平日の真ん中、ウェンズデー。

月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。

ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。

それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。

貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?

▶前回:専業主婦になって後悔してる…。優雅なセレブ妻が家に帰りたくないワケ




<水曜日の休憩>
須田可奈(30):主婦


カーテンの隙間から差し込む日差しが、容赦なくまぶたに照りつける。

「うう…ん…」

寝ぼけながら、ベアフット ドリームスの薄いブランケットをかき集めていた私は、妙に広々とした感覚にハッと目を見開いた。

となりで寝ているはずの、勇輝がいない。

ガバッと身を起こして枕元のスマホを確認する。AM8:49。勇輝がいないのは当たり前だ。彼は毎朝、7時きっかりに出社する。

スマホの画面には、LINEの通知が1件届いていた。

『勇輝:可奈ちゃん、おはよう。今日は水曜日だから、目覚まし止めておきました。夜ご飯はいらないよ。行ってきます!』

「そっか、今日は水曜日か…」

なにも、目覚ましまで止めることないのに。そう思う気持ちもないわけではないけれど、ここは勇輝の優しさに甘んじることにする。

大きなあくびをすると、私はブランケットを被り直してもう一度目をつぶる。

2度目に目が覚めた時には、太陽はすでに空高く昇りきり、時計の針はちょうど正午を指していた。

「うわっ、すごい寝ちゃった。水曜日とはいえ、さすがに起きなくちゃ」

独り言を呟きつつベッドから降りると、ももの裏に激痛が走る。

「いっっったいい〜…!」


ももを襲う激しい痛みの正体は、他でもない、完全な筋肉痛だ。

原因は、一昨日行ったホットヨガだろう。

普段通っているゆったりとしたハタヨガではなく、少し激しいアシュタンガヨガのクラスを選択したのが祟ったようだ。

「うそぉ。翌々日に筋肉痛が来るとか、30代丸出し…」

いつもなら5時には起床して、マンションのすぐ目の前を流れる多摩川沿いをランニングするのが私の日課だ。けれど、この筋肉痛ではそれも無理だっただろうと思うと、二度寝の罪悪感も少し和らぐ。

