◆これまでのあらすじ
自宅マンションを売却に出している藤田真弓。元カレ・修平と内緒で関わりを持っていたことが夫にバレて、別居状態に。マンションの売却先は無事に見つかり、契約を締結するが…。

▶前回:港区在住の建築家と再婚した女。シアタールーム付きの新居が、スピード離婚の引き金に…




Vol.15 そして次の家は…


「お待たせしました。無事に契約書の確認が終わりました」

自宅の売買契約締結の日。

書類への押印を終えて、買主の結崎さんと話していたところへ、書類チェックを終えた新堂さんが戻ってきた。

「このあと、結崎さまの仲介担当も同席し、少し打ち合わせを行います。藤田さまは本日の手続きは以上ですので、お帰りいただいて大丈夫です」

「わかりました。本日はどうもありがとうございました」

丁寧に頭を下げ、外に出る。

スマホを確認すると、雄介から連絡が来ていた。

『雄介:家、売れるんだ。よかったね。今後のことも話したいし、近いうちに一度会える?』

直前のやりとりまで敬語だったのが、カジュアルな口調になっていたので少し安心した。すぐに『今日このあと、いつでも会えるよ』と返信する。

雄介も今日は何も予定がないと言うので、午後に会うことになった。

― 今の気持ちをきちんと伝えたら…きっと、雄介は理解してくれるよね。

彼の気持ちに寄り添えていなかったと気づいたこと。

これからは彼を信頼して、何事も話し合いながら決めていきたいと思っていること。

何より、彼のことをまだ好きだということ…。

「大丈夫、きっと大丈夫…」

言い聞かせるように、声に出してみる。心臓がどくどくと音を立てて、落ち着かなかった。




待ち合わせたのは、インターコンチネンタルホテル 東京ベイ内の『ニューヨークラウンジ』。

大門にある自宅から近いので、時々2人で来たものだ。ニューヨークスタイルのハンバーガーやサンドイッチは絶品だし、季節のパフェやアフタヌーンティーは見た目も楽しく、思い返せば幸せな思い出のつきない場所だった。

けれど、今は…。

踏み入れた瞬間に、少し足がすくんだ。華やかな調度品にゴージャスなシャンデリア、重厚感のあるファニチャーは心を弾ませるというよりも、緊張をかき立てる。

― 今日が、彼との最後の会話になったらどうしよう。

恐怖が体中を侵食し、足が進まない。

「真弓!」

声がして、顔を上げた。広々としたソファ席から、彼が手を振っている。

「雄介…」

笑顔でも怒っている様子でもなく、彼は至って自然だった。あまりに自然すぎて、拍子抜けするくらいだ。

― もしかしたら、元に戻れる…?

冷静にならなければと思いつつも、胸にふくらむ期待感を抑えることができない。

私は足早に、彼のもとへ向かった。




「この1ヶ月、真弓はどうしてたの。元気だった?」

2人分のホットコーヒーを注文すると、雄介は穏やかな表情で私に尋ねた。

朝から契約手続きで気を張っていたので、正直少しお腹が空いていたけれど…内容が内容なだけに「食べながら話す」という感じでもないのかもしれない。

「変わりないよ。仕事して、時々ミズホたちと会ってって感じかな。家も、値下げは少ししたけど、買ってくれる人が見つかってね…」

家の売却についても状況を話すと、雄介は黙ってうなずきながら聞いている。

「雄介は元気にしてた?実家に戻ってたんだよね」

「うん、実家にいた。久しぶりに長く帰省したんでおふくろも喜んでたし、まあボチボチやってたかな」

「そっか…」

そう返した時、ちょうどコーヒーが運ばれてきた。なんとなく会話が途切れたので、お互いにカップを口につける。

微妙な沈黙が流れた。

「…今後のことなんだけどさ」

「うん…」

このぎこちない空気に、私は雄介が何を言いたいか、なんとなく気づいていた。

― その先を、言わないで。

カップの中のくろぐろとした液体に映る自分の顔を見つめながら、こぼれ落ちそうな涙を必死でこらえる。

「俺たち…やっぱり、難しいような気がしてるんだ」

― …やっぱり。

ズキン、と胸の奥が痛んだ。しかし雄介は表情を変えずに話し続けている。

「正直まだ真弓のことは好きだし、やり直せるならやり直したい。だから、俺の中でスッキリと『よし、離婚だ』って割り切ってるわけじゃないんだけど」

「あ…そう、なんだね」

内心、少しホッとする。すっぱりと「離婚しよう」と言われるような気がしていたから。

けれど…私が安心している反面、雄介の表情は見たこともないくらいに暗い。苦しそう、と言った方が良いのかもしれない。




「1つだけハッキリしていることがあって。それは…今の俺と真弓との信頼関係の中で『子どもをもうける』っていうのはすごくリスクがある行為だ、ってこと」

私は、耳を傾けるほかない。

「俺は、真弓から信頼されていなかったと知って、すごくショックだったし、それによって、自分の真弓に対する信頼も崩れてしまった。こんな状態で妊活しても、生まれてきた子どもを不幸にしてしまう気がするんだ」

