東京に行って、誰もがうらやむ幸せを手に入れる。

双子の姉・倉本桜は、そんな小さな野望を抱いて大学進学とともに東京に出てきたが、うまくいかない東京生活に疲れ切ってしまい…。

対して双子の妹・倉本葵は、生まれてからずっと静岡県浜松市暮らし。でもなんだか最近、地方の生活がとても窮屈に感じてしまうのだ。

そんなふたりは、お互いに人生をリセットするために「交換生活」を始めることに。

暮らしを変えるとどんな景色が見えるのだろう?

29歳の桜と葵が、選ぶ人生の道とは――。

◆これまでのあらすじ

マッチングアプリを使い東京での生活を満喫する葵は、経営者に絞ってアポを繰り返していた。出会ったばかりの岸部勝彦という男からロエベのバッグを買ってもらい、夢心地になっているが…。

▶前回:元彼と訳アリお家デート。飲みすぎたワインのせいで起こった“予想外のハプニング”とは




Episode08:倉本葵@東京。東京の男は、本当に怖い?


「でさ!その希望のプロジェクトに見事アサインされたんだよね」

金曜日の20時。

神泉のビストロのカウンター席で、男性の自分語りが止まらない。

今夜の相手は、外資系コンサルで働く森田。27歳だ。

私は使い慣れてきたマッチングアプリで、まるで作業のようにアポをくり返している。

ひとりの夜は、元夫のことを考えてしまうから、簡単に夕食の相手が見つかるアプリは、いつの間にか私の必須アイテムになっていた。

「他業種から転職してきてまだ2ヶ月なのに参るよ〜。上司に気に入られすぎちゃって」

森田は悪い人ではないが、今まで会ってきた経営者たちと比べると物足りない。

― 経営者フィルターを外しちゃダメだったかなぁ…。

そう反省してから、私は森田の話をさえぎる。

「そろそろ、メイン料理頼んでおきます?」
「あ、うん。そうだね」

彼は、黒板に書かれた牛フィレ肉のステーキをじっと見ている。

ステーキは、最初にお店の人が勧めてくれたし、私もそれがいいと思っていたから安心した。

しかし…この後、とてつもなくダサい展開が待っていたのだ。


「メインは、豚ロースの低温真空ロースト…いや、鶏のソテーにしようか?」

― え!?そっち?

森田は黒板に書かれたオススメではなく、グランドメニューの中から、一番金額が安いものを選んだのだ。

店に入ってすぐ、私たちは牛フィレ肉のステーキの話題で盛り上がったし、まだ前菜の盛り合わせしか注文していない。

― それなのに…なぜ?




私は、勇気を出して男に言った。

「せっかくだし、フィレにしませんか?ちなみに、割り勘で大丈夫なので」

私がそう言うと森田は安心した様子で、店員さんに早速「牛ください!ヒレのステーキを」と明るく注文した。

― はぁ…ダメだこりゃ。

私は、ため息をついてから、荷物カゴの中の自分のバッグを見つめた。

岸部勝彦が買ってくれたロエベのパズル。

彼なら金額など気にせず、真っ先にステーキを注文してくれていただろう。

岸部に会ったのはまだ数回。でも、彼は外見も中身も褒めてくれるし、ちゃんと女性扱いしてくれる。

それを思うと、急に会いたくなった。

『葵:今どこかで飲んでませんか?』

私は、森田がお手洗いに行ったタイミングで、岸部にそう送った。




森田ときっちり割り勘をして解散したあと、私は六本木にいる岸部の元へ向かった。

時計の時刻は22時を回っている。

「急にすみません。ご迷惑でしたよね」

私は、ヒルズの車寄せで待っていてくれた岸部に言う。

「まさか!ヒルズクラブで会食してたんだけど、おじさんたちの話長いから抜けたかったんだよね。ありがとう」

― 優しい…。

桜は、“東京の男は怖いよ”だなんて言っていたけれど、岸部はただただ優しい。

「どうしようね。マデュロに行ってもいいけど、部屋とって中で飲もうか?」

― ???部屋…?ホテルってことだよね。

私は、一瞬フリーズした。

「うーん、でも、マデュロ…?も行ってみたいかもです」

そこが何かわからなかったけれど、岸部と密室でふたりきりになるのは、避けたかった。

彼は「OK」と笑顔で言い、『マデュロ』というバーへ向かったので私は安心したのだが、あいにく満席だった。

「残念。席空いてないって。金曜の夜だしね」
「あ………金曜ですね。曜日感覚なかったなぁ」

私のつぶやきには答えず、岸部は、ホテルのフロントに向かって歩き出した。


これは、もう逃げられないだろう。だって、会いに来たのは私の方なのだから。

男女がホテルに泊まるということは、そういうことになるのだろうか。

東京ではよく起こることなのだろうか。

そんなシチュエーション、ドラマや漫画でしか見たことがない。

― どうしよう………。

でも、私はそろそろ本当に覚悟を決めなければならないようだった。




「あ、ここだね。どうぞ」

岸部は、いつものように私をエスコートしてくれる。

― わぁ……すごい!

