愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

▶前回:離婚前夜、最後のディナーをしているうちに2人の気持ちに変化が。ワインがきっかけで…




Vol.13『10本のボー・ペイサージュ』孝太郎(36歳)


「里緒、週末どうする?」

孝太郎が送ったLINEは、すぐ既読になった。

「あら?今週はゴルフに行くんじゃなかったの?」

「ゴルフは来週だよ。天気が良ければどこか遠出でもしない?」

孝太郎と里緒は、お互いバツイチの大人カップルだ。

孝太郎が離婚したのは4年前。元妻は大学の時から付き合っていた後輩だったが、妊活に必死な妻と小さな言い争いが絶えず、結婚生活にピリオドを打った。

2つ歳下の里緒とは、付き合って2年になる。

孝太郎は幡ヶ谷、里緒は代々木上原の実家住まいで、「家も近いし、気が合いそう」と共通の友人から紹介された。

実際会ってみると、里緒も同じくらいのタイミングで、夫の浮気を理由に離婚を経験しており、なんとなく気が合った。

里緒はメーカー勤務だが、多忙な部署にいるため、会うのはたいがい週末。だが、孝太郎にとっては、このくらいの距離感が心地いい。

「出かけるのもいいけど、週末は父の誕生日だから、うちで食事でもしない?」

2人の関係は、里緒の両親も公認だ。

付き合って早々、代々木上原でデート中に買い物していた里緒の両親に遭遇したのがきっかけで、時々一緒に食事したりするようになった。

これまで孝太郎は、里緒の両親と何度も会い、交流を深めてきた。

「もちろん。構わないよ」

快諾する孝太郎の脳裏に、里緒の父親の姿がふと浮かび上がる。

「娘を思いやってくれる相手なら反対しない。もう大人だから好きにすればいい」と、特に父親は2人の関係に寛容だ。

そして、家に遊びに行けば、ワイン好きの父親はウンチクを楽しそうに語った。孝太郎は何かの役に立つかもしれないと、熱心にメモを取る。

いい関係を築いていたと思う。

だから、半年前の出来事は、孝太郎にとっても忘れることができない。


本当に突然のことだった。

半年前、里緒の父親が自宅で倒れ、病院に搬送されたのだ。そして、数日の集中治療を経て、そのまま帰らぬ人となった。

― もう半年か…。

孝太郎は、ありし日、彼女の父親と交わしたたわいもない会話を思い出した。

「そのうち君に、とっておきのワインを飲ませてあげるよ」






週末。

孝太郎は、幡ヶ谷の『Equal』で買った美味しいスイーツを携え、里緒の家に向かう。里緒の父親はここのシュークリームをとても気に入っていて、行くときは必ず買って持参した思い出の品。

「ショートケーキもシュークリームも4つずつ!」

箱を開けるや、里緒は驚いていたが、すぐに「パパの分も買ってくれたんだ」と和らいだ表情を見せた。

リビングに通されると、すでにダイニングテーブルには食事のセッティングがされていた。父親の好きだったチーズ、ブッラータの前菜やローストビーフ…そして、数種類のワイングラスが用意されていた。

「孝太郎さん、今日はね、主人の好きだったワインを開けようと思うの」

お母さんが、セラーからワイン取り出す。

見覚えのない、エチケットの文字を孝太郎が読み上げる。

「Beau Paysage…。え?これって、入手困難なワインですよね?」

孝太郎は驚いてボトルを見入った。

『Beau Paysage Tsugane La Montagne Trance 2018』とある。

「ええ。毎年秋にワインセラーがボー・ペイサージュでいっぱいになるのを、主人はとても楽しみにしていたの」

そう言って、開けて見せてくれたワインセラーには、「ボー・ペイサージュ」がぎっしりと詰まっていた。

山梨県北杜市のワイナリー「ボー・ペイサージュ」。化学肥料や除草剤を使わず、ブドウは手摘み。温度コントロールをせずに自然にまかせて作るワイン造りをしていることで知られており、いまや入手困難なワインの1つと言われている。

ワインはそこまで詳しくない孝太郎だが、この銘柄だけは何かの記事で見て知っていた。

「たしか元々の値段は手頃でも、入手困難で値段が高騰しているって聞いたことがあります。どうやって入手しているんですか?」

孝太郎が聞くと、里緒が「ふふっ」と楽しそうに笑った。

「ボー・ペイサージュの蔵出しは毎年2回。うちの場合は、その時期になるとカタログがメールで送られてくるのよ。そのカタログを見てオーダーするんだけど、実際にはなかなかその通りには購入できないの。

