前回:「東京での成功に、ものすごく憧れていた…」27歳女性が男の苦労話に涙した理由



「タカラ、チームの作業分担についての資料をメールしておいたから、午後の会議までに読んでおいてもらえる?」

弾丸パリ旅行の翌日。出勤した私のデスクにきて、流暢な日本語でそう言ったのはアメリカ人の上司のクレア。私の会社はアメリカに本社がある製薬会社で、クレアは1年前に本社から赴任してきた女性だ。

最初の挨拶の時に、ファーストネームで呼んでほしいと指示されて以来、会話は日本語で敬語は使いながらも、クレアと呼ばせてもらっている。

私はクレアがまとめる30人程のチームの1人で、会計処理・仕訳入力や勘定科目の管理・経費精算など日常的な会計業務の他に、時によっては組織内でのコンプライアンス推進などについての業務も手伝っている。

「休暇はどうだった?パリに行ったんだっけ?」
「決算前の大変な時期に休ませてもらって、すみ…ありがとうございました」
「ワオ。タカラがすみませんをありがとうに言いかえるなんて。Good for you!」

そうよ、休暇は当然の権利なんだから謝っちゃだめ、とクレアは笑った。今までそんなに気にしていなかったけれど、確かに、クレアにも何度か“宝が謝るところじゃない”と言われたことがある気がする。

「何か…日本語で何て言うんだっけ…。Umm…oh,シンキョウ?シンキョウノへンカ?が起こる何かがあったのかな?」

そう言って立ち去っていくクレアを見送りながら、その“シンキョウノヘンカ”を起こしてくれた人…雄大さんへの失言を思い出してしまった。

「雄大さんと愛さんって…やっぱり、ラブな関係なのかな?」

人生で失言なんて一度もしたことがない私が、心の声をうっかり漏らすなんて。今思うとパリでの私は相当浮かれていたのかもしれない。


「…は?」
「雄大さん、宝ちゃんが質問してるよ?答えてあげなよ」
「大輝…笑ってんじゃねえよ」

雄大さんの大きなため息(しかも2回)は私を硬直させるには十分だった。

「…ちょっとその…あの、ごめ…」

ごめんなさいと言いかけて、あ、簡単に謝っちゃダメだった。いや、でも今は謝るべき時なのかと正解の言葉を探しているうちに、雄大さんが言った。

「意外に詮索したい人なんだね、宝ちゃんって」

― うう、ごめんなさい。そんなつもりは…。

「宝ちゃんナイスだよ。俺も聞きたいもん。そういえばちゃんと聞いたことないよね、雄大さんからは」
「…大輝お前、実は結構酔っぱらってるだろ」

恋バナ大好きだもん、とフワフワと笑う大輝くんの様子は確かにいつもと違う気がする。愛のペースに合わせて飲むなよとため息をついた雄大さんは、ワインの空き瓶を2本、3本と片付けたあと、お前はもう寝なさいと大輝くんを部屋に無理やり連れて行った。

スーッ、スーッと愛さんの寝息が、1人になったリビングに規則正しく響いている。

― 今のうちに逃げる?

このまま部屋に戻って、無かったことに?でも、黙っていなくなるのも失礼だよね…と迷っているうちに、気がついたら遠くで聞こえていた大輝くんの笑い声がおさまっていて、雄大さんが戻ってきてしまった。

「さて」
「…さて?」
「オレと愛が…ラブ?な関係なのかどうかだっけ?」
「…」




めんどくさ…とつぶやいた雄大さんは、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、ダイニングテーブルの椅子に座り私に手招きをした。逃げるわけにもいかず、私は寝ている愛さんを起こさぬよう、そのソファの横を通り過ぎ、雄大さんの正面に座る。

「そもそも、ラブな関係って表現、かなりダサくない?」
「…確かに。でも違うんです!」
「…何が違うの?」
「いや、違わないんですけど…その…さっきのブランケットの掛け方とか、2人のコミュニケーションがなんか親密…というか色っぽく見えることが何度かあって…それで、ラブな関係、なんて陳腐な発想になってしまいまして…」

自分でもわかる程しどろもどろになった私に、雄大さんは、例えばいつのこと?と聞いた。もう正直に吐き出すしかない。

初対面の日の、愛さんの体の預け方、その体を抱いた雄大さんの受け止め方がなんとも色っぽくてドキドキしたから…と言うと、雄大さんは水を飲みながら呆れた笑い…いわゆる鼻で笑うってやつをして、それだけ?と言った。

「…違い、ました…?」
「それだけ見てそう思ったなら、鋭いね」
「…え?」
「もう、これ以上色々詮索されるのも面倒だからいいや」
「…」
「オレと愛は、最初は男女の関係でした。つまり付き合ってた…かな」
「ウソ!?」
「なに、これが聞きたかったんじゃないの?」

