愛おしい人といるときは、何気ない時間が特別なものに変わる。

そして、2人の時間をよりスペシャルなものにしてくれるのが、ワインだ。

ワインには、香りと舌の記憶とともに一瞬を永遠に留めてくれる不思議な力がある。

今宵も、ボトルの前に男と女がいる。

長い年月を経て、このテーブルに辿り着いたこのワインのように、とっておきの物語が紡がれる。

▶前回:1回目のデートには誘われるが、2回目がない29歳女。彼女が無意識でやっているNG行動




Vol.5『結婚の理想と現実』花梨(31歳)


「義昭、今日も遅いの?」

花梨は、ダイニングテーブルで朝食をとる夫に聞いた。

「そうだね。それと、今週末は泊まりでゴルフだから、花梨も友達と予定を入れるといいよ」

義昭は、そっけなく答える。

「私、土曜日は大学のゼミの同窓会なの。何着てこうかな」

夫は、数種類の野菜とフルーツで作ったスムージー、コーヒー、そして『365日』の食パンという、いつもの朝食を食べ終えると、着替えをしに立ち上がる。

― クリスマスの週末に本当にゴルフ?浮気…じゃないよね?

ここ一年、義昭は仕事だ、ゴルフだと、まともに家にいた試しがない。寝室に向かう彼の背中に、花梨は小さくため息をついた。

現在31歳の花梨は、2年前に結婚を機にCAを辞め、専業主婦となった。

夫の義昭は9歳年上で、都内数ヶ所で動物病院を経営している。もちろん彼自身も獣医だ。

義昭とは、友人の彼からの紹介で知り合った。当時は、動物について熱心に語る様子が花梨は好印象を抱いた。

出会ってまもなく義昭からのアプローチで付き合うようになる。そして、しばらくすると、彼は結婚を考えていると言った。

義昭と一緒に過ごすのは、普通に楽しかった。

言い換えると、これまで情熱的に恋愛を楽しんできた花梨にとって義昭との恋愛は、よく言えば穏やかで、少しも波風立たないといった感じ。

これが大人の恋愛というものなのかもしれない、と花梨は感じていた。


義昭からプロポーズされた時、コロナ禍で仕事がゼロに等しかった花梨は、不透明な自分の未来が不安で仕方なかった。

勤めていたのがLCCだっただけに、なおさらだ。必然と彼からのプロポーズを真面目に考えるようになる。

どうしようもなく好きじゃないけど、一緒にいると安心できる。それに、許せないほど嫌いなところは見つからない。

彼の仕事は社会情勢に左右されないし、病院の経営も有能な後輩医師を囲い込み、軌道にのっている。

それに、代々木上原に2LDKマンションも持っている。

花梨は、義昭との結婚についてのメリットを探しては積み上げた。

その結果、義昭を逃したら、これ以上の条件を備えた男性には出会わないだろうという結論に至る。

そして、「世の中がまた元に戻ったら、また仕事をすればいい」という義昭の言葉は、結婚の後押しになった。




花梨は、玄関で夫を見送ると、リビングに戻りテーブルを片付け始めた。

― 私、何が不服なんだろう…。

花梨は、ふと手を止める。

もやもやの要因は、彼が家に帰って来ないことなのか、それとも毎日の退屈なルーティンなのか。そのどっちでもなく、彼と自分との関係性なのか。

最近それすらもわからなくなってきた。

子どもでもいたら本当の家族になれるのかも、と思った時期があったけれど、夫婦生活も希薄で子どもはなかなかできない。

実は、もう一度仕事をしてみようかな、という気持ちは少なからずある。

だが、欲しいものは、よっぽど高いブランド品でない限りは、義昭から渡されている家族カードで買えるし、毎日暇だけれど、自由だ。

それ故、花梨は動き出せずにいた。



12月23日の土曜日の夕方は、同窓会だった。

指定された外苑前の一軒家レストランに着くと、すでに数人が奥のテーブルで談笑していた。

先日エストネーションで買ったばかりのワンピースに、マックスマーラのテディベアコートを羽織ってきた花梨。

「久しぶりー!元気だった?」

意気揚々と皆に声をかける。

「うわ!花梨、そのコートって、まさか!」

「うん、そうなの。でも去年のだよ」

謙遜してみせるが、友人たちの反応は、花梨の自尊心を十分満足させた。

しかし、メンバーがたいがい揃うと、花梨は次第に居心地の悪さを感じ始める。

かつて白百合女子大で、ホスピタリティーをテーマに勉強をした仲間たち。こうして同窓会を開くのは、卒業以来2度目だ。

子育てを頑張っている人、花梨と同じようにいまだにエアライン業界で働いている人、IT企業で広報をしていたり、SNSでライフスタイルを発信しながら自宅で料理教室を開いていたり、と彼女たちを取り巻く環境はさまざまだ。

