東京のアッパー層。

その中でも、名家や政財界などの上流階級の世界は、驚くほど小さく閉じている。

例えば、ついうっかり“友人の結婚式”なんかに参加すると「元恋人」や「過ちを犯した相手」があちこちに坐っていて冷や汗をかくことになる。

まるで、いわく付きのパールのネックレスのように、連なる人間関係。

ここは、誰しもが繋がっている「東京の上流階級」という小さな世界。

そんな逃れられない因果な縁を生きる人々の、数珠繋ぎのストーリー。

▶前回:慶應幼稚舎受験の直前。軽井沢の別荘で息抜きをしていたら…。母親が後悔することになった事件




Vol.4 P.M.12:40 歓談
    新婦元同僚・小橋麻帆(35歳)


美恵子社長の「乾杯!」の一言と同時に、生演奏のパッヘルベルの「カノン」が会場に響き渡った。

400人ほどはいるであろう招待客たちが揃ってグラスを掲げ、社長と新郎新婦に惜しみない拍手を送る。

「それでは、しばしご歓談ください」

司会がそう告げた後も、私はしばらくの間グスグスと鼻をすすり続けるのを止められずにいた。

「社長の乾杯の挨拶、よかったね。ちょっとグッときちゃった」

「私も。でも、麻帆はさすがに泣きすぎ。式からずっと泣きっぱなしじゃん!」

美恵子社長の会社“TSUDAパール”で、私が働いていた時の同期2人が、半ば呆れながらそう笑う。

「だってぇ…。美恵子社長が泣いてる姿なんて、初めて見たんだもん!

それに、10年も前にプロポーズされてたマサミが、やっとこうして結ばれたんだよ!?幸せになれて、本当によかったよ〜…!」

そう言っている側から、また目頭が熱くなってくる。

― ダメダメ。これ以上泣いちゃったら、マスカラもアイシャドウも、コンシーラーまで落ちちゃう。

慌ててハンカチを探して小さなハンドバッグの中を引っ掻き回していると、ふと、同期とは反対側の隣の席から優しい声が聞こえた。

「あの…これ、よかったら使ってください」


視線を上げると、隣の席の女性がニッコリと微笑みながら、私にタオルハンカチを差し出してくれている。

「えっ、あっ、いえいえ!とんでもないです!」

恐縮するあまり立ち上がりお辞儀を返すと、たった今座っていた私のお尻の下から、探していたハンカチがクチャクチャになった状態で現れた。

「あっ、こんなところにあった…」

あたふたする私の姿を前に、隣の女性は思わずクスッと吹き出す。

「本当に、遠慮なく使ってください。うち、実家がタオル会社なんです。差し上げますから」

私は恐縮しながら、お言葉に甘えて差し出されたタオルハンカチを受け取る。背に腹はかえられない。私のアイメイクは、もはや崩落寸前だった。




「すみません、すっかりお言葉に甘えてしまって。メイク直しの道具を持ってきていなかったので助かりました」

女性にそうお礼を言いながら、私は手元の席次表を確認する。

披露宴という、閉じられた世界の話だ。肩書を見れば、新婦側の招待客という以外でもどこかで共通点があるかもしれない。

女性の名前は…「新婦友人・薬袋サエ様」。

― 薬袋…?

その珍しい苗字には、どこかで見覚えがあるような気がした。

薬袋、薬袋…。

そして、しばらくしてようやく思い当たった。

軽井沢の別荘所有者による会員制のテニスクラブ「中軽井沢倶楽部テニスコート」。

そのロッカールームで我が家のロッカーの隣に掲げてあるのが、たしか「薬袋」の名前だったはずだ。




やはりこういう場では、少し辿れば誰しもが知り合いだったりすることは往々にしてある。

私は涙がすっかり引いたところで、遠慮がちに女性に向かって問いかけた。

「ありがとうございます。あの…突然ですけど、“くすりぶくろ”さんって、中軽井沢倶楽部にロッカーをお持ちでいらっしゃいます?