聞きたかった。でもこんなにあっさり答えてもらえるとは。

「始まりは男と女。で、今は完全なる友情。ってことでOK?」
「いや、OKというか…」
「ま、納得できなくても、もう話すことないので」

そう言うと立ち上がり、リビングを出て行こうとした雄大さんがちらりと愛さんの方を見た。そして小さなため息をつき、こんなに寝相悪かったっけ…?とつぶやきながら、愛さんに近づいた。そしてそのブランケットをもう一度直すと、部屋を出て行った。



翌朝。私が起きた時には、すでに雄大さんはいなかった。

ロンドンに寄って日本に帰るという雄大さんは、早くにアパルトマンを出たらしい。私たち…残りの3人は今日の夕方にシャルル・ド・ゴール空港を発つ同じ便で日本に戻ることになっていた。

それまで買い物をしようということになり、愛さんと大輝くんは、ケンカをしたことなどまるで存在しなかったように、私をどこに連れて行くのがよいかを話し合ってくれている。

まずはアパルトマンの近くにある、日本人マダムが経営するというチーズのお店へ。200種類以上の様々なチーズの中から、私は試食して気に入った柚子入りのクリームチーズと唐辛子が練りこまれたハードチーズを、真空パックにしてもらった。

次は、日本でも人気の高いハンドメイドの陶器ブランド、Astier de Villatteへ。友香のおすすめリストにも載っていた店。その後老舗デパートのギャラリーラファイエットに向かった。

巨大なステンドグラスの丸天井が美しくて見惚れる。食品売り場で2人に勧めてもらったチョコレートをいくつかお土産用に買い、パリの街が一望できる屋上へ行き、3人で写真を撮った。

「じゃあ、次は私に付き合って!」

そう言った愛さんがパリに来ると必ず行くという場所…それはランジェリーショップだった。中でもお気に入りだという3軒を回ったのだけれど、手頃な日本ブランドを愛用している私にとっては全く異次元の、下着とは思えない値段の店ばかりだった。

「愛さんにとって、自分への最高のご褒美はランジェリーなんだって」

そう教えてくれたのが大輝くんだったものだから、私は無駄にドキドキしてしまった。その上、大輝くんはさも当然のごとく色っぽい店内に同行し、商品を手にとり、店員と談笑したりしている。

― こんなに堂々と…下着の店をエンジョイできる男の子っているんだ。


男性と一緒に下着を選んだ経験などない私は、なんだかソワソワしてしまうが、店内にはカップルの客も多く、愛さんも全く気にしていないようだった。

愛さんが選ぶ下着は、もうイメージ通りというか、美しいけれど、どうやってつけるの!?という、パットが無い&透け透けレースのブラジャー(三角ブラというらしい)やショーツ、黒レースのボディースーツや、シルクのキャミソールドレスなどで。

「私が私のテンションを上げるための下着なんだから、男の好みなんてどうでもいい」

そう言い切るのが愛さんらしい。店内には50、60代であろう、フランス人マダムも多くて、彼女たちも愛さんと同じ気持ちで下着を選んでいるのかな、と思ったりした。

宝ちゃんのサイズは?気にいったのがあれば試着してみようよ!と言われても、店内の華やかなラインナップに怖気づいてしまい、私は首を激しく横に振った。

愛さんは、豪快なスピードで試着を繰り返し購入品を決めた。その会計を待つ間に、大輝くんが言った。

「宝ちゃん、このブランド《オーバドゥ》っていうらしいんだけど…オーバドゥ、って愛する人と夜を過ごした翌朝に《恋人を恋しく思う朝の詩》からきてるんだって。夜を過ごした恋人たちをイメージしたランジェリーなんて…めちゃくちゃ良くない?エモくない?」

― あ、絶対《キョウコさん》のこと思い出しちゃってる。

「大輝。今、自分の彼女のことを思い出されてもキモイ。そのうっとり顔、エモいというよりキモイよ。めちゃくちゃキモイ。ほら見て宝ちゃんの顔。フリーズしちゃってるじゃん」

「愛さんひどい。宝ちゃんはそんなこと思ってないよね」と大輝くんに聞かれたけれど、「ごめん…正直、ちょっと気持ち悪かったかも…」と正直に言ってしまった。

それでも「オレもお土産に買って行こうかな…」とめげない大輝くんに、付き合って間もない男に下着もらうの気持ち悪いよ、と愛さんが突っ込む。

愛さんにとって許せないはずの不倫の恋。それでもなんだかんだとお土産の相談にのってあげている、その愛さんの優しさに、2人の友情の深さを感じてほほえましくなった。

ランジェリーを満喫した後、直接空港へ。タクシーを呼んだ大輝くんが私のためにと、エッフェル塔の傍を通るルートを設定してくれて、密かに心残りだったエッフェル塔も至近距離でバッチリ見ることができた。

