「一生独身だし」36歳女が、65平米7,000万の家を買ったら想定外のことが…
『始めるのはカンタン、でも終わるのは難しい――』
男女関係でよく言われるこのフレーズ。
でも…あなたは知っているだろうか。
この言葉が、“マンション売却”にも当てはまるということを。
悠々自適の東京独身生活を謳歌するために購入した“ひとりで住む家”。
それを“清算”して、“ふたりで棲む家 ”に移るのは、意外と難しい。
これは、東京でマンション売却に奔走する38歳女のストーリー。
Vol.1 真弓・38歳。自立した女の、上質な暮らし
土曜の7時30分。
スマホのアラームが鳴る前に、私は目が覚めた。ベッドから体を起こして、伸びをする。
「うーん、いい朝」
南東向き1LDK・メゾネットのマンションの大きな窓からは、たっぷりと日が差し込むので、朝はすっきりと目覚められる。
枕元に置いてあるコップ1杯の水を飲み干すと、キッチンに向かう。
お気に入りのミルで豆を挽き、この家に引っ越す時に購入したデロンギのエスプレッソマシンにセットした。ミルクフォーマーで牛乳も温める。
― ああ、幸せ。
トースターで焼き上げた食パンを楽しみながら、私はこの家で暮らす幸福を改めてかみ締める。
新卒で入社したPR会社でキャリアを積み、誰もがうらやむ大手広告代理店の営業として転職したのが、10年前の29歳の時。年収がそれまでの倍になったのをきっかけに、資産運用を始めた。
米国株への投資や給料の一部をドルにかえて貯蓄してきたのが奏功し、円安が加速する中で一気に資産を増やすことができた。その一部を頭金にして、36歳の時に、このヴィンテージマンションを購入したのだ。
― 2年前、思い切ってこの家を買ってよかった。
お気に入りの家具を集めたリビングを見渡し、満ち足りた気持ちになる。
“当時”のことを思い返すと、まだほんの少し胸が痛む。けれどこの家で暮らすうちに、心の傷も少しずつ癒えてきた気がしている。
2年前、36歳でこの家を購入した理由。
それは、元カレからの婚約破棄によって、結婚を諦めたから。
一生独身で居続ける可能性を覚悟して、私は“自分だけの家”を求めたのだ。
◆
1つ年上の元カレは、私が広告代理店に転職して、初めて担当したクライアントの社員だった。私の部署異動が決まり、担当を離れることになったのがキッカケで、プライベートでも食事するようになり、交際に発展した。
― 軽い気持ちじゃなさそうだし、このまま結婚するものだって思ってたんだけどね…。
しかし、その読みは外れた。交際期間が3年、4年と経ってもプロポーズされる気配はない。
5年目、34歳になった私はついに結婚を急かしてみた。
「私たちももう長く付き合ってるし、そろそろ将来のこととか考えてほしくて…」
すると彼はプロポーズしてくれて、婚約することができた。しかし結婚が近づくにつれ、彼の態度はどんどん投げやりになり、交際6年目のある日突然別れを告げられてしまったのだ。
「ごめん。流れで色々進めちゃったけど、やっぱり今、結婚したいとは思えない。真弓がダメとかじゃなくて、どうしても結婚する気になれない」
30代の半分を捧げた男性との別れ。
絶望し、憔悴した私を救ったのは、友人の言葉だった。
「いいじゃん、身軽になれて。自分だけの“城”で気ままな1人暮らしするのも、結構楽しいよ」
上智大学の同級生で不動産会社に勤務するミズホは、結婚願望が一切ない人で、若い時から一生独身を決め込んでいた。
彼女は私よりもずっと早く、30歳で汐留に自宅マンションを購入。仕事で付き合いのある業者にリフォームを任せ、スタイリッシュな内装と上質なインテリアでおしゃれな空間を築き上げていた。
ミズホは40代で会社を早期リタイヤし、自分で事業を起こして一生現役を貫くのが夢なのだという。「結婚なんて必要ない」とサッパリと言ってのけた。
― 私も、このままいくと一生独身かな…。
自分がそう思うのも無理はなかった。
若い時は3ヶ月もすれば癒えていた失恋の傷は、30代も後半になると重く尾を引くようになる。
それに、気づけば周囲は既婚者だらけで、新しい出会いもなかった。
その時住んでいたのが、茅場町の狭い1LDKだったのもよくなかったかもしれない。
西向き2階・35平米で賃貸1人暮らし。休日に暗い部屋で一人引きこもっていると、暗い感情に心が呑み込まれそうになってしまう。
だから、当時の私は脇目も振らずに仕事に邁進した。昼夜問わず働き、土日も仕事関係の本やイベントで情報収集。エネルギーのすべてを仕事に注ぎ込んだ。
― 一人でも生きていけるかも。っていうか、ずっと一人でもいいかも。
自然と、そう思うようになっていたのだ。
だからこの家の購入を決めた。
1LDK、浜松町駅徒歩5分。65平米で7,000万円。立地を考えると破格の安さだ。前所有者が家庭の事情で地元に戻ることになり、売り急いでいたのだという。
築35年という点は少し気になったが、設備と内装のリフォームがされていたのと、1年前に大規模修繕工事が行われており、修繕積立金も十分な額だったので、不安には思わなかった。
― 古いけれど、リノベーションをしながら大切に住めばいいわ。
