オトナになったら、“卒業式”はないけれど、卒業したいものがある。

過去の恋に執着している自分、臆病な自分、人付き合いが苦手な自分…。

でも、年齢を重ねた分、思い出もたくさんあって手放しづらくなるのが現実だ。

学生のときみたいに、卒業式で強制的に人生をリセットできたらいいのに…。

そんな悩めるオトナたちが、新しい自分になるために奮闘する“卒業ストーリー”。

この春、あなたは何から卒業する?

▶前回:有楽町で映画デートの直後、険悪な雰囲気に…。男が上映中に犯した失態とは




Vol.5 恋人がいるのにいつも寂しい女(楓・27歳)


「え…」

西麻布交差点のど真ん中で、楓は立ち止まった。

スマホ画面にとんでもないものが表示されていたのだ。

『ご請求金額:\1,429,892』

クレジットカードの請求額を目にするたびに、楓はいつも思う。

― 不正利用されてる…!

けれど、明細をチェックすると、自分が使ったものだとわかる。

一つひとつには心当たりがあるのに、その総額には毎月驚かされる。今月は、楓の予想をはるかに上回った。

チカチカと点滅する青信号に急かされて、小走りしながら、楓は思い出していた。

友人と行った話題のレストラン。ついつい買ってしまったシャネルのマトラッセ。吸い込まれるように入ってしまったオリーブスパ。頻繁に利用するタクシー代もバカにならない…。

今月も、本当に欲しいかよくわからないままに、手を伸ばしてしまったモノたちがたくさんある。

― わかっている。年収に見合わない出費だってわかっている。やめなくちゃいけないって、わかってる…。

けれど、楓はどうしても浪費を止められない。

心にぽっかりと空いた穴が、寂しさが、お金を使うと少しだけ満たされる気がするから…。


楓はもともと、金遣いの荒いタイプではなかった。

両親に厳しく育てられた楓は、むしろきっちりしていた。マネーリテラシーだって高い。

立教大学を卒業し、大手金融機関に就職してから4年、こつこつ積み立て投資だってしている。

それが、半年前のある日を境に、たがが外れたようにお金を使い始めてしまった。




「これ、試してみていいですか?」

表参道のシャネルで、ずっと憧れていたプルミエールを腕に巻いたときのこと。

その華奢なゴールドとブラックのブレスを腕に巻いたとき、楓の胸はときめいた。

「かわいい…」

ずっと憧れていたものが自分のものになる。その高揚感は、楓を魅了する。

シャネルの紙袋を手に表参道の街を歩くのは心地よい。

高級感溢れる小さな箱をあけ、憧れていたものが自分の家に迎えられる瞬間は、たまらなくワクワクした。

会社に行くとき、腕になれない重さを感じるのも新鮮だった。

脳内にへばりつく嫌なことが、そのときばかりはかき消される気がしたのだ。

でも―。

それらの効力は1ヶ月も続かない。

どんなに憧れのものだろうが、高価なものだろうが、時間とともにその輝きは色褪せる。

徐々に萎んでゆく高揚感に反比例するように、寂しさが押し寄せる。

そして、またお金を使う先を探してしまうのだ。





楓がこうなってしまったのには、理由がある。

半年前、楓は恋をした。友達の紹介で出会った壮太という男に、一瞬で心を奪われた。

楓は彼に猛アプローチし、人生で初めて、自分から告白した。

そして、彼と付き合うことになった。

― 大好きな人が恋人になる。そんなシンプルなことがこんなにも嬉しいなんて…。

付き合った当初、楓は、天にも昇る気持ちだった。

それなのに…。

壮太は楓のことをまったく見てくれない。

連絡するのはいつも楓から。

デートに誘うのも楓。

楽しげな会話を切り出すのも、質問するのも、なにもかも楓から…。

自分からアプローチしていたから、当初はそれがしょうがないと思っていた。

けれど、“付き合う”ということに壮太も承諾したというのに、その態度は変わらなかったのだ。

― 私のこと、好きじゃないの…?