こうして弾丸パリ旅行は終わった。昨日の午後羽田に到着し、私は今日から日常に戻っている。今日2本目の会議が終わり、その会議室を出る時、クレアに呼び止められた。




「タカラ、ヒアリングの希望日時の提出、明後日締め切りだからよろしくね」
「はい」
「タカラもそろそろ本気でキャリアップを考えてみたら?」

― キャリアアップ。

それはこれまでにも、何度かクレアに言われてきたこと。クレアの言うヒアリングとは3ヶ月に1度、クレアと部下との間で行われるもので、異動したい希望部署はないか、今後の目標設定は?などを聞かれるいわゆる人事に関係する面接のことだ。

クレアからは、タカラは真面目でミスもないし、丁寧で信頼できる。でも、将来どうしたいのかというビジョンは全く見えてこない、と毎回指摘を受けている。

― 将来の目標って…どうやったら見つけられるんだろう。


実は就職活動をするとき、これがやりたい!という仕事を見つけられなかった。それが自分のコンプレックスになっていることを私は自覚している。

第一希望だった翻訳小説に強い中堅出版社に落ちた後、父に勧められるままに受けた地元福岡の広告代理店や銀行にも落ち続け、もともと面接が得意ではないこともあって、就職活動そのものが苦痛になってきていた。

ちょうどその頃、たまたま再会した大学のゼミの先輩が、今働いている製薬会社のMRだった。その先輩に事務職としての応募を勧められた。

製薬会社なんて考えたこともなかったのに、どこかに就職しなければ周りに取り残されるという焦りから試験を受けた。すると幸いにも入社できてしまったのだ。

入ってみると、仕事は向いていた。私の大学での専攻は英文学。ずっと文系ではあったけれど、数字は昔から苦手ではなく、英語の読み書きも完璧だとは言えずとも好き。英文の文書に難しい専門用語があっても翻訳ソフトにも頼れば、十分に対応できる。




でも入社5年目になった今でも、この会社でキャリアアップするイメージがわかず、財務や税務の資格を取ることにもポジティブになれずにいた。

もうすぐ28歳になるのに…と少し情けなくなりながら歩いていると、肩をたたかれ振り向いた。

― げ…。

「久しぶり。元気だった?」

振り向いたことを後悔した。満島祥吾。私が、この会社に入るきっかけになった大学の先輩であり、浮気した元カレだ。別れを告げたのは彼の方なのに、会う度少しも悪びれず話しかけてくるのだから神経を疑うどころの話ではない。

「お疲れ様です」

完全無視ができない自分の性格が憎い。挨拶だけを口にし、もう一度背を向け歩き出したのに、有休とってたんだって?と笑顔で並んできた。

流石、社内評価の高い売れっ子MRはハートが強くていらっしゃる。ひとでなし、クズ、無神経のクソ男、と心の中で思いつく限りの悪態をつく。

「話したい事あって、昨日も宝の席に行ったんだけどさ。有給で休んでるっていうから」
「…」
「珍しいよね、宝が金曜日から月曜日まで休むって。どこ行ってたの?」
「…」

勘弁してほしい。この男の声を、気配を、至近距離で感じるだけで…必死にごまかしてきた…治ったふりをしていた傷口から血が噴き出してきそうで怖いのだ。

「あの…さ。今日夜、飯食わない?宝の好きそうな九州居酒屋見つけてさ」

悔しい。未だにこんなに動揺されられるのが悔しい。悔し過ぎて、鼻の奥がツンとしてその条件反射で涙が浮かびそうになる。

― やばい、このままじゃ…。

絶対泣きたくない。泣いたらこの男は…私が自分に未練があるのだと、ありえない勘違いをするだろう。それは死んでも嫌だと唇をかみしめた時、ポケットに入れていた携帯が鳴った。

『お疲れさま。仕事頑張ってる?昨日までパリで一緒にいたのに…とは思ったんだけど、今夜空いてない?約束のデートのお誘いです』

大輝くんからだった。

― 神様!仏様!大輝様!!!!

私は勢いよく、その大輝くんからのLINE画面を、祥吾の顔の前に突き付けた。

「今夜は…デ、デートなので!」

祥吾が固まり、その視線がLINEの全文を読んだことを確認してから、私は、世界で一番ムカつく男を置き去りにした。

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▶1話目はこちら:27歳の総合職女子。武蔵小金井から、港区西麻布に引っ越した理由とは…

次回は、3月9日 土曜更新予定!