オトナの男女なら、一度や二度はあるだろう。

友達や恋人には言えない“あの夜”が…。

寂しかったから、お酒に酔っていたから、魔が差して…。

そうやって自分に言い訳をしながら、人は一夜の過ちを犯す。

これは、オトナの男女の「誰にも言えないあの夜」のストーリー。

▶前回:大阪出張に行っていたはずの彼のバッグの中から、軽井沢のレシートが。女が問い詰めると…




Vol.6『予想外な人からの裏切り』希子(34)


「はぁ…」

火曜19時。

私は、誰もいないマンションの一室で、大きくため息をついた。

目黒の実家に息子を預け、ひとりでやって来たのは、新一の橋から少し歩いた場所にある東麻布の単身用1LDK。

私たち家族は新築のマンションに住んでいるのだが、そこのものではない管理会社からの封筒が届いた。

不審に思った私は、管理会社にスペアキーを借り、夫に内緒で真相を確かめに来たのだ。

「はぁ…やっぱり、そうなのね」

19歳上で、建築会社の代表をしている53歳の夫・誠司。

最近なんとなく浮かれた様子だったのだが、その勘が当たってしまったようだ。

その証拠に、バスルームには使用済みのバスタオルが掛かっていて、キッチンに真紅のリップがついたワイングラスが置かれている。

この場所で夫は、私ではない女性と愛を育んでいることは、確かだった。




5日前の木曜の夜。

「裕翔も来年小学校だし、来年の冬は加賀の温泉にでも行って蟹でも食べような」
「…そうね」




月に一度、私たちはお互いの両親に息子を預けて、食事をすることにしている。

今回は、西麻布の静かな通りにある高級鮨店に誠司と訪れていた。

子どもが生まれる前、誠司とよく来ていたが、今では年に一回来るか来ないか。しかし、誠司は頻繁に訪れているようだ。

常連のお客さんに会釈をしたり、大将とゴルフに行く約束をしている。

でも、私はなんとも思わない。

誠司は、父親としても、夫としても完璧とは言えない。家事育児は、ほとんど私任せだし、記念日だって覚えているほうが奇跡だ。

ただ、一家の主として、申し分ないくらいに稼いでくれている。

新築で購入した港区愛宕のマンションを手放し、最近麻布台に引っ越したのだが、その暮らしは快適そのものだ。




誠司がビタミン点滴のために通っていた、美容クリニックの受付だった私。

自分から声をかけて連絡先を交換し、同僚には内緒で仕事後にデートを重ねた。

あの時の私の勇気に、今も感謝している。

誠司に声をかけなければ、今の生活を手に入れられなかっただろうから。

『希子の結婚って、絵に描いたようなお金目当てで、マジ笑える』

妊娠してクリニックを辞めることになった時、何人かの同僚たちが噂話をしていた。

けれど、そんな次元の低い意地悪は、全く気にならなかった。

なぜなら、私は誠司を心から愛していたし、尊敬していたからだ。それに、複合美容サロンを開業したいという夢も、誠司と居れば叶えられるとわかっていたから。

「ねぇ、誠司。“あれ”って、本当に来春までに大丈夫なの?」

「ん?“あれ”ってなんだっけ」

「もう〜、ひどいわね。わかっているくせに」

「はは。美容サロンの件ね。大丈夫、大丈夫。ビルも決めてあるし、いいコンサルも見つけたから」

誠司の言葉に私は安堵し、シャンパングラスに口をつけた。

私の夢は、あと数ヶ月で現実になる。

― 誠司と結婚してよかった…!

「ねぇ、次はブラン・ド・ブランにしてもいい?」

私は幸せを噛み締め、誠司に甘えてみせた。

「何でもいいよ。好きなものを頼みなさい」


食事が終わると、誠司は会社の役員たちの集まりに顔を出すというので、私は、彼の運転手兼秘書の紗耶香に自宅まで送ってもらうことにした。




「お待たせしました。希子さん、今日はお鮨だったんですね」

「そうなの。どうぞ。よかったら召し上がって」

私は太巻きが入った紙袋を、助手席に置いた。

「…ありがとうございます」

「紗耶香さん、そのタンペート、最近買ったの?素敵ね」

25歳で会社員の紗耶香が、100万円近くするデルヴォーのバッグを持っていることに、ちょっと違和感を覚えた。

「あ、ありがとうございます」

― もしかして、偽物?