学生時代のあの頃から皆一様に歳を重ねたにもかかわらず、花梨の目には彼女たちがキラキラと輝いて見えた。

「いいなー、花梨は。代々木上原在住で、夫は動物のお医者さん!」
「何不自由ない生活を送ってるって、滲み出てるよー!うらやましすぎ」

みんなの言葉が、花梨には、社交辞令にしか聞こえなかった。

― みんな何か打ち込んでいるものがある…。

仕事、子育て、趣味…。

自分だけ置いてけぼりにされているような気がした。




食事を終え、花梨たちは、レストランを出た。

すると、夫が子どもを見てるから、イブの準備をしなくちゃ、とその場にいたほとんどが、それぞれの理由でバタバタと帰っていった。

残ったのは、大手航空会社でCAをしている桜だけ。

「花梨、ワインでも飲みに行こうよ」


CAはワインをサービスする機会のある職業。そのための勉強を口実に、独身時代は時間が合えば桜と飲み歩いていた。

同じワインスクールに通ったこともある。

桜と2人、表参道まで歩く。年の暮れが差し迫った週末の夜は、どこか忙しくて、街ゆく人は浮き足立って見えた。




さっきの同窓会の余韻を引きずりながら、桜がよく飲みにいくというワインバーに辿り着いた。

そして、店に入ると、2人でカウンターに並んで座った。

今夜は、桜にたっぷり愚痴を聞いてもらうお礼に、ここは自分が払っていいワインをご馳走しよう。ふと花梨にそんな考えがよぎった。

「ねえ、桜。私、ちょっといいやつボトルで頼もうよ。私、つまらない愚痴ばっか言っちゃいそうだから、ご馳走させて」

すると、桜は端的に聞き返した。

「いいやつって例えば、どんなの?」

想定外の返しに、花梨は戸惑った。

「えっと、フランスの、有名ドメーヌの…とりあえずソムリエに相談しようよ」

そう言いながら、花梨が手をワインリストに手を伸ばした時。

桜がそれを制した。

「まったく花梨ってば。高けりゃいいってもんじゃないでしょ。友達なんだから愚痴なんて聞くのは当たり前。おごってもらう理由にならないよ」

桜と目が合い、花梨はどうしようもなく恥ずかしくなった。

「桜さん、何か御所望のワインはありますか?」

ちょうどいいタイミングで、馴染みのソムリエが桜に声をかけた。

「日本のワインがいいな」

「ええ、もちろん」

そう言ってセラーから取り出されたのは、『MGVs B153 勝沼町引前 2017』。

「マグヴィス!」

桜が嬉々として手を打った。

桜いわく、打倒ロマネコンティを目標に、醸造や土を研究してワインを作っている作り手なのだとか。

「美味しい。私、日本のワインなんて、たいしたことないって思ってた」

ワイングラスから華やかな香りが漂い、一口含めば強い果実味と木樽の香り。奥行きのある味わいに、花梨はうっとりする。

「やだ、それ偏見」と桜が言うと、ソムリエも同調した。




「日本の気候は、ワイン作りには適していないんです。梅雨はあるし、夏は湿度が高く、収穫期には台風がやってくる。もともと乾燥した土地で生まれたワイン用のぶどうには、まったく適さない環境です」

そのハンディキャップを克服すべく、あらゆる手を尽くしてワインの質を向上させているのだ、とソムリエは言った。

「マグヴィスの場合、房づくりで1/4程度に切り詰め、房自体の数量を半分することで、厳選した高品質のマスカット・ベーリーAから作っているんですよ」

「ハンディキャップを克服する努力か…」

花梨はボトルのラベルを見つめ、無意識につぶやいた。

「桜…、私、CAの仕事が好きだったのに。仕事ないし、勤めてるのは、LCCだしって、なんとなく結婚退職しちゃった」

「2年専業主婦やってたら、世の中にどんどん置いてけぼりにされちゃって」

「うちの夫ってね、全然帰ってこなくて、会話がないの」

酔うほどに、花梨は桜に心のもやもやを次々吐き出した。

「わかってる。だって、花梨ってば、マックスマーラで無双しても全然幸せそうじゃないんだもの。でも…」

桜の言葉に花梨は顔を上げた。

「酔って泣く女なんてみっともないから、涙ふいてよ」と桜が笑った。

「聞いてると、旦那さんに構ってほしい妻って感じだよ?独り身の私からしたら、うらやましい」

「えっ…そんなつもりじゃ…」

花梨は口ごもり、うつむいた。

「そもそも花梨は、ものの見方が偏ってる。ワインだってフランスの有名ドメーヌのものが美味しいと決め込んでる。

ほかにもそうだよ。LCCを格下に思うなら、転職すればよかったじゃない」

花梨はぐぅの音も出ない。

「きっと、旦那さんとの関係も、花梨が思い込んでいるだけなんじゃない?構ってほしいって、口に出して言ったことある?」

次第に桜の口調はヒートアップし、花梨は呆然となった。

「ごめん、愚痴を聞くつもりだったのに。でも、人生すでに諦めたような花梨を見たくなくて…」

「ううん、ありがとう。全部、桜の言うとおり。何も努力しないで、文句ばっか言って」

花梨は顔を上げた。

その時、カウンターに伏せたスマホがブルっと震え、LINEの受信を知らせた。裏返して画面を見る。

「今日は泊まりだけど、明日の夜は食事でも行こう。クリスマスだしね」

― えっ?義昭さん?

花梨はスマホの画面を凝視した。

「今夜遅くなる」「食事はいらない」。そんな無機質な言葉ばかりが並ぶトーク画面に似つかわしくない、「クリスマス」の文字。

桜の言うとおり、物事を俯瞰できてなかったのかもしれないと花梨は思った。

「桜、今夜は本当にありがとう。私、夫とちゃんと話してみる」

さっきまでのもやもやは、霧が晴れるように軽くなっていく。

「気を使わせちゃってゴメンナサイ」

ただ本心から出てきた一文を打ち込み、花梨は送信ボタンを押した。




【今宵のワインはこちら】


ボトルも中身もスタイリッシュな一本は、日本生まれ。
『MGVs B153 勝沼町引前 2017』

打倒ロマネ・コンティと言える「日本ワイン」って知ってる?ツウも一押しの1本!

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