人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:「怪しい…」広告代理店勤務・27歳の彼の浮気疑惑。真相を知るべく女が取った行動とは?




力の源【前編】


「葉山くん。また新規で契約取ってきたんだって?最近すごいね」

大手製薬会社でMRを務める岡村茉優は、ルート営業から戻ってきた葉山に声をかけた。

葉山は、入社5年目の茉優から見て、ひとつ年下の後輩だ。

彼は、日本橋にある支社内でも、特に営業成績をグングン伸ばしている。その奮闘ぶりは、常々うわさになっていた。

「おお、葉山。最近すごく気合入ってるみたいじゃないか」

近くにいた先輩社員の西島が反応する。

西島は、葉山が新入社員時代に研修担当をしていた。だからなおさら、成長を喜んでいるようだ。

「いやあ。今の俺には、仕事しかありませんから」

葉山の言葉に、茉優は感心しつつも意外性をおぼえた。

― 葉山くんって、そんながむしゃらなタイプだったっけ…?

以前までの葉山は、取引先の医療機関をのらりくらりと回りながら、医師たちと良好な関係を築き、要領よく仕事をこなすタイプだったはず…。

「お前。最近、なんかあったのか?」

西島がやや心配そうな口調で尋ねる。

「実は、2週間前に彼女と別れちゃって…」

そういえば、と茉優は思い出す。

「半年前ぐらいに、彼女ができたって浮かれてたよね?」

「そうなんです。でも、いろいろあって…。彼女は本当に良くしてくれたんですけど、俺が自分勝手で、優しくしてあげられませんでした」

葉山が反省の弁を口にする。

茉優は、なんだか人ごとではないように思えてきた。

茉優もまた、1ヶ月ほど前に、2年付き合っていた彼氏と別れていたのだ。

当時はただ落ち込むだけで、仕事に対する意欲も湧かず、無気力な日々を過ごしていた。

1ヶ月近く経過して精神的に落ち着きはしたものの、思い出しては気が滅入ることもある。

ゆえに、悲しみに暮れるどころか奮起している葉山に感心の気持ちが湧いた。


茉優は、葉山に「立派だね」と伝え、素直に称えた。

恋人と別れて間もないのだ。辛くないはずがない。

「ありがとうございます。いろいろ考えても仕方ないんで、今は仕事に打ち込もうと思っています。それが、彼女への恩返しにもなると思うので」

葉山は、前を見据えて力強く呟く。

茉優の胸には敬意とともに、また別の感情が芽生えつつあった。



茉優は、葉山を食事に誘い、『トゥールームス カフェ グリル バー 日本橋』を訪れていた。




葉山の“逆境での強さ”に興味を持ち、もっと話を聞きたいと思ったのだ。

そこには、先輩後輩という垣根を取り払い、距離を縮めたいという願望もわずかに含まれていた。

「葉山くんって、よく飲むし、よく食べるよね」

ビールを片手に、肉料理に手を伸ばす腕白な姿を見て、茉優は感心する。

「はい。高校のとき、部活で体を大きくするためにたくさん食べてたんで、それが染みついちゃって…」

「野球やってたんだよね。ピッチャーだったっけ?結構いいところまでいったんじゃなかった?」

葉山はスリムに見えるが、野球選手らしく引き締まった下半身をしていて、体つきも逞しい。

「いやあ。地方大会のベスト8止まりなんで、たいしたことないですよ」

「大学では、野球はやらなかったの?」

「受験に失敗して、希望の大学に入れなかったんです。別の大学の野球部に入ったんですけど、弱かったので。ただ、弱いなりに一生懸命頑張りました」

葉山は、野球を通して敗北や屈辱、後悔を味わい、そのたびに奮起して懸命に取り組んできたと語った。

― 葉山くんの原動力は、そこにあるのね。

逆境時の強さは、野球によって培われたのだと茉優は察した。

そして、腹を割って話す葉山に対し、茉優もそれに応えて本音を打ち明けることにした。




「実はね。私も1ヶ月くらい前に、彼氏と別れたの」

「そうなんですか!?知らなかった…」

「それでかなりヘコんでたんだけど…。同じ境遇のはずの葉山くんが仕事に打ち込んでいる姿を見て、私も頑張らなきゃって思わされたんだ」

葉山は、気持ちに寄り添うように何度も頷いてくれた。

「『ピンチはチャンス』ってよく言いますけど、僕も本当にそう思うんですよ。人って、追い込まれたときこそ力を発揮するというか、真価が問われるというか…」