その一方で、たった今自分の口からこぼれでた「30代」という言葉に、心の一部がスッと冷えていくのも感じた。

― あーあ。もう、30歳になっちゃった。

まだ30歳。

もう30歳。

どちらとも言える年齢だけれど、今の私は完全に、「もう30歳」と考えてしまう側の人間だ。

現役で大学に合格して、新卒で大手広告代理店に就職して、26歳で会社の先輩だった勇輝と結婚して、あっという間に4年。

受験。就職。結婚。なにもかもが順調なペースで進んでいた私の人生で、唯一…。

“妊娠”だけが思い通りに進まないまま、私はいつのまにか30歳になっていた。




誰もいないダイニングに座り、いつのまにかついていた癖で空っぽの下腹部を撫で付ける。

けれどすぐにその手をどけて、小さく頭を振りながら自分に言い聞かせた。

「気にしちゃダメダメ。今日は水曜日。さて、と…」

気を取り直して顔を洗うと、パジャマのまま着替えもせずにスマホを取り出す。

しばらくのあいだ真剣に画面を操作し、「よしっ」という一言とともにチェックを済ませて、ごろりとソファに横になった。

30分後。高らかなインターホンのチャイムの音と共に届いたのは、なんの変哲もない、1枚のデリバリーピザだ。

「ありがとうございましたぁ」

起き配にしたためすでに姿の見えない配達員に声をかけながら、私はウキウキとピザを玄関先から回収した。

袋の中にはピザだけではなく、フライドポテトとコーラまで入っている。

それらをコーヒーテーブルの上に満漢全席のごとく並べると、テレビでNetflixを立ち上げ話題の独占配信ドラマを流す。

そして、「いただきますっ」と言うや否や、とろりとチーズがとろけたピザに大きな口でかぶりついた。




「んー、最高…!」

ソファにだらしなく寄りかかりながら、パジャマのままジャンクフードを貪るなんて、普段の私ではとてもじゃないけど考えられない。

だけど、その背徳感のような気持ちがより一層ジャンクフードの味を高めるということを、最近の私は知ってしまっていた。

だって、今日は水曜日。

私にとって、毎週水曜日はこういう日なのだ。

週に一度、とことん自分を甘やかしながら自堕落に過ごす日。

言うなれば、「休憩の水曜日」だ。

「熱いうちにポテトも食べちゃお」

テレビに映る女優のコミカルな演技にケラケラと笑いながら、ポテトをつまみつつ、私は思い返す。

あの、いつ壊れても仕方のないような、張り詰めた日々のことを。



「勇輝、今日はチャンスの日だから絶対早く帰ってきてね!」

「うん、わかった。今夜ね」

「絶対だからね!」

結婚して2年が経った頃に不妊治療を始め、それ以降、だんだんと自分の中から“余裕”の二文字が消えていきつつあることに自覚はあった。

夫婦生活は妊娠の可能性がある日を綿密に計算して、計画的にしかしなくなっていたし。

オーガニックの食材を選んだり、肉をやめてみたり、糖質制限やグルテンフリーの生活を心がけてみたりと、食生活には気を使いすぎなほど気を使っていたし。

毎朝のランニングや週5のホットヨガで、運動も完璧にこなしていたし。

マルチビタミンや葉酸、マカ、鉄分や亜鉛なんかのサプリも、口コミを調べ尽くした上で高価なものを購入して欠かさず摂っていたし。

他にも、規則正しい生活、毎日の基礎体温測定、体重測定、通院…。

焦り。そう、当時の私はとにかく焦っていた。

「私、絶対に20代のうちに妊娠・出産したいの。だから、結婚願望がないならお付き合いできません」

そんな宣言で勇輝と付き合いだし、結婚するときには、すぐ訪れるであろう育児の日々に備えて寿退社までしていたのだ。

まさか妊娠にこんなに手間取るなんて、考えてもみなかった。

子どもなんて、すぐできると思っていた。

人生が思い通りに進まないという初めての焦燥感で、私はもうギリギリだった。

そしてある日、友人に誘われて訪れたフラワーアレンジメント教室で…とんでもない失態をおかしてしまったのだ。


「ええー!小百合さん、お子さん4人もいらっしゃるんですか?全然見えない!」

「そう?もう本当に大変なのよ。自分の時間なんて全然ないのよ」

友人と講師の小百合さんのそんな会話を聞いた瞬間、私の口から無意識のうちにこぼれ出てたのは、こんな言葉だった。

「自分の時間がないくらい、いいじゃないですか。贅沢な悩みですね」

その瞬間、シン…とした沈黙が広がり、時間が止まった。

「あ…ご、ごめんなさい。私、ただ…小百合さんは、お子さんにたくさん恵まれて幸せですねって、それだけの意味で…」

「ええ、わかってますよ。もちろん、幸せなことです。ほーんと、私ってば贅沢ですね」

小百合さんはニコッと微笑んで許してくれたけれど、私は信じられなかった。

人の幸せすら喜べない。自分がそんな低俗な人間になってしまったということが、本当に、本当に、信じられなかった。




その日の夜は、妊娠しやすい体を手に入れるために足繁く通っているホットヨガにも行けず、家に帰って布団に潜った。

「こんなダメな私のところに、赤ちゃんなんて来てくれるわけないんだ…」

もうすぐ勇輝が帰ってくる。亜鉛たっぷりの牡蠣でカキフライを作って、ほうれん草のおひたしと、ひじきの煮付けと、きちんと出汁から取ったけんちん汁と五穀米で、仕事で疲れている勇輝を出迎える予定だったけれど…。

布団の中で息を潜めて泣いているうちに、いつのまにか眠ってしまったのだろう。気がつけば、水曜日の朝を迎えていた。

「カキフライ!」

ハッとして飛び起きたけれど、夕飯のカキフライどころか朝食すら作ってあげられないまま、すでに勇輝の姿は見当たらなかった。

その代わりに、短くて素っ気ない…だけど優しい、1通のLINEが届いていたのだ。

『勇輝:おはよう。可奈ちゃんは、がんばりすぎ。たまには、自分を甘やかしてあげる日を作ろうよ。僕の夜ご飯もいらないから、週一くらいは自堕落に過ごしてみて。

冷蔵庫、見てみてね」

その文面をぼんやりとした頭で見つめ終わると、私は恐る恐るダイニングの方へと歩みを進めた。

テーブルの上には、昨晩夕飯が準備されていなかった勇輝がとったのであろうデリバリーピザが、半分ラップをかけて残してある。

それを横目に冷蔵庫を開けるとそこには、私が寝ている間に買いに行ったのかもしれない。コンビニで売っている、ゴディバのチョコレートが置いてあったのだ。

― チョコレートなんて…。私、妊活中なのに。そんな体に悪いもの、食べるわけないじゃない。

そう思ってドアを閉めようとした、その時。ゴディバの箱に、なにか書いてあることに気がついた。

手に取ってみると、マジックで小さく文字が書かれている。勇輝の筆跡だ。

「僕は、可奈ちゃんがそばにいてくれれば、それだけで幸せです。

チョコレート好きだったよね。可奈ちゃんの笑顔が見たいよ」




久しぶりに食べたチョコレートは、甘くて、すこし苦くて…。

妊娠しやすい体重を保つために厳しい食事制限をしていたことも忘れて、その日私は、夢中でチョコレートを平らげたのだった。



― そのあと夕飯にはたしか、勇輝の残したピザを温め直して食べたっけ。

全12話のドラマを一気見しながらそんなことを思い出した時には、すでに日は沈みかけていた。

ソファやベッドで一日中ダラダラと自堕落に過ごしているうちに、1日が終わろうとしている。

惜しい気持ちがない、と言ったら嘘になる。けれど、たまにこういう日があることで、私はまた優しい気持ちで笑えるようになったのだ。

人生には、休憩が必要。そんな日を提案してくれて、そんな私を受け入れてくれている勇輝には感謝してもしきれない。

このあとは、昨日フラワーアレンジメントの帰りに買った小説をゆっくり読むつもりだ。

「ふあぁ…。夕飯はどうしようかな。あの時みたいに、食べきれなかったピザの残りでいいか…」

朝と同じくらいの大あくびをしながら、そう考えた時。ふと、日頃は感じることのない胸焼けに襲われた。

― なんか無性に食べたくて、ポテトも食べちゃったもんな。さすがに、30代の胃にジャンクなものばっかりはキツすぎたのかも…。

と、そこまで考えて、私はピタリとあくびを止めた。

うっすらと開けたベランダの窓から、ほんの少し秋らしさを感じる夜風がそよそよと流れ込んでくる。

気がつけば、今は9月。

それで、最後に生理が来た日は───。

必死に記憶を辿っても、全く思い出せなかった。

「休憩の水曜日」を始めて以来、夫婦生活は計画性を失い、心のむくままに任せている。運動も食事制限も水曜日はサボっているし、体重は以前よりもオーバー気味だ。

― まさか、それなのに…。そんなことないよね?

私は、寝室のサイドボードの奥にしまい込んだ妊娠検査薬を、久しぶりに探し出す。

そして、筋肉痛の痛みを噛み締めながら。30代の体の衰えを痛感しながら…。

パジャマのままもつれる足取りで、お手洗いへと駆け込んだ。

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