投資信託を一部売却して2,000万円を頭金と諸費用に充て、35年ローンを組んだ。大手勤務のおかげで金利を低く抑えられたので、管理費・修繕積立金を含んでも月々の支払いは15万円以下。毎年末には住宅ローン控除の還付金も受け取れる。
年収1,500万円の自分にとって十分に払える金額だし、定年退職時には運用資産と退職金で残債も返すことができる。もしも途中で手放す必要が出たとしても、残債分で売却することは十分に可能だろう。
あの時の選択は正解だったと、今しみじみと思っている。
◆
― 天気もいいし、芝公園まで散歩しようかな。
朝食を済ませると、私はふらっと外に出た。
緑に触れたければ芝公園、水に癒やされたければ浜離宮や竹芝まですぐ歩けるから、この立地は本当に便利だ。
不意に、スマホが鳴る。ミズホからのLINEだった。
『今日の夜、友達も誘ってもいいかな?この前紹介した沙織が、友達2人連れてきたいって!』
『了解、楽しみ!』
ミズホとは時々食事をする仲だが、彼女は同年代の飲み友達が多く、たまにこうして友達を紹介してくれる。
― 30代前半ごろまでは、会ったばかりの人より、昔からの友人と食事するほうが楽しいと思ってたけど…。
35歳を超え、心境が随分変わった。
大学時代の友人は大体結婚・出産しており、土曜の夜に声をかけづらい。中高は共立女子に通ったが、その頃の同級生は2人目、3人目を抱えて、てんやわんやという子ばかり。
運よく予定が合ったとしても、独身の自分と子持ちの友人とでは、置かれている環境が全く違う。気軽に放ったどんな一言が相手の気持ちを傷つけるかわからないので、話題はもちろんのこと、相づちや言葉の選び方にも注意が必要だ。
― だから結局、昔話ばかりになるんだよな。
それに比べ、ミズホが連れてくる友達は大体が独身またはDINKS。業種はさまざまだが第一線で仕事に励む人たちだ。
そして不思議と、生まれ育った環境や学歴が近い人が集まる。
ゆるやかな同質性の中で、気楽に、かといって20代の時と違って無茶なはしゃぎ方をするわけでもなく、互いをリスペクトしながら楽しく会話ができる。
― 人生で、今がいちばん楽しいかも。
ミズホが送ってきた虎ノ門のレストランのリンクを確認すると、スマホをバッグにしまう。ディナーのために、ランチは軽くしておこうかな――なんて考えながら。
◆
ミズホが選んだ場所は、この秋オープンした虎ノ門ヒルズ ステーションタワーの45階に鎮座する『TOKYO NODE DINING』。開店したてのぱりっとした雰囲気と、東京タワーを臨む美しい夜景に思わずテンションが上がる。
虎ノ門ヒルズは自宅から自転車で行けるし、新しいスポットが増えているので、浜松町に引っ越してきてからよく来るようになった。
「それでは、乾杯!」
シャンパングラスを合わせると、集まった5人は簡単に自己紹介をしあう。ミズホの友人・沙織さんには何度か会っているが、彼女が連れてきた男性2人は初めましてだ。
「雄介です。Webデザイナーしてます。会社に所属してるけど、個人で副業もしていて、今は6:4くらいの割合かな」
フォーナインズの眼鏡を持ち上げながらそう語る雄介は40歳。背はそれほど高くないが、がっしりとした体つきで、年齢よりも若く見える。大学時代はラグビー部に所属しており、今でもそこそこに運動を続けているらしい。
そして、話しているうちに住まいが近いことが判明した。
「真弓さん、浜松町に住んでるの?駅のどっち側?」
「大門の方だよ」
「そうなんだ。俺、いま日の出に住んでてさ。あの辺、駅の周りが再開発でキレイになってきて色々楽しみだよね。田町もどんどん新しいビル建ってるし」
じゃあ浜松町と日の出の間を取って、明日竹芝でお茶でもする?――なんて冗談でローカルトークしていたら、解散した後に本当に連絡がきたので驚いた。
『明日だけど、ウォーターズ竹芝のあたりを散歩しようよ』
◆
この日を境に、雄介とはよく会うようになった。
彼は40歳のバツイチで、30歳の時に1年だけ結婚していたという。しかし性格の不一致で別れてしまい、その後は転職や自分で会社を起こすなど、仕事に没頭していたせいで、結婚に至るまでの女性には出会わなかったそうだ。
「真弓さんと一緒にいると、なんか落ち着くなぁ」
ファミリーも多い竹芝エリアは、夜というよりも昼の街だ。だから雄介とはもっぱら、明るい時間に会っていた。ウォーターズ竹芝内のカフェでモーニングしたり、ブルーボトルコーヒーで世間話に花を咲かせたり。
何度か会ううちに、彼の人柄にだんだんと惹かれている自分がいた。
― なんだか久しぶりに、ちょっといい感じ?
でも、恋愛の仕方なんて忘れてしまっているし、今の関係を続けるほうが心地よい気もする。
婚約破棄を経験した38歳。自分から動こうだなんて、どうしても思えない。
そんなある日。
『今週末さ、ランチしようって言ってたけど、もし真弓さんが大丈夫だったら夜でもいい?このお店の予約が取れそうなんだ』
― あれ?この店って…。
送られてきたリンクは、いつものモーニングやランチをするようなカフェではなく、銀座の格式高いフレンチだった。
『いいよ、予約ありがとう』
返事をしながら、私は、今夜何かが起こることを期待していた。
今の関係のままが心地よい、と思っていたはずなのに――。
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