スタバが重要なコンセプトとして掲げる「サードプレイス」という概念について考えてみたい(写真:yu_photo/PIXTA)

日本で3番目に多い飲食チェーンなのに、令和の今もわれわれ消費者に特別な高揚感を与えてくれるスタバ。

ブランディングやマーケティングから見ても、一貫した理念や戦略があるように思えるが、実は「コーヒーを大切にしてきた歴史がある一方で、人気商品は、コーヒーとは正反対にも思えるフラペチーノである」など、矛盾とも思える部分も少なくない。

しかし、この「矛盾」こそが、スタバを「特別な場所」にしてきたのかもしれないーー。

『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』『ブックオフから考える 「なんとなく」から生まれた文化のインフラ』などの著作を持つ気鋭のチェーンストア研究家・谷頭和希氏による短期連載の第4回(第3回はこちら)。

前回は、ハワード・シュルツがスターバックスに入社し、同社をグローバルチェーンに拡大していく過程を追った。

そこで指摘したのは、シュルツが意識した「顧客に合わせたビジネスを作っていく」という考え方の重要性だ。そうした考え方が、本格的なコーヒー店を目指したにもかかわらず、コーヒーとはかけ離れたフラペチーノなどの商品を生み出すことにつながった。そして、それはスタバに見られる「矛盾」をもたらした。

今回は、スタバが重要なコンセプトとして掲げる「サードプレイス」という概念について考えてみたい。この作業を通して、スタバの矛盾、そしてスタバと顧客の関係性がさらに明確になるだろう。

スタバの「サードプレイス」とはなにか

シュルツがスタバの陣頭指揮を執って以降、スタバはその場所がすべての利用者にとって「サードプレイス」になるように努めてきた。そのことは、シュルツの自伝『スターバックス成功物語』でも繰り返し述べられている。


スターバックス成功物語』(筆者撮影)

「サードプレイス」とは、アメリカの社会学者のレイ・オルデンバーグが提唱した概念で、日本語に訳せば「第三の場所」となる。ここで言われる「第三の場所」とは「家庭でも職場でもないコミュニティー」のことだ。

オルデンバーグがその例として挙げる場所は、近所の居酒屋や公園、喫茶店など、家族関係からも仕事関係からも関係のない場所で作られるコミュニティーである。こうしたコミュニティーに属することによって、人々は現代社会において孤立することなく適度に人と繋がった状態でいることができるわけだ。

なるほど、たしかにスターバックスは家庭とも仕事場とも離れた雰囲気を持っている。しかし、サードプレイスの定義を確認していくと、そもそもスタバはオルデンバーグが想定したような「サードプレイス」には全く当てはまらないことが見えてくる。

つまり、スタバが掲げる「サードプレイス」とはスタバ独自のきわめて特殊な「サードプレイス」である、ということだ。「サードプレイス」でありながら「サードプレイス」でない、矛盾に満ちたスタバの「サードプレイス」観について、2つの観点から見ていこう。

「会話」がない「サードプレイス」

オルデンバーグが語る「サードプレイス」で重要視されるのが「会話」だ。「サードプレイス」内では、そこにいる人々との自然な会話が生まれ、結果的に利用者同士はその場所において顔見知りになる。確かに地元の居酒屋などに行くと、いわゆる常連を中心に店の中にいる人に自然と会話が生まれている。

スタバはどうか。店員との会話はある。スタバのスタッフに話しかけられたことがある人も多いだろう。他のコーヒーチェーンとスタバの違いを指摘するならば、そのような店員との会話を挙げることができるだろう。SNSでよく、購入したドリンクのカップに店員からのメッセージが書いてあるのがアップされているが、まさにあれも店員と客のコミュニケーションの一環であろう。

しかし、客同士の会話だとどうだろうか。スタバの中で積極的に隣に座った客同士で話すということは考えにくい。スタバの中では、それぞれの客がそれぞれの作業をしていて、そこには相互に干渉するようなきっかけはない。そこで見られる光景は、地元の居酒屋のようなにぎやかな雰囲気とは全く異なるのである。

