夜が明けたばかりの、港区六本木。

ほんの少し前までの喧騒とは打って変わり、静寂が街を包み込むこの時間。

愛犬の散歩をする主婦や、ランニングに勤しむサラリーマン。さらには、昨晩何かがあったのであろう男女が気だるく歩いている。

そしてここは、六本木駅から少し離れた場所にあるカフェ。

AM9時。この店では、港区で生きる人々の“裏側の姿”があらわになる…。

▶前回:年収2,000万の彼とマッチし、大喜びで待ち合わせのカフェに向かったけど…。男を前にして絶句したワケ




Vol.3:華恋(31)「この家から、逃げなきゃ…」


「お前は何をやってもトロいな」

これは私の夫である匠が、私をなじるときの常套句だ。小さなミスを見つけては「バカなのか?」とか「俺がいなければ何もできないくせに」と罵ってくる。

そんな日は決まって、仕事で大きなストレスを抱えて帰ってきたとき。私はストレスの捌け口なのだ。

それでもまだ、3歳になる娘に手を出さないだけマシだと思っている。

いつ、どんな発言が地雷を踏むのかわからない怖さがあっても、離婚はできない。だって専業主婦の私は、夫に縋って生きるしかないのだから。



ある夜。この日は、帰宅時から夫の機嫌がとにかく悪かった。

「おいっ!!」

「あ、おかえ…」

「なんで俺が帰る頃を見計らって、風呂を沸かし直しておかないんだよ。いつものこの時間に帰るだろうが!」

匠は「おかえり」という私の声をさえぎり、寝ている娘を起こさない程度の声量で文句を言ってくる。

「ごめんなさい、鈴がぐずってさっき寝たばかりなのよ。それどころじゃなかったの」

すると夫は唐突に私のパジャマを掴み、今にも殴りかかりそうな声で脅してきたのだ。

「お前な、誰のおかげで生活できてると思ってる?こっちは金もろくに稼げないお前の代わりに、毎日精神削るような思いで仕事してるんだよ。家にいるだけなんだから、家事ぐらい完璧にしろ」

匠にも越えてはいけない一線があるとわかっていたのか、感情に任せて殴りたい気持ちを抑えようと、強く握りしめた拳がわなわなと震えていた。

そして掴まれていた手の力が抜けると同時に、私はヘナヘナと床に座り込む。夫はこちらをひとしきり睨みつけた後、自身の書斎にこもった。

― この家にいたら、何されるかわからない…!