もしそうだったら、私、隣のロッカーの者です。今度ハンカチのお返しさせてくださいね、“くすりぶくろ”さん」

女性は一瞬きょとんとした表情を見せたかと思うと、またしてもクスッと笑いながら言った。

「薬袋って書いて、“みない”って読むんです。珍しいですよね」

「え…そうなんですか?やだ、すみません!」

度重なる失礼に、思わず顔が赤くなる。

けれどサエさんは、私の再三の間抜けぶりなどすっかり気にしていないように振る舞ってくれるのだった。

「よかったら、名字じゃなくて下の名前で呼んでください。読みにくいですし、主人の名前で呼ばれるの…あまり好きじゃなくて。サエといいます」

「はい、サエさん。よろしくお願いします。麻帆といいます」

思いがけない共通点のおかげで、会話はその後も思いのほか弾んだ。

── いや。弾んだ、と思ったのは、ほんの僅かな時間に過ぎなかったのだけれど。

だってまさかサエさんのこの優しい笑顔が、あんなに恐ろしく思える時が来るなんて…。

この時は、想像すらできなかったのだから。



ご実家は、百貨店などでもお馴染みの老舗タオルメーカーであること。

小さい頃から玉川学園で育ったこと。

大手海運会社勤務のご主人と結婚して「薬袋」という珍しい名字になったこと。

その難読名字を気に入っておらず、こういった公式な場でなければ旧姓を名乗ることも多いこと…。

盛り上がる会話の中で、サエさんは自分についての色々なことを語ってくれた。

中でも一番驚いたのは、マサミとの関係だ。

中軽井沢倶楽部のテニスクラブ会員同士で、幼少期のキッズサマープログラムに毎夏一緒に参加していた幼馴染みなのだという。

「ええ!じゃあ、マサミも中軽井沢倶楽部の会員ってことですか?」

「そうよ。やだ、お友達なのにご存じなかったの?」

私が“TSUDAパール”を寿退社してから5年。マサミとはそれまで8年近く同期として働き、退職後も時間を見つけてはランチなどをして近況報告をしてきた。

もともと、社員は身元保証がされている女性が多い宝飾業界のことだ。

私も小学校から学習院で、中等部から慶應のマサミとは育ってきた環境が似ている自覚はある。

けれど、まさか同じテニスクラブ会員だったなんて。意外な共通点を今日まで知らずにいた私は、思わず素っ頓狂な声をあげた。


「マサミも同じテニスクラブだったなんて、全然知らなかったです!

私、夏は家族でハワイにいることが多くて、サマープログラムは参加したことなかったんですよ。だからかなぁ?もっと早く知りたかったなぁ」

驚く私に、サエさんはやはり優しい微笑みを浮かべる。

けれど、次の瞬間。その穏やかに口角の上がった唇からこぼれ出たのは、思いがけない言葉だった。

「そっかぁ。あの子、いつだって肝心なことは何も話してくれないからね。

さっきも、スピーチ聞いてびっくりしちゃった。コネ入社だったなんて、いかにも小ずるいマサミって感じで」

「…え…?コネ…って、そんな…」

思いがけない乱暴な言葉がサエさんから聞こえてきたことに、私は思わずぎょっとした。

― 今、なんて言った?信用が第一のこの世界で、繋がりがある子が重宝されるなんて当たり前のことだと思うけど…。

けれど、そんな私の内心など知ってか知らずか、サエさんは『いいことを思いついた』といった様子でパッと顔を輝かせる。

「そうだ。ねえ、今の歓談のうちに、新郎新婦のところへ行って写真を撮らない?実は、テニスクラブの関係者で来ているのは私だけで。多分、だからこうして麻帆さんの隣の席にしてもらったんだと思うの。

