前回:朝6時に目が覚めると、自分の家ではないことに慌てた34歳女性。物音がする方向に行くと…



「大ちゃん…オレ エロいお姉さんとの下ネタが楽しみで来たんだけど」
「勇太…京子さんをエロいお姉さんとか言うな」
「可愛すぎて手を出せなかったとか…大ちゃんがキモイからでしょ」

大輝は親友である勇太を、京子が帰った後に自分の家に呼び出した。そして勇太は今、かれこれもう一時間以上も、事の顛末と彼女への想いを大輝から熱弁されている。

「10歳年上のキレイなお姉さんって確かにそそるけどさ…オレ、今朝までバイト入ってたの知ってるだろ…」

1回寝かせてとソファに横になり目を閉じても、大輝は構わず話し続ける。人の好い勇太は寝たふりしてごまかすこともできず、あーもう!と頭を掻いて起き上がった。

「オレが初めて京子さんって呼んだ時、フリーズして目をぱちぱちさせてかわいかったなぁ。いつもはクールでビシッとした女性が崩れた感じのあの何とも言えないかわいさ。勇太、わかるだろ?あーやっぱあの時、抱きしめちゃえばよかった」

その時の、目をぱちぱち、とやらを思い浮かべているのだろう。京子の代わりとばかりにソファのクッションをぎゅっと抱きしめた大輝の顔がだらしなくゆるむ…ゆるんだはずなのにそのだらしない顔さえイケメンで勇太はムカついてきた。

勝手知ったる親友の家。これは長期戦になると判断した勇太はソファから立ち上がり、冷蔵庫をあさる。プリンとシュークリームを見つけて、大輝は甘いものを食べないのにと不思議に思いながら戻った。

すると大輝が、あ…それ京子さんのために朝コンビニで買ってきたやつ。テンション上がりすぎて出しそびれちゃったな…とまたうっとりと思考を飛ばしたものだから、勇太はさらに萎え、乱暴にシュークリームの袋を開けてその大きな口にほうりこんだ。

むしゃむしゃと飲み込みながら、このシュークリームみたいに親友の危険な恋も溶けて消えてしまえばいいのにと思う。

「どんなにかわいくても人妻じゃん。騙されて痛い目見る前にやめとけ、に100万点」
「騙されてもいいと思う程好きだからやめられない、に200万点」
「…大ちゃん。オレふざけてるけど本気で止めてるよ」
「わかってるよ。でも2年間も振り向いてもらえなかったんだからさ。オレ今、めちゃくちゃ幸せなんだ。今日だけでも許してよ」

こうなった大輝はもう止まらないし加速する。それを知っている勇太は、この恋愛バカを守るためにはどうすればいいのかとため息をついた。

相手にとことん尽くしてしまう極度の恋愛体質。でもいつも報われない。それが大輝だった。イケメン・金持ち・優しい…その他もろもろ。世の好条件の全てを持ち合わせているはずな大輝の、ただ恋だけが上手くいかないということを、勇太は常々不憫に思っていた。


一方の京子は・・・



― 今日も帰ってきてない。

午前7時半。広尾の大輝のマンションから逃げるように帰宅してきた京子は、朝帰りをとがめられたら…という恐れを抱えて入った部屋のどこにも夫の崇がいないことに、ほっとしたというよりも落胆した。

― カドくんに会いたい。カドくんと話したい。

こんなに強く崇の存在を求めるのはいつぶりだろうかと京子は思った。感情の起伏が弱い人生を歩んできた京子にとって、どう扱えばいいのか、戸惑い持て余す程の強い感情だった。

長坂美里は…不意打ちながら静かに現れた。不倫相手の妻との対面という言葉から想像する激しさはまるでなかった。そのせいなのか京子は闘う姿勢をとるタイミングを逃してしまい…手紙を読んでもらえたでしょうかと聞かれると、あっさり素直に頷いてしまっていた。

ただの文字でしかなかった≪長坂美里≫が実体化した衝撃で、鼓動が痛いくらいに速くなり、のどが渇く。

立ち話で話を始めようとした美里を、どこか落ち着く場所で、とカフェを提案したのは京子だった。美里はすぐに同意した。

「私、ずっとキョウコ先生のファンだったんです」

並んで歩きながら、美里は会えてうれしい、話ができてうれしいと喜びの言葉を繰り返した。さほど有名ではない作品の目立たぬセリフまで覚えていて、その魅力を語り続ける美里の方を、京子は1度も見ることができないままカフェに着いた。