こう考えると、スタバは、本来の意味の「サードプレイス」ではない。ここに「矛盾」が生じているわけだ。

また、「サードプレイス」の要件として、「誰にでも開かれている」ことが挙げられる。確かにスタバは、商品の代金さえ支払えば誰でも入ることができる。しかし、スタバに入ることにどことなく抵抗感を覚える人も多いのではないだろうか。

以前ほどは語られなくなったが、かつてはネット上で「スタバでMacのPCを使う人」がネタとして語られることが多かった。もちろん実際にスタバで観察をしてみると、そこにいる人々がMacのPCばかりを使っているなんてことはない。「多い」というよりも「多い(ように思える)」が正しいだろう。

けれども「スタバ」という空間が、ある特定の人々に好まれる独特な空間だというイメージを持つ人々がいることを、このネタは表しているのではないだろうか。

単純に言えば、「スタバを使う人々の雰囲気」なるものがある。その雰囲気に合致しない人々にとって、スタバに入ることはどことなく居心地の悪さを覚える。スタバを使う人々の「雰囲気」や、彼らが持つ「妙な一体感」に、腰が引けてしまうのだ。

『月刊食堂』において、ライターの京極一がこの点を鋭く指摘している。曰く、スタバのブランディングを見ていくと、「他のコーヒー店とスタバがいかに異なるか」という、顧客の特権意識を刺激するようなプロモーションが多く行われているという。

例えばスタバの店内にあるボードには、スタバがいかにSDGsに配慮しているかがアピールされている。そこで表される「選民意識」的なものが、スタバのスタバらしさを作っているのだ。

この記事を読んでいる方の中にも、普段使いでスタバに行く人もいれば、ちょっとスタバの雰囲気は馴染みにくくてほとんど入らない、という人の両方がいるのではないだろうか。おそらく、その差をスタバは意識的に作ろうとしている。しかしそれは明らかに「サードプレイス」の「開かれた」思想とは異なる方向を向いているのだ。

ここにも、「サードプレイス」であって「サードプレイス」ではない、スタバの矛盾が表れる。

スタバが作り出す新しい「サードプレイス」

何度も言うが、私はスタバが「サードプレイス」を掲げながら、そこが実は「サードプレイス」の要件を満たしていないことについて、否定的に語るつもりは全くない。

むしろ、スタバはそのような独特のスタンスによって、非常に特殊な「サードプレイス」を作っているのではないか、と思っている。

そもそも、オルデンバーグが述べる「サードプレイス」は、多くの現代人にとって心地のよいものであるのかを考える必要がある。例えば、常連がみっちり座っていて、彼らが相互に話し続け、また新規の客にも話しかけてくるような居酒屋を、すべての人が居心地がよいと思うかどうか。

もちろん、慣れてくれば楽しいかもしれない。しかし、それに慣れるまでには時間がかかるだろうし、やはり最初のうちは、そうした店には行きにくいだろう。

オルデンバーグの「サードプレイス」の条件に「誰にでも開かれている」という項目があることは既に見た通りだが、実情を考えてみると、そのような場所にふらりと行くのはなかなか難しい、という人も多いのではないだろうか。

「ほどほどに、人とつながれる空間」としてのスタバ

一方で、人間にとって自身が行くべき場所が家庭、つまり「家」か、仕事場しかない、というのも耐えがたいことである。アメリカの社会学者、ロバート・パットナムが明らかにしたように、人と人とのつながりは「社会関係資本」といって、その人間の幸福度を大きく左右する。どこかで、さまざまな人とつながることが重要なのである。

人とつながりたい、しかし、親密すぎるつながりは精神的に負担になる。そんなときにスタバという場所は適度な居場所を人々に与える。そこでは、決して客同士が干渉し合うこともない。