私の知り合いも購入しようとしたけど、できなかったって言ってたわ」

里緒の母親が入手の経緯を語る。

「主人とはよく日本や世界各地のワイナリーを見てまわったものよ。中でも山梨のワイナリーが好きで、ボー・ペイサージュは、十数年前から何度も訪れているわ」

以来、ボー・ペイサージュをオーダーし続けているという。

「思い出がたくさんある地でとれたワインだし、我が家も思い通りに買えるわけじゃない。だから、『決して家にあるなんて人に言うんじゃない』って主人がよく言ってたわね」

「まるで、エルメスのようですね…。そんな大切なワインを飲ませてもらえるなんて、嬉しいな」

孝太郎が感心していると、母親が言った。

「孝太郎さん、開栓してもらえるかしら?」




ボー・ペイサージュ ツガネ ラ・モンターニュ・トランスの2018年。

孝太郎が慎重にグラスに注ぐと、途端に熟した果実の甘い香り。淡いオレンジみのある色調だが、わずかに濁りがある。

里緒がグラスのひとつを手に取り、言った。

「パパ、お誕生日おめでとう」

孝太郎は里緒、母親とそれぞれグラスを合わせてから、そっと口に含んだ。


強い主張はないけれど、ピリッと酸味を感じる。旨味といってよいのか、これまで経験したことのない繊細な味わいだった。

「これ、メルロー100%?美味しいなぁ」

孝太郎が感心していると、里緒が言った。

「ブルゴーニュの高級ワイン、って言われたら、信じちゃうよね」

里緒は楽しそうに、料理をとりわけ、孝太郎の空のグラスにボー・ペイサージュを注いだ。

里緒は父親の影響で、ワインにはそこそこ精通している。




穏やかな性格で、よく気がつく。里緒は、いつどんな時も、人を嫌な気分にさせることがない。

ずっとこうして会いたい時に会い、楽しい時間を過ごせれば…と、最近孝太郎はよく考える。

「孝太郎さん!」

不意に里緒の母親に名前を呼ばれ、孝太郎は我に返った。

「孝太郎さん、よかったら来月もまた、ボー・ペイサージュを飲みに来てね」

「いいんですか?伺います」

孝太郎は快諾した。

それから月に1度、彼女の実家に行き、里緒と彼女の母親と共に1本ずつワインを空けるようになった。

孝太郎はいつもスイーツを4人分買って持っていく。ワインを飲み、デザートを食べ、エスプレッソを飲む。

ポー・ペイサージュは、どれも素晴らしく、すぐに翌月に開けるワインが楽しみになった。

食事の席で話題するのは、亡くなった父親の話だった。母親はいつも父親の話を楽しそうにしていて、いつか自分の寿命が尽きる時は、再び夫に会える時。そしたら、また一緒にワインを楽しみたい、と言った。




そして、10ヶ月が経った。

毎月里緒の実家に通い、計10本の貴重なボー・ペイサージュを開けたことになる。

しかし、今夜の10本目は少々後悔している。実は、興味本位で届いて数ヶ月のボー・ペイサージュを開けてもらったのだ。

これまで飲んできたボー・ペイサージュは、里緒の父親が何年も大切に寝かせていたものばかり。

「これでも十分美味しいけど、寝かせたらもっとよくなるって、私でもわかる」と里緒は言った。

孝太郎も同感だった。

「ワインは面白いな。寝かせて変化し、開栓してからも変化し…」

孝太郎は思わずハッとする。

ワインと同様に、すべては変化していくものなのかもしれない。

自分と里緒との関係もずっとこのままでいいと自分は思っているけれど、永遠に続くことはない。

そんな思いがよぎったとき、孝太郎の中にふとある思いが芽生えた。

『里緒と結婚したい。彼女の両親のように、年取っても相手を思いやれるように、2人で生活を紡ぎたい』




孝太郎がすっかりいい気分で外に出ると、美しい月が昇っていた。里緒は「途中まで送るよ」といって孝太郎について家を出た。

2人で大山町の住宅地を歩く道すがら、孝太郎は思い切って里緒に聞いた。

「里緒、僕と結婚って考えたことある?」

里緒は驚いて孝太郎を見上げた。

そして、すぐに嬉しそうに答えた。

「もちろん、いつも考えてるよ。だって、父がいつも言ってたもの。“結婚するなら孝太郎くんにしろ”って」

「えっ?」

そんな話は初めて聞いた。きっとバツイチ同士だし、結婚をすすめるようなことはあえてしないのだと孝太郎は思いこんでいた。

「孝太郎、やっと結婚する気になった?」

里緒は、嬉しそうに孝太郎の顔を覗き込む。

「うん、里緒さえよかったらね」と答えると、里緒は感慨深そうな様子。

「いきなり孝太郎の口から結婚の2文字が聞けるなんて…。

娘の将来が心配なあまり、パパがボー・ペイサージュを使って、用意周到に導いてくれたんだと思うな」

「やっぱり?僕もそんな気がしてるよ」

2人は顔を見合わせて笑った。

【今宵のワインはこちら】

『Beau Paysage Tsugane La Montagne Trance 2018』

山梨県北杜市のワイナリー「ボー・ペイサージュ」。化学肥料や除草剤を使わず、ブドウは手摘み。温度コントロールをせずに自然にまかせて作るワイン造りをしていることで知られており、いまや入手困難なワインの1つと言われている。

▶前回:離婚前夜、最後のディナーをしているうちに2人の気持ちに変化が。ワインがきっかけで…

▶1話目はこちら:既婚男を好きになってしまった。報われない恋に悩む27歳女が決心したこと

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