夫婦関係を続けていつか子どもをもうけるとしても、まずはお互いの信頼関係を築き直さないといけない。雄介は、そう話してくれた。

「ただ、それには時間が要る。真弓が子どもをもちたいと思っているのを俺は知ってるから…『結婚生活は続ける。でも、心の準備ができるまで妊活はストップ』なんて条件を君に突きつけるのは、すごく残酷なことだと思ってるんだ」

「雄介…」

「1ヶ月悶々としてて、連絡できなかった。君と元恋人との関係は疑ってないけれど、たぶん自分の気づかないところで傷ついてたんだろうね。俺、元妻とは性格の不一致で別れたけど、別れた後で実は浮気されてたってことを知ったんだよね。トラウマになってるのかも」

夫の本音を、私は半ば呆然としながら聞いていた。

― 私が、浅はかだった。

彼に自分の気持ちを伝えて、理解してもらえば、すっかり元通りの生活に戻れる。家を引っ越して、新しい生活には雄介の意見も存分に取り入れて、自分で先走って色々と決めたりしないように気をつけよう――。

そのくらいの“軽さ”で考えてしまっていた。

その間、雄介は、私の想いをもっと深く推し量り、自分の気持ちとどう折り合いをつけるかで悩んでいたというのに。

「雄介、本当にごめん」

深々と頭を下げた瞬間、こらえていた涙がぽろぽろとこぼれた。

「真弓、いいんだよ。半分は俺の問題なんだ…」

雄介がやさしい言葉をかけてくれるので、余計に泣けてきてしまう。

― この人を、二度と傷つけてはいけない。

心の底から、そう誓った。




2ヶ月後。

「真弓!まだ上に荷物少し残ってるよ。ウォークインの中。あれは捨てていいやつ?」

「え、本当?確認しに行く!」

ある晴れた日の日曜日の午後。

マンションの目の前には引っ越し業者のトラックが停まり、たくさんの段ボールがどんどん運び込まれていく。




雄介に呼ばれて一度部屋に戻ろうとしたが、業者の担当者に呼び止められた。

「俺、もう一度部屋の中確認してるから、後で来て」

「ありがとう、すぐ行く!」

担当者と手短に話を終えると、私は雄介の後を追う。エレベーターホールに着くと彼は既におらず、エレベーターが上の階にのぼっていくのがわかった。ボタンを押して、少しの間待つ。

― こうして、また一緒に暮らせることになってよかった。

雄介の気持ちを聞いた私は、子どもをもつことよりも何よりも、彼のことが一番に大切だということに気づかされた。

「妊活は待てる。もしも子どもをもてなくても、それはそれでいい。誰でもいいから子どもをもちたいというわけじゃない。雄介が一緒じゃなきゃ、意味がない」

そう言って、彼と夫婦でい続けたいと話したのだ。

雄介ははじめ、渋い顔をした。

かつての離婚経験がそうさせるのだろう。「最初はそう思えてても、人間なのだから心変わりする可能性がある。一度きりの人生なのだから真弓に後悔をさせたくない」と、とても慎重だった。

そこで、私たちは話し合いを重ねて…1つの結論を出した。

“夫婦関係は続ける。妊活はいったんストップする。そのかわり、受精卵を凍結する。”

これが、私たちの落としどころだ。

話し合いの結果、雄介に合意してもらえたので、今後取り組んでいく。

もちろん受精卵を凍結できたからといって、必ずしも妊娠できるわけではない。仮に無事に出産できたとしても、年齢を重ねていることで母体に負担がかかり、育児が大変になるかもしれない。

そうしたリスクをすべて理解したうえで、私たちはこの選択を取った。




アラフォーともなると、それなりに人生経験を積んで、“想い”や“気持ち”がいかに不確かで変わりうるものなのかは、イヤというほど理解させられている。

― 現に『一生ひとりでもいいかも』なんて言ってた私自身が、結婚もして『子どもがほしい』なんて思い始めるくらいだし。

雄介の心配ももっともなのだ。

だから、納得して結婚生活を続けるには「いつか気持ちが変わったときのため」の合理的な手段が必要だった。それが、受精卵凍結という“技術”だったのだ。

― 先のことはわからない。今は雄介のことだけを考えて、新しい生活を丁寧に積み重ねよう。

この2ヶ月のことを思い返し、改めて決意した瞬間。

目の前のエレベーターの扉が開いた。

「わ、真弓!?久しぶりじゃん。家、売れたんだって?…色々、悪かったな」

「…修平」

中から出てきたのは元カレ・修平だった。3ヶ月前、まさにこのエレベーターホールで口論になった時以来出くわしていなかったから、たしかにしばらくぶりではある。

― せっかく雄介と前を向いて歩き始めたのに、また誤解されたくない。

とっさにそう思い、無言でエレベーターに乗り込む。先日と違って、修平はそれ以上、私を引き留めることはしなかった。

“閉”ボタンを押した時、修平と目が合った。

「元気でな。幸せになれよ!」

扉が閉まる瞬間、彼が今までで一番明るい顔で笑ったのが見えた。何か返す前に、エレベーターはするすると上がり始める。

― …言われなくても、幸せになるよ。

雄介と一緒に。今度は、ちゃんと“ふたりで棲む”ための家で。

チン、と音がして、エレベーターは4階に停まる。

私は駆け出すように、雄介の待つ部屋に向かった。

Fin.

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