モデル、タレントのアンミカさんの人生に迫ります(写真:アンミカさんのInstagramより)

人生100年時代。キャリアも私生活も花を咲かせるのは1度だけではもったいない。四季咲きの花のように年齢と経験を重ねるごとに自分だけの花を何度でも咲かせている人々たちがいる。たとえば、この人。モデル、タレントのアンミカさん。

波瀾万丈にして右肩あがりの人生とその哲学とは? ライター 芳麗さんが解き明かす、新しい時代の人物伝。

アンミカがいれば、面白い」という期待値

芸能人であることを差し引いたとしても、特異な存在である。

アンミカ、51歳。

パリコレモデルとして、その名を世に知られるようになり、ミドルエイジ以降はタレントとしてブレイク。現在はニュース番組からバラエティ番組、通販番組でも、唯一無二の存在感を示している。

さらには、近年は、アンミカの名言をピックアップした日めくりカレンダーも大ヒット。アイドルや俳優の人気とは一線を画す、本人のキャラクターや発する言葉が注目を集め、テレビの視聴者にとっても、また、作り手にとっても「アンミカがいれば、面白い」という期待値は、年々歳々、高まっているようにも感じられる。

「いろんな方にアンミカを面白がってもらえることは、本当に幸せなことです。50歳になってからは、ますます突き抜けて、さらに面白いことにチャレンジできそうな気がしています」

歯切れのいい関西弁と、泉のごとく溢れ出る言葉は、対面でも健在だ。

「人生七転び八起きってよく言いますけど、うちの父には、“七転び十五起きのつもりで生きていけ”と言われて育ちました。一回転んだら、両手で何か掴んでから起き上がれという意味です。実際、その通りの人生を送ってきたなと思います」

表面的なポジティブではない。リアルな人間味を感じさせる、圧倒的なポジティブマインドを持つ人。その稀有なエネルギーは、どこから生まれているのだろう。

複雑な環境で育った子供時代

1972年3月25日。韓国人の両親の元に、5人きょうだいの真ん中として生まれた。父も母も敬虔なキリスト教信者。教会の手伝いをするために家族をともなって来日。大阪の鶴橋に住まうことに。

バラエティ番組などでも自ら語っているように、幼少期は人並みはずれた貧乏生活を送っていた。他人の家の2階を間借り、四畳半に家族7人で暮らしていた。果物は市場で捨てられたものを食べ、スイカの皮で体を洗う……etc. 伝説級の貧乏エピソードには事欠かない。

「お金は全然なかったけど、ひもじい思いをしたことはなかったです。両親は明るく愛に溢れていて、クリエイティブ。腐りかけの果物も、工夫して美味しいおやつを作ってくれるような親たちでしたから。小学校に通い始めると、我が家は他の家とは全く違うと気づきましたけど。我が家はカトリックだから、“清貧”は素晴らしいという考え。“持たざる者は美しい。他人に与えよ”を実践していることは、むしろ、誇りでもありました」

とはいえ、幼少期の環境が至極、困難だったことには違いない。アンミカは家計を支えるために、小中高と新聞配達を続けていた。

さらに複雑だったのは、在日韓国人であるという出自。昭和50年代の日本は、今よりも社会のムードは閉鎖的で、在日外国人に対して多くの日本人が偏見を抱いていた。

「小学生の時は韓国人学校ではなく、地元の学校に通っていて。同級生から『両親に韓国人とは遊ぶなと言われた』などと遠ざけられた経験もありました。

しかも、私たちが住んでいたのは大阪でも“境目の地域”。富裕層の方々が住む地区と貧困層が住まう地域が隣り合っている場所でした」

人種や地域の問題など、子供の頃から理不尽な差別を目の当たりにするだけでなく、自らもその洗礼を浴びて育った。

アンミカの人格のベースは、そんな幼少期からの複雑な環境と波瀾万丈の経験で形成されたと話す。

「もともと、幼少時の性格は根暗やったと思います。負けん気も執着心も強かったです。原因は色々。きょうだいが多かったことも大きいのかな。両親は素晴らしい人たちで、きょうだい仲もよかったけど……。5人きょうだいだから、どうしても、両親の愛情を奪い合ってしまう。しかも、私は、注目を浴びづらい中間子。不安だったんでしょうね」

さらに、強烈な容姿コンプレックスも。幼い頃は、きょうだいの中で1人だけ小柄で太っていた上に、6歳の時、階段から転げ落ちるという事故にあい、口の中を切る大怪我をした。その後遺症として、口内は真っ黒に。表情を変えると、唇がめくれ上がるようになった。