そんなことをモヤモヤと考えはじめていたとき、楓は知る。

壮太には、楓の他に思いを寄せている女性がいることを。

若手経営者としてちょっとだけ名を馳せている壮太は、同世代の経営者陣の中で有名人。だから、壮太にまつわるエピソードも、否応なしに楓の耳に入ってきた。

壮太は、その彼女からはずっとフラれ続けていて、寂しさを紛らわせるために楓と付き合い始めたらしい。

楓自身も、薄々勘づいていてはいたが、事実を知ったときはショックを受けた。

― けれど、壮太に想い人がいたとしても、恋人という1つしかない座についているのは、自分だけ。

楓は、その事実にすがった。

“いつか壮太は彼女を忘れて、自分だけを見てくれる日が来る”と信じて、楓は甲斐甲斐しく彼に尽くしてきた。

けれど、時間がたつにつれて、増えていったのは彼からの愛情ではなく、寂しさだった。

― 壮太の気持ちは、私に向いてない。


― 独りでいるより、寂しい…。

大好きな人が恋人になったというのに、楓が常に感じる感情はそれだった。

幸い友人にも仕事にも恵まれている楓にとって、一向に自分に振り向かない男性と形だけ繋がっているというのは、むしろフリーでいるより寂しいことだった。

そんなとき、プルミエールを購入し、楓は、心が満たされるのを感じた。




新しいものを購入すると、華やかな気分になる。

そして、壮太のことについてあれこれ悩んでいた弱い自分が吹き飛ぶ感覚がした。

― これ、いいかも…。

その高揚感が欲しくて、楓は欲しいかどうかもわからないものに浪費するようになってしまったのだ。

それから半年。

かろうじて借金はしていないけれど、コツコツ貯めた300万円の貯金はそこをつき、自転車操業のような日々。

― そろそろ止めなきゃ…。

わかっていたけれど、どうしても一度ハマってしまった浪費沼から足を洗えないでいた、




そんなときだった―。

「壮太…!?」

女性と一緒にいる壮太を見かけてしまったのだ。見たこともない、優しげな表情の壮太を―。

『天現寺カフェ』のテラス席で、柔らかい雰囲気を漂わせる美しい女性と向かい合って座っていた。

壮太の眼差しが、恋した相手に向けられた男のそれだというのは、楓は一目見てわかった。

そんな優しい彼の眼差しを楓が見たのは、初めてのことだった。

「……」

― ただカフェでお茶してるだけだし、浮気とは言えないよね。

楓は自分に言い聞かせる。

でも、百聞は一見に如かずというか、そのワンシーンが視界に入ったその時点で、楓の中でぷつりと何かが切れた。

「もう無理だ…」

ずっと思いを伝え続ければいつかは振り向いてくれる。いつか私だけを見てくれる。楓は、そう信じていた。

どんなに寂しくても、お買い物で紛らわしながらなんとか細い糸を紡ぎ続けたのだけれど、ここまでだった。

楓は、その場ですぐに壮太にLINEをした。

<楓:壮太ごめん、もう無理…。別れよう>

今まで全然返信をくれなかったというのに、今回だけはものの数十分で返信がきた。

<壮太:そうだよね、、、こっちもごめん。了解。今までありがとう>

あっけない返事。理由も聞かなければ、追いすがることもしてくれない。

― なんでよ…!この「、、、」の裏にはどんな気持ちがあるの?そんなにあっさり別れるって、なんで付き合ったの?私のことちょっとは好きだった?

聞きたいことは山ほどあった。

けれど、楓はもう返信しなかった。

彼のメッセージを既読スルーする。ちっぽけすぎるけれど、楓なりの当てつけ。少しだけでも、自分から彼に冷たい態度をとりたかった。

最後に感じる一抹の寂しさをかみしめながらも、楓は1つの恋に自ら終止符を打ったのだ。

穏やかな春の陽気の中で、失恋の悲しさと惨めさがじわじわと楓を襲う。追い打ちをかけるように、ほとんど0に近い口座の残高が楓の脳裏をかすめる。

心的にだけじゃない、物理的にもダメージを負った。

失恋の代償は大きかった。

「何やってるんだろう…私…」

激しい自己嫌悪に襲われると同時に、強い決心が沸き上がってきた。

「もっと、もっとちゃんと生きていこう…」




― 壮太のことが、本当に好きだった。

だから、彼を追いかけた過去の自分を責めることはしない。だけど、埋められない寂しさは、浪費なんかでごまかさず、ちゃんと壮太にぶつけるべきだった、と楓は思う。

― そうしたら、何かが変わっていたのかな。重いと言ってフラれたかもしれないけれど、それでもいい。

心にあるネガティブな感情は、問題と向き合うことでしか解消されない。

欲しいかよくわからないものを買い続けるような浪費は、自分の心の弱さによるものだったと、楓は今ならはっきりわかる。

失恋の痛みとともに、楓の胸に反省が強く刻まれる。

「もっと、強くなろう…。もっと、ちゃんと生きていこう」

― きっと、また恋をするだろう。また、満たされない思いを感じるときだってあるだろう。でも、そのときはちゃんと問題と真正面から向き合おう。

楓はこの春、浪費から卒業することを心に誓ったのだった。

Fin.

▶前回:有楽町で映画デートの直後、険悪な雰囲気に…。男が上映中に犯した失態とは

▶1話目はこちら:出会ったその日に“男女の仲”になったけど、ずっと曖昧な関係のまま。しびれを切らした女は…