一方で店員との適度なコミュニケーションは担保されている。それはスタバがある意味で「矛盾」した「サードプレイス」を作り上げているからなのだが、こうした「ほどほどに人とつながることのできる空間」は、現代人にとって非常に意味のある空間である。そして、そのような空間を作っていることは、スタバに人を呼び寄せる要因にもなっているだろう。

つまり、ほどほどな「サードプレイス」を求めて、人々はスタバにやってくる……。

これが筆者なりの結論である。


キレイな右肩上がりとなっている、スタバの国内店舗数グラフ(編集部作成)

また、先ほど私が書いた2つ目の矛盾、つまり「サードプレイス」であるのに、なかば閉じられている、ということが逆に、スタバ利用者の間の強固な連帯感を作り出している、という議論もある。先ほども引用した京極一はこのように書いている。

名高いフラペチーノ実験の頃のサンタモニカ各店で私は不思議なことに気がついた。同じ時に同じ人がいつも集まる。ちょうどパブやバーと同じように。ある人は新聞を読み、ある人は原稿を書く。お互いがお互いを認識しあっているのはわかるが、滅多に話し声は聞こえない。別々な時間の過ごしかたにもかかわらず感じられる、強烈な連帯感、同一性。滞店時間2分のテイクアウト客にすらそれがある。(『月刊食堂』)

そしてこのような「強烈な連帯感、同一性」が生まれる背景として、スタバが他のコーヒー店と異なっている特別な店であることを押し出していることを挙げている。

スタバでしか味わうことのできないコミュニティー意識

店内に置かれたパンフレットを読んでみてほしい。そこでは他と比べてスターバックスが優れている理由が力説されている。排除のメカニズムを強化するためである。

このように、スタバが作り出した矛盾を孕んだ「サードプレイス」は逆に、スタバに訪れる人々の間に独特のコミュニティーを作り出す。


アメリカには「スターバッカー」というスラングがあるという。これはスタバを愛し、全世界のスタバを訪れる人のことを指すらしい。スタバマニアは全世界的に存在していて、日本でもスタバ上陸後間もなく、小石原はるかによって『スターバックスマニアックス』という書籍が出版されているぐらいだ。たしかにこうしたマニアたちの存在は、スターバックスというものを介したコミュニティーが立ち上がっていることを思わせる。

あるブランドは、そのブランドに対する熱烈なファンを持てば、非常な強みになる。スターバックスは、「矛盾」を持った経営でスターバックスを中心とするコミュニティーを(結果的にかもしれないが)生み出したのである。

この連載ではスターバックスに見られる「矛盾」を追っている。特にスタバのコンセプトの中核を成す「サードプレイス」という概念にも、「矛盾」が表れている。しかし、その「矛盾」は人々をスタバに呼び寄せ、同時にそこにスタバでしか味わうことのできないコミュニティー意識を植え付けることに成功している。

本連載の第3回では、スターバックスを世界的企業に育てたシュルツが、実は最初、フラペチーノに反対派だったことを紹介した。彼は当時の自身を「純粋主義」と形容しつつ、「フラペチーノの会社にはなりたくない。うちはコーヒーの会社だ」と言い放ったというのだ。しかし、最終的には「顧客は常に正しい」と考え直し、スターバックスはフラペチーノのパワーを背景に、世界的企業へと駆け上がった。

もしシュルツが最後まで「フラペチーノは、コーヒーの会社に必要ない」と言えば、今のような世界的企業にはなっていなかっただろう。また、「と言っても、うちは本質的な意味での『サードプレイス』とは違うよな……」と悩んでいても、今のような世界的企業にはなっていなかっただろう。

ターゲットはあくまで広く、しかし実際に訪れた人には「特別感」を与えてくれる……。

これら、「フラペチーノ」と「サードプレイス」の事例を通じて、本連載が綴ってきた「矛盾」が持つ大きな意味が徐々に明らかになってきたのではないだろうか。

(谷頭 和希 : チェーンストア研究家・ライター)