本がサッカーの試合に勝てばそれだけで幸せ、相手の国のことなんかどうでもよいみたいな人たちもいます。また、自分の幸せはどこにあるのかよくわからなくて、会社と自分のアイデンティティを一体化してしまうような人もいます。このような極端な例は別にしても、そうはいってもやはり社会が良くならなければ、自分だって幸せにはなれないという考えもあると思います。

松尾:先日、堀内さんがお住まいの軽井沢にうかがった際に、このような高尚な議論をしている堀内さんが、最近建てた高級別荘をいくらで売ろうと思っているとか、シンガポールの富裕層にだったら何億円くらいで売れるとかいう話を真剣にされていて、大変面白いなと感じました。地に足がついているというか。

私の研究についても、研究の成果を社会に還元する世俗的な部分と、それをもっと俯瞰して社会全体をより良くしていくという両面がないといけないと思っています。抽象論や高尚な議論ばかりしていても視野が狭い人間になってしまうので、自分と社会についても「多層的」な関わりを持つことが大切です。教養は広く社会の全体を捉えるうえで重要であり、それが日常的な活動の方向を示すものになっていくのでしょう。

堀内:メタ認知ということも含めて、多面的・多層的にものを見る力、ということですね。

松尾:同時に実践のほうも多面的・多層的なほうが良いと考えています。おそらく同じ職場でずっと勤めている人は多面的・多層的ではないので、教養だけ身につけても活かす場が少ないのかもしれません。

リーダーになる人にこそ教養が必要

堀内:日本の組織にいて変に勉強すると、妙に理屈っぽい奴だと思われてしまうリスクがあります(笑)。さきほど、別荘プロジェクトの話をされていましたが、私も自分が面白いと思うことをやっているだけで、何か明確な理屈があって行動しているわけではないんです。さきほど、アリストテレスのところで言いましたが、自分の知的好奇心に導かれて生きているようなところがあって、それがどうして面白いのかを人に説明してみてもあまり意味はなくて、それ自体を楽しんでいるんです。まさに人間には自分でさえわからないような多面的・多層的なところがあって、それでも自分の中では何か全体がつながっている気がしています。

最後に、あらためて、松尾さんにとって教養とは何かを、お聞かせいただけますか。

松尾:先に少し触れましたが、「教養」とは、ものごとの見方を高めてくれ、正しい結論を導くための意思決定に必要なものだと思っています。

意思決定というのは、数が多い事象については経験して学ぶ、つまり「トライ&エラー」でもよいのですが、政治や経営における意思決定のように、失敗が許されない、自身の経験から学ぶことができないケースの場合、歴史や自分以外の経験から学ぶ必要が出てきます。そのために、とりわけリーダーになる人にとっては、教養を学ぶ、教養を高めることが必要になるのではないでしょうか。

堀内:本日は数多くの貴重なお話をありがとうございました。

(構成・文:中島はるな)

(松尾 豊 : 東京大学教授)
( 堀内 勉 : 多摩大学大学院経営情報学研究科教授)