茉優を励まそうと、なんとか言葉を絞り出そうとしているのが伝わってくる。

「岡村さんも、今が試されているときだと思うんです。辛いかもしれないけど、乗り越えた先にきっと成長があるはずです」

「葉山くん…」

「これから絶対にいいことがあると思うで、一緒に頑張りましょう!」

葉山のエールを受け、体の奥からグッと熱いものがこみ上げる。

葉山の放つエネルギーに、人間としての強さ、男性としての強さを感じ、茉優は自分のなかにある女としての本能が疼くのを感じた。


葉山と2人きりで食事をして以降、茉優のほうから積極的に声をかけ、個人的に会う機会を増やしていった。

そして、ついに茉優のほうから告白をして、交際がスタートした。

― 葉山くんと一緒にいると、元気がもらえる。活力がみなぎってくる!

茉優は仕事への意欲が湧き、公私ともに充実感をおぼえながら日々を過ごしていた。

そして、交際が始まって1ヶ月が経とうとしていたころだった。

平日の14時。

― はぁ…疲れた。どっかで休憩しようかな…。

茉優はルート営業に出ていたが、訪問先が午前に集中しており、休憩を挟めず今の時間になってしまっていた。

カフェにでも入ろうと街中を歩く。




― あれ?葉山くん…?

茉優は、建物から出てくる葉山らしき姿を、視線の先に捉えた。

担当エリアからは離れているため見間違いかとも思ったが、やはり葉山だった。

その建物というのは、ミニシアターだった。

― 葉山くん。映画…観てたの?

上映中の映画は、少し前に葉山が観たいと漏らしていた作品ではあった。

アポとアポのあいだに、時間が空いてしまったのかもしれない。

しかし、葉山であればその時間に飛び込み営業をかけるぐらいの熱意があったはずである。

葉山の仕事にかける情熱を思うと、にわかには信じがたい光景だった。

茉優は心配になり、葉山の背中を追っていく。

しばらく歩いたところで、彼は、中央に噴水がある広い公園の中へと入っていった。

葉山がベンチに腰をおろしたところで、茉優も20メートルほど離れた位置にあるベンチに座り、様子を窺う。

― あっ、私の作ったお弁当…。

葉山がビジネスバッグから取り出したのは、今朝茉優が作って、職場で渡した弁当だった。

交際前まで、茉優は料理を苦手としていた。

だが、葉山を思って作ると、まるで苦ではなかった。

むしろ喜びを感じ、いつも元気をくれる葉山に、感謝の気持ちを込めて作っていた。

たくさん食べる葉山のために、料理の腕を磨きたいと思うようにもなった。

― あれ?葉山くん…もう食べないの?

葉山は途中で箸を止め、容器をベンチの脇に置いてしまった。

「はぁ…」

離れている茉優のところにまで聞こえてきそうなほど、大きなため息だ。肩を落としてうな垂れている。




地面をただジーッと見つめる姿からはまるで生気が感じられず、人生の落伍者のように見えなくもない。

― どうしちゃったの?葉山くん…。

実は茉優は、最近の葉山に覇気がないことに気づいていた。

交際が始まったころは互いに声をかけ合い、高め合うようにして過ごした。しかし、徐々に疲労が蓄積していくかのように、彼は気力を失っていった。

― あんなにエネルギーに満ち溢れて、仕事に意欲を燃やしていたのに…。

茉優は、自分が葉山の生気を吸い取っているのではないかと懸念を抱いてしまう。

そこで、ベンチから腰を上げた。

「葉山くん…。どうしたの、こんなところで…」

思い切って声をかけると、葉山は顔を上げ、力ない表情を見せる。

「ああ、茉優さん」

「近くを通りかかったら、葉山くんを見かけて。もうルートは回り終えたの?」

「…うん」

― 嘘だ…。

「なんか歩き疲れちゃって。ちょっと休んでたんだ」

茉優は、平然と嘘をつく葉山に寂しさを感じた。

逆境に立ち向かうかつての逞しさは、どこにも見当たらない。

もしかしたら、自分と付き合うことがマイナスに働いているのではないかと、茉優は強い不安感に苛まれた。

▶前回:「怪しい…」広告代理店勤務・27歳の彼の浮気疑惑。真相を知るべく女が取った行動とは?

▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由

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【後編】気分転換にと葉山をデートに誘うが…。向かった先で知った、意外な一面とは