焦った私はスウェットワンピースに着替えると、玄関でレペットのバレエシューズをそっと履く。そして一切の物音がしないように家を出た。

「うう、寒いな…」

日中は汗ばむこともあるけれど、深夜2時に薄手のワンピースとカーディガンだけではさすがに寒い。

夫の意向で西麻布のタワーマンションに引っ越してきて2年が経つが、夜にこの近辺を出歩いたことは一度もなかった。行きつけの店どころか、深夜に開いている店も知らない。

しかも、スマホを家に置いてきてしまった。仕方なくぼんやり歩いていると、薄暗い路地にポツンと一軒だけ明かりのついた店を見つける。

その横では、赤いワンピースに黒のヒールパンプスを履いた黒髪の女性が紙タバコを吸っていた。

「あなた、大丈夫?」

その女性は店に近づく私を見て、声をかけてきた。

「えっ?…あぁ、大丈夫です」

「どう見ても、大丈夫ではないでしょ。とりあえず中入りなよ」

「でも、お金持ってませんし」

「泣き腫らした顔に、薄着でフラフラ歩かれる方が気になるわ。いいから入りなさい、奢るから」

その言葉に甘えて、私はこぢんまりとしたバーの中に入ったのだった。




店内はカウンター5席に、テーブル席が1つ。昔からあるような親しみやすさのあるバーだった。

そして私は促されるまま、赤いワンピースの彼女に今起きたことをありのまま話す。彼女はただ黙って聞いてくれた。

ひとしきり話し終えると、彼女がカウンター奥のスタッフルームに入っていく。そしてワンピースとパンプスを手に、戻ってきた。

「これに着替えて。靴のサイズ合うかな?ちょっと出かけよう」

「え!?今から、どこへ…?」

「華恋、クラブとか行ったことないでしょ。とりあえず今夜はすべてを忘れて踊りに行ってみようよ」

そんなところへ行っても、何も解決はしない。だけどなんだかワクワクしてきた私は、そのまま彼女に付いて行くことにした。




深夜3時。とっくに終電を逃した若者たちが、爆音とアルコールに身を委ねて踊っている。

箱入り娘として育ち25歳で夫と結婚した私にとって、クラブは今まで訪れたことのない未知の場所。どう振る舞えばいいのかわからず、オドオドしていた。

「ほら!まずはドリンク頼みに行くよ」

彼女が私の手を取り、人混みの中をかきわけていく。すると四方八方から、男性に声をかけられた。

「お姉さ〜ん!一緒に乾杯しようよ」

「じゃあ、モスコミュール奢って!華恋は?」

「えっ!?あ、じゃあ同じので…」

そして奢ってもらったモスコミュールをグイッと飲み干すと、彼女は唐突に踊り出した。

ドンドンと心臓を打つようなEDMのミュージックに合わせて、赤いワンピースがヒラヒラと舞う。彼女の笑顔と滑らかなダンスを見ていると、なんだかこっちまで楽しくなってくる。

気づけば見よう見まねで、私もぎこちないダンスを踊っていた。

そんな私たちに向かって、男性が「かわいいね」「一緒に飲もう」とひっきりなしに声をかけてくる。

― あぁ。世の中には、私のことを褒めてくれる男性もいるんだなあ。

その場限りの甘い言葉だとはわかっている。でも夫から投げかけられるのはいつも暴言だったから、些細な褒め言葉でも涙が出るほど嬉しかった。


朝8時にクラブが閉まり、外へ出ると同時に酔いもスーッと醒めてきた。

「やだ、もうこんな時間…。私、さすがに帰らないと」

「えー。もう帰っちゃう?近くにカフェがあるんだけど、そこで朝ご飯食べてから帰ろうよ」

帰らなくちゃと言いつつも、彼女に借りた服も返さなくてはならないし、このまままっすぐ家に帰るわけにはいかない。

そこでまずは提案通り、カフェで軽く朝ご飯を済ませることにした。

…というよりも、現実に引き戻された今。このテンションのまま帰宅するのがひどく怖かったのだ。




さっそく最初のバーに戻り、服も着替えてカフェへと向かう。そこは先ほどまでいたクラブの雰囲気とは打って変わって、爽やかな朝が似合うテラスカフェだった。

― 同じ六本木なのに、なんだか不思議だなあ。

私の向かいに座る彼女は、夜が明けて朝日に照らされても変わらず美しかった。

「そういえば、ごめんなさい。私、お名前を聞いていなかったですよね」

「あはは!確かにそうだったわね。私は、鈴よ」

― えっ。娘の名前と、一緒だ…。

今の今まですっかり忘れていた娘のことを、私はハッと思い出した。




「…私の娘も、鈴っていうんです。どうしよう、朝方まで帰らないでいたから泣いてるかもしれない」

「ねえ華恋。あなたには、もっと自分を愛することを覚えてほしい」

「えっ?」

そして彼女は、続けざまにこう言った。

「私の母も、華恋みたいな人だったの。父からの暴言に耐えてた。でも後になって『私がいるから離婚できなかった』って言われて、すごく悲しかったのよ。

私がいようといまいと、さっさと離婚してもらって構わなかったのに。もっと自分を大切にする道を選んでほしかったな、って」

奇しくも娘と同じ名前を持つ彼女もまた、母親がDVを受けているのを目の当たりにして苦しかったという気持ちを話してくれた。

そして彼女の母と同じようなことを考えていたと気づき、胸が苦しくなる。

― 思えば、いつも自分を卑下していたな。

夫に生活を支えてもらっている。だから何を言われても、私が我慢しなくちゃいけないと思っていた。けれど、いつしかその我慢が自尊心を傷つけていたのかもしれない。

彼女の言う通り、自分を大切になんてできていなかった。

「私にとって、夫に立ち向かうことは決して簡単なことじゃないけど…。娘のためにも、自分を大切にしないとですね」

向かいに座る彼女は、優しく微笑んでいた。

「家出なんて初めてしたけど、すごく楽しかったです。何より、あなたに出会えてよかった」

「こちらこそ。何か困ったらいつでも相談して。今度は鈴ちゃんと一緒にランチでもしようね」

私たちは、また会う約束をした。

― 次、会うときまでにはもっと強くたくましい母でいられますように。

私は力を込めて、家までの一歩を踏みだした。

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