大学から歩いて12、3分のところにあるカフェ。学生たちが利用する駅とは逆の方向にあるからか、いつも客が少ない。京子は授業の前に何度か利用したことがあったが、一度も知り合いに会ったことはなかった。




席に案内してくれた店員に飲めそうにもないコーヒーを頼む。京子の対面に座り、私も同じものでと言った美里を、京子は今日はじめて…自分を奮い立たせて直視した。

年齢は25歳前後だろうか。

艶のある黒髪は1つにまとめられていて、厚めの前髪は眉の上でキレイにそろえられている。青みの強い白い肌で頬はほんのりと上気している。目は二重だが殊更に大きいとかの目立った印象はない。常にほほ笑んでいる唇には、薄く淡い色の口紅がキレイに塗られている。

骨格の小さな顔にそれぞれのパーツがバランス良く配置されていて、瑞々しさはあるが、とびきりの美人とか個性的とかいうジャンルではない。脚本に書くとしたら…ごく普通のどこにでもいると表現されるキャラクターの顔だろう。

映像にするための文字を書く。それが脚本家の仕事。その仕事柄、京子には普段から、目の前の事象を文字化しがち…という癖がある。その自分の癖が、冷静になる必要がある時には役立つ癖であることを京子は知っていた。

「手紙、読んでもらえたんですね」

先に口を開いたのは美里だった。手紙のことを聞くなら自分からだと思っていた京子は不意をつかれた形になったが、平静を装う。

「事務所に私宛に届いたのだから当然そうなると思いますが」
「はい。でもキョウコ先生に手紙を送るって私にとっては神に送る手紙のようなもので。万年筆もそのために買いましたし、文章にも失礼なく…とか、あ、もちろん便箋も封筒もいいものを選びましたし、何度も何度も書き直したので。読んでもらえて本当にうれしいです」
「…なぜわざわざ手紙に?メールやSNSの方が簡単でしょう?」
「神様にお願いをするのに、簡単な方法を選ぶなんてできません!」

美里は、そんな当然のこともわからないんですか?とでも言いたげなキョトンとした表情をしている。

― この子の言動はとても不思議。

突然の登場という不意打ちの衝撃が少し和らぎ、京子はようやく冷静に考えられるようになっていた。話を立て直し、論点を整理しなければ。京子は静かに切り出した。


「まず聞きたいのは、なぜ今日私に会いに来たのかということなんです」

美里は、そっか、まずそこですよね、ごめんなさい、と言って続けた。

「手紙を読んでもらえたのかなって心配になって。崇さんに聞いても答えてくれないから」
「…夫と話したのですか?」
「はい、手紙を送ってから何度か、キョウコ先生手紙読んでくれたかな、崇さん知ってる?って聞いても曖昧な返事しか返ってこなくて。今日の朝も聞いたんですけど…またはっきりしなかったから、先生の授業の時間を調べて会いに来ちゃいました」
「今日の朝って…夫は今朝あなたにあったのですか?」
「崇さん私の家にいましたから。キョウコさんとの家には帰ってませんよね?2日前から」

今日は撮影だからって朝5時くらいに出て行きましたけど、と無邪気に笑う美里から目が離せないまま、京子は座っているのに足の力が抜けていくのを感じていた。

― 崇はこの子の家にいる…?

ダメ。崇の話を聞くまでは美里の言葉を鵜呑みにしてはいけない。真実は登場人物の数だけあるはずなのだから。京子はそう自分に言い聞かせると、あの日の崇の言葉を思い出そうとした。