よかったら同期の皆様と、お写真ご一緒させていただけないかしら?」

あまりにも普通の様子で話し続けるので、たった5秒前の違和感を、つい忘れそうになってしまう。

― あれ…?私の聞き間違いだったのかな。

「あ…そうですね。もちろん!」

サエさんに尋ねられて、2人で話に夢中になっていた同期2人も、急遽快く承諾する。

席を立ち、同期と私、サエさんは、奇妙な違和感を抱えたままゆっくりと高砂へと向かって足を進めた。




輝くように美しい花嫁姿のマサミが、大輪のバラのような微笑みを浮かべて、私たちを迎え入れる。

「わあ、今日はみんな来てくれてありがとう!」

そして、一層親しみを込めた声で、サエさんの名前を呼んだ。

「サエ、久しぶり!今日はこのあとスピーチまで引き受けてくれて、本当にありがとう〜!」

「マサミ〜。綺麗だよー、本当におめでとう!」

お互いを笑顔で抱きしめ合うマサミとサエさんを見て、私はほっと胸を撫で下ろす。

― よかった。さっきは一瞬怖い感じがしたけど、スピーチを頼むほど気やすい関係…ってだけか。

はしゃぎ声をあげるふたりは、まるで少女のようだ。

目の前で繰り広げられる光景は、ふたりのあまりの仲の良さに旦那様が若干タジタジになっていることも含めて、微笑ましく美しい披露宴のワンシーン以外の何物でもない。

「撮りますよー!」

高砂前のカメラマンから声がかけられる。

スポットライトよりも一層まぶしいフラッシュの光が、幸福な新郎新婦と、祝福する私たちを照らした。




― あぁ、なんかまた涙出てきちゃった。やっぱり、結婚式っていいな。

人の幸せのお手伝いをしたい。そういう動機で“TSUDAパール”に入社した私にとって、結婚式はまるで夢のような感動に満ちた空間だ。気を抜くとすぐに、涙腺が緩んでしまう。

サエさんからもらったハンカチで目頭を拭おうと、一瞬下を向く。

けれどその時、私の視界の片隅に飛び込んできたのは───この幸福な空間にまるで似つかわしくない、異様な状況だった。

サエさんの履いている、真っ赤なエナメルのヒール。

その、凶器のように鋭いピンヒールの先が、美しく煌めく真っ白なマサミのウエディングドレスの裾を…踏みにじっている。

穴が開くほど、何度も、何度も、何度も───。




「はいっ、ありがとうございます!」

カメラマンがファインダーから顔をあげて叫ぶ。

その声にハッとして私も顔を上げると、サエさんの視線がじっと、怯える私の顔をまっすぐに捉えていた。

「あ…、じゃあ、マサミ。本当におめでとう」

見てはいけないものを見てしまったことに気がついた私は、マサミにそう告げると、逃げるように席へと戻る。

けれど、サエさんは隣の席だ。逃げることなどできるわけがないのだった。

「ねえ、ハンカチの使い心地はどう?」

私に遅れてゆっくりと席についたサエさんは、初めに話しかけてきてくれたのと同じ笑顔を浮かべて言った。

「ね、聞かせて。さっき、『10年も前にプロポーズされてた』って言ってたわよね?

私、マサミと彼のこと、もっと詳しく知りたいの。どうやらちょっと、私が聞いてる話と違ってるみたいだから…」

そう、逃げることなどできるわけがない。ここは閉じられた世界。たとえこの場を逃れたとしても、もう私の素性は知られるだろう。

私がマサミたちの馴れ初めを熟知していることは、バレてしまっている。

私はサエさんのハンカチと一緒に、席次表をぎゅっと握りしめた。

先ほどとは違う恐怖の種類の涙で、瞳を潤ませながら。


【スモールワールド相関図】


▶前回:慶應幼稚舎受験の直前。軽井沢の別荘で息抜きをしていたら…。母親が後悔することになった事件

▶1話目はこちら:友人の結婚式で受付を頼まれて、招待客リストに驚愕!そこには、ある人物が

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マサミに強い不信感を抱いている友人・サエ。彼女が送る祝福のスピーチ内容