「私が笑うと周囲の人が嫌な顔をするのが分かって、笑えない子供になってしまいました。

正直、それから数年間、小学校半ばまでの記憶がほとんどありません」

そんな心の穴からか、小学校では他の子供たちと歩調を合わせられなかったという。

「ませていたし、気も強かったから、周囲の子を意のままに支配しようとしたことも……。今思うと可愛くない子でしたね。クラスでも疎まれた時期もありました」

多くの人は思春期になってから味わうような周囲との軋轢や自己との葛藤を、アンミカは幼少期にひととおり経験した。

「中学生になる頃には、うまく歩調を合わせられる子供になっていました。気の強さや自己顕示欲は内に秘めて、人をよく観察していましたね。“韓国人だから……”と何かと言われるのが悔しくて、勉強をものすごく頑張るようにもなって。しかも勉強は好きになっていったので、成績はいつも良かったですね」

生来の賢さか、出だしから苦難が多かったからか、アンミカの成熟は、ずいぶんと早かったのだ。


(写真:アンミカさんのInstagramより)

15歳で訪れた最愛の母親との別れ

モデルを志して事務所に入ったのは、15歳の時。

「手足が長くてすらっとしているからモデル向きね」という母親の言葉がきっかけだ。容姿にコンプレックスがあったからこそ、その言葉は彼女にとって一縷の光になった。

「母は子供たちの資質を見抜いて、やる気にさせるのがとても上手な人でした。15歳の時に事務所の門を叩いたのは、母親の余命がわずかだったから、生きている間に報告がしたかった」

母親のがんが発覚したのは、彼女が9歳の時だった。看病をしながら、バイトを続け、年下のきょうだいの面倒を見る日々が続いていた。

「母が病を患って亡くなるまでの数年間も、忙し過ぎて記憶がないんです」

そこまで語ると、急に大きな瞳から涙がポロポロとこぼれ落ちた。

「ごめんなさい。母を想うと、いまだに涙が出てしまう。それくらい、私にとっては太陽のような大きな存在でした。父親ももちろん同じですけど、母は43歳とまだ若いうちに亡くなってしまったから」

他にも少女時代の苦難のエピソードは枚挙にいとまがない。やっと成功しかけた家を火事で失う、ムチ打ちと聞いていた母の病が重いがんだった……etc. それでも自分を不幸だと思ったことはない。出来事の全てを前向きに捉えられたのは、他ならぬ、両親のおかげだという。

「たとえば、私が顔の怪我で絶望していた時、母親は美しくなるための“4つの魔法”を教えてくれました。曰く、本物の美人とは、一緒にいて心地よい人のこと。そのためには、姿勢を良くして、口角を上げること。相手の目を見て、よく話を聞くことだと。この4つを守っていたら、私自身の心持ちも、周囲からの見られ方も、確実に変わっていきました。両親には絶対的な愛情とともに、生き方、考え方、いろんなことを授けてもらったんです」

2度のパリコレ挑戦と、自分なりの成功法則

最愛の母に導かれて歩み始めたモデルの道だが、実は父親は猛反対していた。成績優秀なアンミカには大学に行ってほしいと願っていたのだ。モデルを続ける条件として、家を出ること、一流のモデルになるまで実家の敷居を跨がないこと、資格を取って自分に付加価値をつけることを提示され、高校卒業後は家を出ることに。後にこの条件は父の最大の愛であり応援だったと知るが、この時はもう後戻りできない状況だった。

事務所に所属していたが、仕事はほとんどなかった。

「服飾専門学校のデッサンモデルとなり、レオタードにハイヒールで立ちっぱなしとか。それで、1日5000円もらえれば最高……というくらい仕事がなかったんです」

そんな時期、起死回生を図ってもくろんだのが、パリコレへの挑戦だ。

ファッションの聖地、パリで年に2回行われる、世界最大のファッションイベントに出演することは、一流モデルの証しである。

当時は、世界中でスーパーモデルブームが巻き起こっていた。当時のスーパーモデルといえば、ナオミ・キャンベルやクラウディア・シファーなど、圧倒的な容姿と、ハリウッドセレブさながらの華やかな生活を送る面々のこと。パリコレは、そんなスーパーモデルに近づくためのキャリアパスでもあった。

売れっ子モデルでも躊躇するほどの大挑戦だが、19歳のアンミカは1人でパリへと向かった。

「何のツテもお金もなく。10万円で1カ月のフリーエアチケットを買って、5万円だけ握りしめてパリへと向かいました。無謀です(笑)」

パリに着くとまずは、モデルエージェントを巡ったものの、誰にも相手にしてもらえなかった。オーディションを受けることすらできなかった。しかし、ただで帰るアンミカではない。