あの夜。私が手紙について聞いた夜。崇は美里との関係について何と言ったか。関係を持ったことは認めた。その上でこう言ったのだ。

「でもオレは、美里ちゃんとの子どもを欲しいと言ったことは一度もない」

それを思い出しながら京子は言葉を選んだ。

「あなたの手紙には、離婚して欲しい、崇との子どもが欲しいと書いてありましたね。でも崇はあなたとの子どもを欲しいと言ったことはないとはっきり言いました。そして」

≪オレの一番がキョウちゃんっていうのは、ずっと変わらない。それは絶対に≫

崇の言葉を…彼が一番に思っているのは自分だと美里に告げた。

「もしもあなたと夫が少しでも関係を持ったのなら…彼がまっすぐに言葉を紡ぐ人であることはわかるはずです。彼の言葉は信じられる。もちろん私も…信じています」

すると。美里は意外だなぁ、と砕けた表情になった。




「キョウコ先生って崇さんに執着がないというか…興味がないのかと思っていたんですけど、そうでもないんですね。あ、でも安心してください。私、崇さんの一番がキョウコ先生だってことは知ってます。むしろそんな2人の作品がずっと大好きだったわけだし」

でも…と美里の笑顔が崩れ、その目から涙がこぼれた。そして、私にも、崇さんが言ってくれた言葉があるんです、と言って続けた。

「崇さん私に言ってくれたんです。

生活の心配をせずに、美里ちゃんは好きな世界に没頭してほしい。オレ、美里ちゃんの作る世界が本当に好きだからサポートするよ、って」

京子の視界が揺れた。まるで突然揺れのひどい船に乗せられてしまったかのように。目の奥が鈍痛で滲み、のどの奥からも不快感がこみ上げてくる。

崇が美里に言ったというその言葉は…京子にとって、大切な、大切な言葉だった。


「オレが稼ぐから、生活の心配をせずに、キョウちゃんは好きな世界に没頭してほしい。オレ、キョウちゃんの書く世界が本当に好きだから、一生そばで支えたい。結婚してください」

プロポーズの言葉。京子が胸を打たれ、一生の宝物となった崇の言葉。ずっと大切にしてきたその言葉を。

― この子にも言った…?

「実は、私も映画を作っていて。崇さんとはワークショップの講師と生徒として出会ったんですけど…」

美里の声がどんどん遠くなり、指先から一気に血の気が引いていく。目の前が暗くなり倒れそうになり…美里の前で失態をみせることだけは避けたいと、京子はその場から逃げだしてしまったのだ。



― 気づいたら生徒の家だなんて。

大輝の家から戻って一時間程たっても、京子は全く落ち着けずにいた。体は重く疲れはひどい。ベッドに入ってみたりもしたけれど、思考が邪魔をし目はさえるばかりで京子は眠ることをあきらめ、シャワーを浴びることにした。

湯船につかりながら大輝の言葉を思い出した。

「残念ですが、まだ僕たち何もしてません」

大輝の家にいるのは、どうしても家に帰りたくないと京子が騒いだからだ、と説明された。

甘いものが食べたいとコンビニに寄り、買って帰ったショートケーキを食べながら京子はうとうとし始めたらしい。スーツがシワになるからとスウェットを借り、バスルームで着替えたところまでは自力で、着替えた後ソファで眠り始めた京子をベッドに運んでくれたのは大輝らしい。

京子さんと呼ぶことを許可したということも、もちろん記憶にない。京子は大きなため息をつく。

― 私、何やってるんだろう。

京子は後悔していた。大輝の家を出てタクシーに乗った時、真っ先に頭に浮かんだこと。それは。




― もし、カドくんが帰ってきてたら、なんて言い訳しよう。

ということだった。

夫に自分の朝帰りを知られたくない。違う男のベッドで寝たとばれることのが怖い。そして気づいてしまった。

― 私は、カドくんを失いたくないんだ。

京子がずっと大切にしてきた言葉を、美里にも言ったと聞いた時、逃げ出してしまう程のショックを受けてしまったのも。

― 私が、カドくんの唯一無二でありたいからだ。

この状況でその思いが明確になるなんて…と自虐的な笑いを浮かながら、京子は湯船から上がった。パジャマに着替えてから携帯を手にとるとLINEがきていた。

≪無事に帰れましたか?今日はゆっくり寝てくださいね≫

大輝からのLINEだった。IDを交換した記憶はないけれど、おそらくこれも酔いの仕業だろう。京子はそのラインに返事をせぬまま、崇に電話をかけた。

▶前回:朝6時に目が覚めると、自分の家ではないことに慌てた34歳女性。物音がする方向に行くと…

▶1話目はこちら:24歳の美男子が溺れた、34歳の人妻。ベッドで腕の中に彼女を入れるだけで幸せで…

次回は、3月9日 土曜更新予定!