紗耶香が焦って答えたので、私はそれ以上聞くのをやめた。

仕事をキチンとこなしてくれていれば、どんなバッグを持っていても構わない。

東京に憧れて岩手から出てきた紗耶香のことを、私は妹のようにかわいがっていた。

きっと彼女にも、私と同じように夢や野心があるはず、そう思うとつい親近感が湧いてしまうのだ。




東麻布の1LDKを訪れていた私は、部屋の中に決定的な証拠がないか探した。

この部屋に女性が住んでいることは確かなのだが、ただ夫が借りてあげているだけの可能性もある。

私は、バスルームやキッチンをドキドキしながら物色した。

悪いことをしているからではない。この部屋に住んでいる女性がいつ帰ってくるかわからないからだ。

キッチンのゴミ箱を見ると、西麻布の鮨店の紙袋と割り箸が捨ててあった。

「ひゃっ!」

私は、沙耶香に太巻きをあげたことを思い出し、思わず声をあげた。

誠司とは離婚する気はない。だから、浮気の証拠を見つけて、彼にお灸をすえる。

それだけにしようと思っていた。しかし…私はどんどん、冷静さを失っていった。

「……嘘でしょ」

さらに、寝室のクローゼットでデルヴォーの紙袋と箱を見つけた。

― まさか、紗耶香と…?

西麻布に迎えに来た彼女は、ここのバッグを持っていたし、私がそれに気づいた時、妙な反応をしていた。

トドメを刺したのは、ボックスの中に入っていた手書きのメッセージカードだった。

「沙耶香へ」と書かれたそれは、紛れもなく夫の字だったのだ。

これまで私が沙耶香に抱いていた感情は、姉心にも似たポジティブなものだった。

その反動から、激しい怒りと憎しみに襲われる。

夫の火遊びくらい目をつぶれる。そんなクールな妻でいたかったのに、精神が一気に崩壊した。




「いやぁ!!どうしてなの!!!」

頭を抱え、泣き喚いた。

夫の浮気相手が知らない子ならば、どんなによかったか。

私は、キッチンにおいてあったサラダ油を手にすると、床にボトボトとこぼした。

バスルームに行き、クレンジングの中身を捨て、その中にも油を流し込んだ。

誠司と紗耶香が使っているであろう、化粧水の中身も、水道水に入れ替えた。

― 許さない…絶対に…!

その時、洗面台の鏡に映る自分と目が合った。

眉間にはシワが寄り、誰にも見せられないほど酷い顔をしている。

「あなた、誰…?」

これまで必死に守ってきた、経営者の妻というポジション。

私は特別美しいわけでも、育ちがいいわけでもない。

だからこそ周りを納得させるため、あたかも昔からセレブだったかのように演じてきた。

けれど、今ここにいるのは、嫉妬と憎悪にまみれた惨めな女だ。

私は我に返り、化粧水を戸棚に戻した。

そして、自分の在るべき姿と守るべきものを、頭の中に思い浮かべた。

勢いに任せて誠司を罵り、紗耶香を社会的に追い詰めれば、手に入れた全てのものを失うだろう。

「大丈夫、私は大丈夫」

冷静になり、私はやるべきことを整理した。

誠司にこのことを伝え反省させる。そして、紗耶香には会社を辞めてもらう。

― さっきまでの狂気に満ちた自分は、今日だけの過ち…。

私は自分に言い聞かせながら、ふたりの愛の巣を出た。

▶前回:大阪出張に行っていたはずの彼のバッグの中から、軽井沢のレシートが。女が問い詰めると…

▶1話目はこちら:男に誘われて、モテると勘違いする29歳女。本命彼女になれないワケ

▶Next:12月27日 水曜更新予定
遠距離恋愛に耐えられなくなり…