平日の真ん中、ウェンズデー。

月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。

ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。

それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。

貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?

▶前回:70平米の2LDKだけど、2人暮らしは限界!「彼の足音にさえイライラする…」感情が爆発した女は…




<水曜日の成長>
遠藤則之(30):トレーダー


「じゃあね、則之。いってきまーす」

「おう、いってらっしゃい」

キッチンで朝食の食器を洗い終わったゆいが、いそいそと出かけていく。

身につけているのは、先週末デートに出かけたときに伊勢丹新宿で買った、フォーマルめなワンピースとジャケット。

おそらく今日は一度オフィスに出勤して、夜は友達と食事にでも行くのだろう。

同棲を始めたばかりの頃。共同生活に疲れ切っていたゆいに提案した“秘密の水曜日”は、5年経った今も続いている。

けれど、5年も一緒にいるのだ。彼女の服装を見れば、なんとなくの予定はわかるようになった…気がしている。(今朝食べていた、不思議なマグケーキの正体はわからないけれど。)

ゆいの「毎日一緒にいると息苦しい」という気持ちは、正直に言えば、俺には全然理解できない。

好きで一緒にいるんだ。俺の方は、ゆいと1日ずっと一緒にいたって全く苦にならない。

なんなら“秘密の水曜日”は、俺にとってはちょっと寂しいものだったりもする。

けれど、俺とゆいは違う人間だから、“そういうもの”だと思って受け入れている。

ゆいのリラックスできる生活を尊重したいし。

ゆいの1人で思案をする姿や、「秘密でーす」と言う時のイタズラっぽい笑顔はすごく可愛いと思うし。

それに最近では───俺の方にも秘密があるし。

そう。

ゆいには絶対に言えない…毎週水曜日の、秘密の楽しみが。


ゆいのいないリビングでかんたんな昼食を済ませると、15時の東証のマーケットが閉まるまで取引に集中する。

その後しばらく収支を計算したら、ようやく俺の水曜日の始まりだ。

部屋着を脱ぎ捨て、きちんとクリーニングされたシャツに袖を通す。清潔感のあるオシャレを意識して、身支度を整える。

もしここにゆいがいたら、「あれっ、そんなきちんとした格好してどうしたの?」なんて言うかもしれない。

デイトレーダーという職業柄、日頃は部屋着で過ごすことが多い。それに、ゆいと出かけるときだって近所の店が多いから、カジュアルな装いばかりだ。

けれど、今日の目的地は天下の表参道。いつもの短パンとTシャツというわけにはいかない。

― いや、こんな風にめかしこむのは、目的地が表参道だから…というわけじゃない。

ぼんやりとそんなことを考えながら、マンションの前でタクシーを拾う。そして、そわそわしながら運転手に行き先の住所を告げた。

カバンの中に“あるもの”が入っていることを、しっかりと確認しながら。




辿り着いたのは、表参道の大通りから路地に入り、さらに何度も曲がった場所。近くに目立つ店もない、低層マンションだった。

1、2度咳払いをしてエントランスのインターホンを鳴らす。スピーカー越しに女性の声が聞こえた。

「はい…」

快活でハキハキとしたゆいの声とは全く違う、儚く澄んだ美しい声。

「あ、こんにちは。遠藤です」

少し緊張しながらそう言うと、彼女の「どうぞ」という返事とともにガラス張りのドアが開く。

エレベーターで3階に降り、先ほどインターホンで押した番号の部屋へと向かう。ドアの横のインターホンを押そうとしたそのとき、内側からドアが開いた。

「遠藤さん、今週もお待ちしてました」

儚く、澄んだ、美しい声。その声の主の姿も、全く同じ印象だ。

端正な顔立ちの優雅な女性。近くに寄ると、フワッと花々の香りがする。

ぴったりとしたワンピースに身を包んだ女性は艶やかな微笑みを浮かべながら、ドアを大きく開けて俺を部屋へと招き入れた。




「遠藤さんがここにいらっしゃるのも、もう3回目ですね」

「はい、そうなりますね。改めて、小百合さん。わがままを聞いてもらって、ありがとうございます」

「いいのよ。水曜日のこの時間はちょうど、主人だけじゃなくて子どもも留守にしてるし。それに、遠藤さんみたいな素敵な方…思い切って受け入れてよかったと思ってるの」

そう言いながらアイスティーを出してくれる小百合さんの薬指に、シンプルなプラチナの指輪が光る。俺はその指輪を、特別な感情を込めてじっと見つめた。

視線に気づいた小百合さんが、いたずらっぽく指輪をアピールしながら問いかける。

「それで…今回は、持ってきたの?」

「あっ。は、はい!」

結婚指輪を見つめていた俺は慌てて我に返ると、カバンの中を引っ掻き回す。

「今日はきちんと、持ってきました」

そう言いながら俺が取り出したのは──。

無骨に真っ黒な、一枚のエプロンだった。

エプロンを見た小百合さんが、クスッと笑う。

「あら、ずいぶん素っ気ないデザインなのね。わざわざ持ってこなくても、またいつでもお貸しするのに」

そう言って、テーブルのすみに畳んで準備してあった、花柄でフリルたっぷりのエプロンを指さす。

「いやぁ…」

恐縮して縮こまる俺を見て、小百合さんはもう一度笑いながら、長い髪を後ろで束ねた。一転、彼女の眼光がキリッと引き締まる。

「じゃあ、そろそろ始めましょうか。3回目のフラワーアレンジメントのレッスンを」


フラワーアーティストの小百合さんにこうして師事できるようになるまでは、一言では言えない経緯があった。

まず大変だったのは、小百合さんに出会うまでだ。

今はフラワーアーティストの活動から一線を退いている小百合さん。そんな彼女を見つけ出せたことは、思い返してみても幸運だったと思う。

俺が生花関連株のニュースをSNSで調べていた時に、偶然インスタでサジェストされた素敵なブーケの投稿。それが、探していた小百合さんのプライベートアカウントだったのだ。