「エージェントでは門前払いされましたけど、『なぜ私はダメなんですか? 理由を教えてください』と頼み込み、1人に貴重なアドバイスをもらいました。今や、私といえばの言葉……『白は200色ある』は、あるエージェントの方に言われたもの。さえないモデルだった私に、『あなたはもっと自分の見せ方を知った方がいい。たとえば、白は200色あるのよ。あらゆるショップに足を運び、たくさんの洋服を見て、いちばん似合う白を選ばないと』と教えてくれました。今も私の指針になっています。

モデルとして一流に、唯一無二の存在になりたいなら、私はまだまだ自分を磨くべきだと気づけたし、それ以前に自分をもっと知るべきなんだと思い知らされました」

自分が取り組むべき課題が明確になれば、どれほど苦い経験も糧に変わる。

パリから帰国後も貧乏生活を送りながら、自己探索を繰り返して自分を磨き、オーディションを受け続けた。さらに、アンミカといえば、今や21個の資格を持つ資格マニアとしても知られているが、資格取得に精を出し始めたのもこの頃だ。

「これも父の教えです。モデルになるなら中身も磨けと。見目麗しい人がたくさんいる世界。何で自分を差別化するかというと、内面しかない。知識や教養を身につけるために新聞を読むこと、資格を取るのは良い方法だと言われて、資格を取り始めたんです」

チャンスは突然に

チャンスは突然、しかも、意外な形で訪れた。

「京都で海外の雑誌社がスポンサーにつく面白いショーがあるから、顔を出さないかと誘われたんです。海外の人気カメラマンの方々も撮影しにくるからと」

しかし、当時は、大阪から京都への交通費すら厳しい経済状況。断ろうと思いながら家に戻ると、実家を出てから初めて父親からの手紙が届いた。

「『チャンスは後ろからも来るんだ』と書いてありました。曰く、チャンスが前からやってくるなら人間はサボる。先に努力しておけ。その上で、いろんなところに足を運んで、突然のチャンスも掴むんだということが書いてあって……。まるで今の私の状況を言い当てられているようで、ハッとしました。『今日のショーに行かなきゃ』という思いが湧き上がってきて、急遽参加することにしたんです」

そこでアンミカは、稀有なチャンスを掴み取ることに。友人の誘いで京都のファッションショーを観に行った際、ドイツ人カメラマンのノーバート・ショーナーに声をかけられた。翌日、彼の撮影に参加し、そこで当時大きな注目を集め始めていたビューティービーストのデザイナー山下隆生氏と出会う。

山下氏の目に留まったアンミカは、彼のブランドモデルを毎回のように務めるようになり、そこで撮影した写真が、世界的なファッション雑誌『i-D』やドイツ版の『ELLE』の誌面を飾るように。そのうちの1つが世界の広告賞も受賞した。さらに、国内でもビューティービーストと山下氏が一大ブームとなる中、そのミューズ的な存在だった、アンミカの知名度も同時に上がっていった。

そんな最中、2度目のパリコレに挑むことに。

リアルポジティブ女王・アンミカ誕生の瞬間

「この時は、海外で人気がついた山下さんがパリコレにブランドを出すことに。そこで、ビューティービーストのパリコレに出演させてもらえたのです。その後、1回目は門前払いだったエージェントのマネージャーと再会。その事務所に所属することになりました」

パリコレ出演をきっかけに、日本での地位も確立。世界的な有名企業・ヴィダルサスーンのCMに出演するなど、トップモデルとしてのキャリアを切り拓いた。

人生で初めて咲いた大輪の花だった。

「自分の在り方次第で、考え方や行動で人生はいくらでも変わっていく。父と母にそう教えてもらったから、私自身も自己を啓発して行動を続けて、小さな成功体験を積み重ねていましたけど……。この時、初めて大きな成功を味わうことができて感動しました」

リアルポジティブ女王、アンミカ誕生の瞬間だ。

絶望的な環境にいながら絶対的な愛情を与えられてきたことが、アンミカの振り幅の広さと、驚異的なエネルギーの発信源になっているのか。

苦難の状況にあった分だけ、自分の個性や業とも深く向き合えた。自己を豊かに表現する術を身につけられたのだ。

しかし、アンミカのジェットコースターのような人生は、ますます加速しながらアップダウンを繰り返していく。

(後編に続く)


芳麗さんによる連載6回目です

(芳麗 : 文筆家、インタビュアー)