私は思わず、両手で口を押さえた。

こんなに高そうなホテルに泊まったことがない私でもわかる。ここは、明らかにスイートルーム。

東京の夜景がキラキラと輝き、贅沢すぎる広々とした空間と、いい匂い。




「葵ちゃん、東京が好き?」
「はい」

間違いなかった。私は、東京にこれでもかと魅了され続けている。

「浜松に戻りたくなかったら、ずっとこっちにいてもいいんだよ。住むところくらい用意してあげられるし」
「…そうか。そういう選択肢もあるんですよね」

― でも、それって、岸部と付き合うってこと…なのかな?

私は差し出されたワイングラスを受け取り、乾杯しながら、考えた。

たしかに東京は好きだ。一度味わってしまったら、元の生活には戻りたくなくなる。でも、51歳の岸部と恋愛ができるのだろうか。

「僕は泊まらないから、葵ちゃんだけ泊まっていってね。“泊まれない”って言った方が正しいんだけど」

― ん?

私は、岸部の意味深な発言に戸惑った。

「泊まれないって、どういうこと?」

思わずタメ口になってしまう。

「僕、結婚してるからさ。外泊したら奥さんに怒られちゃうのよ」

そう言われた瞬間、すべてを悟った。私は、単なる遊び相手なのだと。

「あっ…そうか……結婚、してるんですね」

岸部は、田舎から出てきた私に優しくしてあげたかっただけだ。

ワインを飲んで、ルームサービスを頼んで、彼が帰ったあとで、たっぷりとこの部屋をひとりで堪能しよう。

そう思っていると、グラスに赤ワインを注ぎながら岸部が予想外のことを言う。




「それを踏まえて、葵ちゃんには彼女になってほしいんだけど…どうかな」

― かのじょ?

彼女って、恋人ってことって合っているのだろうか。

私が頭の中で状況を整理しようとしていると、岸部が続けた。

「葵ちゃんみたいなスレてなくて、純粋になんでも喜んでくれる子を探していたんだよね。

でも、大学生とかだとさすがに若すぎるでしょ。だから…どうかな?今まで以上に高い店も連れて行くし、欲しいものも買ってあげるよ」

― ムリ。怖っ…!

「えっ…と」
「もちろん、こんなおじさんとタダで付き合ってくれとは言わないから」

話の途中で、私はホテルを出た。

岸部からタクシー代をもらっていないし、今夜の森田とのアポは割り勘だったけど、まだ終電はある。

こんな時でさえ、そんな計算してしまう自分を嘲笑しながら、私は日比谷線に乗った。

電車の中でも、中目黒を降りた後も、ひどい顔をしていたと思う。

でも、六本木も中目黒も夜でも明るくて、誰も私のことを気に留めない。

普段なら冷たくてひとりぼっちで寂しい。それが今は、心地いい。

“東京の男は怖いから気をつけて”

桜の忠告は、正しかったのだ。“怖い”の意味が、今ならよくわかる。

とりあえず水が飲みたくて、帰り道に寄ったドラッグストア。そこで、女性ふたりの会話が耳に入る。

「まさか料理教室で出会って、ここまで仲良くなるとは思わなかったよね」
「ほんと!イケメンシェフに感謝っ!」

― 料理教室…か。

桜と生活拠点を交換してからというもの、私は男性としか会っていない。

女友達を作ろう。そして、残りの東京の生活を思いっきり楽しもう。

この時は、たしかにそう思っていた。それなのに、まだ知らない東京の沼があったなんて…。

▶前回:元彼と訳アリお家デート。飲みすぎたワインのせいで起こった“予想外のハプニング”とは

▶1話目はこちら:婚活に疲れ果てた29歳女。年上経営者からもらうエルメスと引き換えに失った、上京当時の夢

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桜のストーリー:浜松にいる桜は、東京から遊びにきた“あの人”と食事に行くことに…