それから、俺はメッセージで「レッスンを受けたい」と何度もお願いした。

紹介制で、基本的に女性を相手にごく限られたプライベートレッスンを行っているという小百合さんからしてみたら、見ず知らずの男である俺からメッセージが来るのは、怪しさしかなかっただろう。

実際、1度は断られた。2度目も断られた。

けれど、それでも熱意を込めて頼み込んだところ、最後にはどうにか受け入れてもらえたのだ。

そのときの喜びと興奮と、うまく言えないけれど「これできっと大丈夫」というような安堵の気持ちは、今でも胸に残っている。

だって俺は、ずっと前から決めていたんだ。

ゆいにプロポーズをするときは、小百合さん…いや。

ゆいのお気に入りの「Sayuri Ikenohata」の花束を抱えて、ありったけの思いを込めて結婚の申し込みをすることを。




“秘密の水曜日”を提案した、5年前のあの日のことをよく覚えている。

ぐしゃぐしゃの顔をして飛び出して行ったゆいが、すっきりとした顔で帰ってきて…。

その時に持っていた小さなブーケが、すごく、すごく綺麗だった。

なんとなく、このブーケのおかげで、ゆいが家に帰ってきてくれたような気がした。

それからもゆいは「Sayuri Ikenohata」と書いてある袋のブーケを度々買ってきていて、家にSayuri Ikenohataの花が飾られていると、なんだか家中が幸せに包まれているような気がした。

だから俺は、「プロポーズをするときは、絶対にここの大きなブーケを買おう」と、密かに決めていたのだ。

けれど、いざプロポーズを決意した今。

渋谷の「Sayuri Ikenohata」は、いつのまにかクローズしていた。つい数ヶ月前のことだという。

やっと見つけた小百合さんのインスタには、ひとこと「レッスンは紹介制」と書いてあるだけ。

その瞬間、不思議とストンと合点がいったんだ。

― そうだ。俺の手で、プロポーズ用のブーケを作ろう。

って。




ゆいが秘密を持つようになってから、俺はなんとなく、毎週水曜日を持て余していた。

― なんか、新しいことしたいなぁ…。

トレーダーの1日は、意外と暇だ。市場が閉まったあとの夕方なんかは、ゆいが不在の家でモヤモヤしていることも多かった。

外資金融の激務に見切りをつけてトレーダーになったけれど、時々、忙しく働いていた頃を思い返すこともある。

死ぬほど忙しかったけれど、刺激的で、成長を感じられる毎日…。

― そうか。俺、成長したいのかも。

そんな俺の心の隙間に、「プロポーズのためのブーケを作る」というチャレンジは、びっくりするくらいのワクワクをもたらしたのだ。

ジニア。ブプレリウム。アンスリウム。ドウダンツツジ。

水切り、水揚げ、ワイヤリング、ドライフォームの面取り。

これまで全く知らなかった“花”という世界で、新しいことを知る喜び。

「プロポーズをする」という大きな目的はもちろんあるけれど、正直いつのまにか、俺自身が心の底からレッスンを楽しんでいた。

「花には気持ちが表れるからね。プロポーズするときのことを一生懸命イメージしながらお花に向き合って」

そんな小百合さんのアドバイスに従って、少しフォーマルな格好をするのも、まるで予行演習のようでドキドキする。

プロポーズの場として心に決めている『ニューヨーク グリル』は、この格好にジャケットを羽織ればいいだろう。

今回はフリフリのエプロンも借りずに済んだし、さらにイメージトレーニングが捗りそうだ。

「彼女、遠藤さんみたいな方が彼氏で、幸せですね」

真剣に花にむきあう俺に、小百合さんが言った。

俺は、ゆいの大好きな花…白いアナベルをじっと見つめながら答える。

「いえ。もっともっと頑張って、これからもっともっと幸せになってもらうんです」

そうだ。ゆいの笑顔を見るために、ゆいを幸せにするために、俺は努力し続ける。

俺にとっての水曜日は、“秘密の水曜日”ってだけじゃない。

強いて言うなら、“成長の水曜日”だ。

代わり映えのしない毎日に、こうして成長を感じられるキッカケをくれたゆいのことを想う。

俺のブーケで、喜んでくれるだろうか?

俺のプロポーズに、イエスと言ってくれるだろうか?

密かに、プロポーズが成功した後も小百合さんさえよければ、花は──“成長の水曜日”は、続けていきたいなとボンヤリ考えている。

プロポーズ、きっと成功する…よな?

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